[126ページ、セッション5のページ開始] [タイトル] 自らの「居場所」を見出すこと [リード文開始] 伝える、表すという行為の根本には、「こうしたい」と希求する意思と、ものごとに呼応しようとする身体がある。先天性盲聾者の息子をもつ田畑真由美さんと、聾者でコミュニケーターとして活動する和田令子さん、身体性に着目した美術教育を専門とする郡司明子さんは、それぞれ、わが子との触れ合い、自身の人生の歩み、こどもとの学びのなかで、そのありようを模索してきた。自身の感覚を通して世界を認識していくこと。その過程のなかに自らの居場所を見出すことについて、個々の経験をたどりながら言葉を交わす̶。(セッション5 世界と対話するための身体) [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 田畑真由美(読み:たばた まゆみ) 当事者支援、手話通訳士、社会福祉士 大学卒業後、証券会社勤務。こどもが難病に起因する盲ろう障害を負って生まれてきたのを機に退職。命をつなぐことに必死だった時期を経て、盲ろうの子の言語獲 得に試行錯誤、手話を学びはじめる。難病や先天性盲ろう児の当事者団体の運営にかかわる。多様な人々が集まる居場所、醸成される文化、その豊かさを子育てを通して知る。現在は盲ろう児相談支援員、手話通訳者、盲ろう通訳介助員、大学非常勤講師などを担う。 [写真:たばたまゆみの顔写真] 和田令子(読み:わだ れいこ) コミュニケーター、調布市聴覚障害者協会 理事 手話による絵本の読み聞かせや手話講師として30年すごし、自らの家を手話で語らい世界中から集う場所として、自分たちの言語や身体を起点にかたちづくる。聾者としての誇りを大切に、手話を日常に、の考えのもとフリースクールやコミュニティ活動を行う。現在は、どこでも・いつでも手話通訳を頼める社会の実現をめざす「プラスヴォイス」にて、情報バリアフリーの推進に取り組んでいる。2024年より東京家政大学非常勤講師。 郡司明子(読み:ぐんじ あきこ) 群馬大学 共同教育学部 教授 専門である美術教育において、身体性を重視した実践・理論研究を展開。小学校教員として日々の暮らしに基づき衣食住をリソースとしたアートの教育実践を行ってきた。近年は、インクルーシブアート教育の観点から学校教育のあり方や社会的な課題に関心を向けている。親子を対象にしたアートワークショップや保育者・教員向け学習会も開催。群馬県特別支援学校文化連盟顧問、教育美術振興会評議員なども務める。 [写真:ぐんじあきこの顔写真] [登壇者プロフィール終了] [本文開始] [小見出し] 身体がひらく、世界の豊かさ [郡司]  わたしは美術教育の表現の源となる「からだ」に着目して、小学校の教員として身体性を重視する教育の可能性を探ってきました。現在は群馬大学共同教育学部で、やわらかな学校教育のあり方に美術がどう貢献できるかを模索中です。  これまでに出会った言葉のなかで、自分の美術教育の大きな礎になっているものがあります。それは、鷲田清一さんの「対象にナイフの切れ味を押しつけるのではなく、対象がナイフの研ぎ方を示唆してくるその声を聴くべきなのだ」(『「聴く」ことの力 臨床哲学試論』、TBSブリタニカ、1999年)というものです。自分が「こうしたい」と表す以前に、対象の方が呼びかけてくれる。ものに向かうときにそのものが言っていることを聴く。そんな身体を楽しむのも、図工美術にできることだと思っています。  電動ノコギリで木を切る男の子の様子を見てみましょう。木を切る感触を通じて、こどもたちは「ものが嫌がっている」と言うことがあるんです。すると「もうちょっと力を抜いてみよう」と、ものとの関係から自分の身体の調整をする。このような呼びかけ、応答、修正の関係性が、図工の造形活動のなかにはあります。また、ものだけでなく出来事や人、場所との関係の中核に自分自身の「からだ」があり、こどもは世界を探索していきます。想像と創造は、そのなかで「からだ」を通じて生まれていく。こどもたちとは「身体性を活性化する視点」として、描く、つくるといった行為以前の自分の「からだ」を「ひらく」こと、「感じる」こと、対象に「問う―聴く」こと、美術作品に「なりきる」こと、「見る―表す」こと、自分の体で「味わう」ことも授業のなかで大切にしてきました。  それらがもとになって、現在大学の授業では、教員志望の学生たちに図画工作科指導法の学びとして「からだワークショップ」を行っています。ここには、ダンサーの方に来ていただいて、他者の身体と触れ合い、交わり、イメージを働かせ、ほぐし、お互いに支え合い、委ね、受け止め、みんなで一つの空間をつくり出すことで、ものごとの成り立ちを自分の身体で実感する。そんな試みも行っています。 [写真:「からだワークショップ」の実施風景]  また、「コミュニティ学習ワークショップ」という美術系の学生を対象にした授業では、これまでさまざまなアーティストの方とともに、特別支援学校の多様な身体性をもつ人たちと活動してきました。学生に多様なこどものあり方や、アーティストとともにつくり出す空間を感じて、教育現場に出てほしいという願いを込めています。セッション4にも登壇されたダンサーのじゃれお理さんや、全盲の文化人類学者である広瀬浩二郎さん、肢体不自由でダンサー・女優の森田かずよさん、そしてハンドルズという、ハンディキャップという言葉が由来のダンスチームにも講師になっていただき、一緒にダンスを楽しむこともしました。  そういった取り組みを行うなか、2023年に開催されたクリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョーの「だれもが文化でつながるサマーセッション」での作品展示で、TOUCH PARKとの出会いがありました。これは触覚で楽しむ遊具をデザインするプロジェクトで、盲聾者のアイデアが具現化されたものです。わたしも目を閉じて手すりをたどりましたが、空間のおもしろさが印象的でした。こちらをつくったのが、田畑さんの息子さんである田畑はやとさんや、和田さんの娘さんである和田夏実さんがメ ンバーのコミュニケーションデザインコレクティブ・ MAGNET。ものに触れたり、人とかかわったりすることからこんな魅力的なものが生まれるんだと、非常に触発されました。 [写真:「だれもが文化でつながるサマーセッション2023」におけるTOUCH PARKの展示photo: Masayoshi Waku]  わたし自身も大学の学生と一緒に、地域と響き合う「場」としての身体を模索するため、2023年の中之条ビエンナーレに中之条芸術大学@グンダイビジュツとして参加しました。「CONTON_meeting」という、一般社団法人メノキを立ち上げた全盲で彫刻家の三輪 途道さんたちとの共同企画展示です。香り、音、触覚など多感覚で世界を楽しむというものですが、そこでわたしたちは「感覚の時間くつぬぐ?」という足裏の感覚で遊んでみる活動をしました。こういった実践も行っています。 [写真:「感覚の時間 くつぬぐ?」の活動] [和田]  では、わたしも自己紹介を。わたしは二人姉弟で、弟も聾者、両親は聞こえる人です。なので、聞こえる人が二人、聞こえない人が二人という家庭で育ちました。わたしには娘が一人おり、いまイタリアのミラノ工科大学で研究を行っています。姪も娘と同じコーダ(聞こえない親をもつ聞こえるこども)で、インドネシアで仕事をしています。二人とも両親の手話を見る環境で育ち、物怖じせずに海外で働いているんです。  世界は広いなと感じるきっかけとなった経験があります。1990年、当時はバブル期で経済がとても豊かでした。そのとき読んでいた雑誌で、国際文化協会主催のフランス国際親善ツーリングの募集があると知り、応募して何度かのテストで25人のメンバーに選ばれ、憧れのフランスに行ったんです。凱旋門からスタートして、フランスの北側半分を1周するコースで、最後はル・マンを回るという1800kmほどのツーリングでした。 [写真4枚:フランス国際親善ツーリングに参加した当時の様子] 左上の写真に写っている3人は全員聾者。25人のメンバーのなかに聾者は3人です。右下の写真は、着物に着替えて、ナンシー、レンヌなどの各市庁舎を訪問したときのもの。フランスのガストン・ライエ・レーシングチームと合同でツーリングしたのですが、日本とフランスの文化の違いもあり、いろいろと対応し合って感動する旅でした。これが初めての異文化との触れ合いです。  次の世界との触れ合いは、1991年7月に開催された「世界聾者会議」。日本で初めて世界中の聾者、通訳者が一堂に会する機会で、参加してものすごく衝撃を受けました。 会場に集った人は、日本語、英語に沿った手話ではなく、視覚的にわかりやすいCL(Classifier/ものの形状や位置、大きさ、動作などを手のかたちや動きで置き換えて表現する)、NMM(Non-Manual Markers/表情や身体の動きで感情や程度を表現する)という文法を取り入れた手話で話していたんです。アメリカの通訳者の質の高さにも驚きました。  そして、先日ダイアン・キートンというアメリカの俳優がお亡くなりになりました(2025年10月11日逝去)。わたしはとてもファンだったんです。彼女が出演した映画『幸せのポートレート』(トーマス・ベズーチャ監督、2005年)にカルチャーショックを受けて。アメリカでは聞こえないこどもが生まれたら、家族みんなで手話を覚えるのが当たり前なんですよね。これはそういうことが描かれている作品です。残念ながら日本では、学校から社会に出たときに迷惑をかけないよう、口の動きを読んだり、声で話せるようにしたりする教育を行っています。家のなかでもそのようにされるので、こども時代に楽しい思い出がないという人も多いんです。みんなが手話で話せるようにしたいという想いは、わたし自身の居場所となる家づくりにもつながっていきました。 [郡司]  今回のセッションを行うにあたり、わたしたちは打ち合わせを兼ねて、長野県にある和田さんのお宅へお邪魔しました。手話での視線の動きも含め、視覚を中心にしたやりとりがスムーズにかなうお宅で、常に空気が動いているような爽やかな空間です。あとで詳しくご紹介いただきましょう。 [田畑]  わたしは手話通訳士・社会福祉士の資格を得て活動していますが、すべてに共通しているのは、人と言葉にかかわる仕事だということです。また、個人的な子育てのなかで培われた専門性をいかした仕事でもあります。ここで、わたしのこどものことを紹介したいと思います。息子、田畑はやとは難病に起因する先天性盲ろう障害があり、第一言語は手話です。コミュニケーション方法は、触手話、指点字、デバイスを使っての筆談だったり、いまは国際手話も勉強していたり。何が言いたいかというと、わたし以上にコミュニケーションモードの種類をもっているんです。また、触覚デザイナーとしてさまざまな活動をしていて、令子さんのお嬢さんの夏実さんと一緒に、さきほど郡司さんのお話にもありましたMAGNETというチームを組んで、ユニークで豊かな取り組みをしています。  みなさん、盲聾者と会ったこと、話したことはありますか ?盲聾者は、障害の経緯や状態、程度によって、コミュニケーション手段もさまざまです。多くは第一言語を獲得したあとに盲ろうになったという人で、第一言語を獲得する前に障害を負った、いわゆる先天性盲ろう児者は少ないです。  盲聾者には、非常に豊かな文化があります。みなさんもヘレン・ケラーをご存じかと思いますが、生まれつき盲ろうのこどもが言語を獲得するのは大変なんです。それは、この世界に言葉があることを伝えるのが、非常に難しいからです。生まれつき盲ろうの多くのこどもたちは、実体験を積み重ねて概念形成します。そして、その概念に「名前」をつけて言葉を獲得していきます。 先天性盲ろう児とその家族を対象とした相談支援の仕事で、多くのこどもとかかわるなか、非常に重要なポイントがわかりました。それはわたしたちの言語をこどもに教え込もうとするのではなく、逆にこどもからわたしたちが学ぶ姿勢が絶対に必要だということです。人は心が動く経験があれば、自分で言葉をつくるんです。こどもたちがつくった言葉をわたしが使うことによって、「あなたが言おうとしていることをわたしはわかっているよ」と、フィードバックしてあげるんです。その双方向のやりとりを繰り返すなかで、こどもは言語やコミュニケーションを構築していきます。まずは実体験から豊かな概念形成をするということが何より大事なんです。  わたしのこどもも幼稚園の頃は、言語をまだ獲得していませんでした。 横浜市港南区に宝島幼稚園[注1:宝島幼稚園1976年に横浜市港南区で開園。〝遊び〞を中心としたオリジナルのカリキュラムで、一人ひとりの個性をいかし、その資質が十分に伸ばされることをめざす。「ファンタジーはこころの種」「バリア・フリーの空間」「自然と共に生きる空間」という三つの設計コンセプトをもち、園舎は階段状に並ぶ教室や吹き抜けのホール、二重螺旋のスロープなどの空間、また丘や森、畑のある園庭を有する。こどもの知性と感性を豊かに育む教育が特徴。注1終了] というすばらしい幼稚園があって、そこがわが子の内面を育ててくださいました。ハードの面でもソフトの面でも、心躍るような体験があふれている幼稚園です。園舎の教室はとてもユニーク。園庭にはイサム・ノグチによる作品もあり、こどもたちは遊具として日常的に遊んでいます。絵の具でその作品に色を塗ったりもして。いわゆる美術品としての触れ方ではなく〝気持ちのいいもの〞として、みんな自由に触れています。この幼稚園との出会いが、わたしたち親子にとって非常に大きかったです。 [写真2枚。1枚目:園舎の様子。2枚目:イサム・ノグチ《赤の遊具》]  かつてわたしは金融機関で働いていました。投資コンサルタントをしていたので、朝になると前日深夜のニューヨークの株式市場を必ず確認して、世界の経済動向を全部チェックして、東京マーケットが開くのを待つ、そんな生活をしていました。その頃、わたしは世界を相手に仕事をしていると思っていたんです。生まれたこどもに障害があったので仕事を辞めましたが、自宅の小さな部屋でわが子と二人きりで対峙するのは、狭いところに閉じ込められた感じがあって、すごく苦しかった。なおかつ、目と耳両方の障害のためにコミュニケーションができなかったので、深海に落とされたような気持ちでした。でも、とにかくいろんな経験をすることによってこの世界を知っていくことが、わが子にとっては何より大事なんだとわかっていきました。  些細なことでも実体験が重要。毎日必ず外出する。そうすると、季節によって空気感が全然違うわけです。石に触らせ、土に触らせ、葉っぱに触らせ、お花に触らせる。スーパーに行ったときにも、そこに並んでいる品物のことをちゃんと伝えないと、自然に湧き出て並ぶと勘違いします。だから、これはどこにどうあったのか、一つずつ全部教えなきゃと思い、畑に連れて行ったり、地引網を経験させたり、一緒に造幣局に行ったりして、とにかく身体で理解する経験を積み重ねていきました。  そうすると、わたしにとっても大きな気づきがありました。自分の身体で触れて、感じて、ひらいていったものこそが世界だと気がついたんです。子育ての時間は、わたし自身が世界を知り直す時間でした。視聴覚に頼らないコミュニケーションだったり、言葉による表現では限界があるような世界の豊かさだったり。わが子に寄り添うなかで、人として大事なことを知ることができたなと思っています。  わたしは、盲ろうのこどもの相談支援の仕事をしていますが、「盲ろうのこどもには価値がない」とか、「普通でないことは不幸に違いない」とか、そういった固定観念が家族をとても苦しめているんです。かつて、わたしのこどもと同じ病気の子に医療過誤があって、病院に対して裁判を起こそうとした方がいます。でもそのとき、弁護士の先生からは「やめた方がいい」と言われたそうです。なぜかといえば、逸失利益がゼロ円だからということでした。  もしかしたら、わたしのこどもも社会経済的には価値はゼロかもしれません。けれども、わたしは自分のこどもがひらいていく世界はすばらしく、大きな価値があると思っています。わたしのこどもに限らず、ユニークな身体性の人たちがひらいていく世界というのは、新たな気づきにあふれています。この豊かさを多くの人と共有したいと強く思っているんです。障害者や外国人といった、自分の世界とは違うところにいる人とかかわるときに、ストレスを感じることもあるとは思いますが、同じ場を共有して対話をすることで、宝物のような発見があるはずです。 [小見出し] 自らを解放し、世界と向き合う術 [郡司]  わたしも美術教育での身体性を考えてきましたが、お二人の話から身体についての深い気づきや、世界とのかかわりが見えてくるような、そんな想いを抱きました。この話をもう少し深めていくために、わたしから三つの話題提供をさせていただきます。  まず一つ目は、「自由学園と映画『絵を描く子どもたち』」です。羽仁もと子・羽仁吉一ご夫妻は、こどもたちのあり方、学びのありようを「自由」という言葉で表し、1921年に自由学園を創立されました。そしてその孫の羽仁進さんという映画監督が、『絵を描く子どもたち』というドキュメンタリー映画を1956年に制作された。これは美術教育を学ぶ学生たちにとってのバイブルで、いまも見続けられている作品です。それまでの臨画といった、お手本を写す教育から解放されて、自分でテーマを決めて描くことができるようになった創造主義の時代。戦後日本の復興のなかで、美術教育が非常に注目されていた頃に撮られたもので、こどもたちが絵を描くことで、社会的な抑圧、心理的な抑圧から解放されていく1年間をつづっています。  自由学園の最初の美術教育の指導者には、洋画家の山本かなえが選ばれました。この方が創立から20年以上にわたり展開した「自由画教育運動」は、対象を自分の目で見て、自分の手で表現することを推奨したものです。田畑さんがお話ししてくださった、自分の感覚、行為で世界を広げていくという考え方の大元が、ここ自由学園で生まれたと言っても過言ではありません。ここは美術教育の聖地なんです。生活をつくり上げていくなかで社会を変えていこうというメッセージが、教育に埋め込まれているんですね。 和田 田畑さんの息子さん、はやとさんとお会いしたことがありますが、とても明るくて個性的。手話で育てられたということも関係しているのかなと思います。田畑さんのお話でヘレン・ケラーが出ましたが、彼女を題材にした映画は、聾者からはあまり評判のいいものではありません。「水」という概念を、水をかぶって体で覚えさせるのは、虐待のような描写ですよね。昔はそういう手法だったんです。わたしの両親は手話ができなかったので、聴者の首に触ることで、声の出し方を教えようとしました。でも、わたしはどういう意味なのかがわからず、よく怒られて。とにかく体で言葉を覚えるという方法はわたしの時代にもありましたが、いい記憶として残ってはいないんです。でも田畑さんは、お子さんのために手話を覚えて、自由な幼稚園に通わせた。サポートがあったからこそ、いまの息子さんがあるのだと思います。  ひとつお話ししていいでしょうか。10年くらい前にカンボジアに行ったんです。そのときに、ろうのこどものための学校が二つあって、一方は聴者の牧師さんが建て、もう一方はアメリカから来た聾者が建てました。わたしはいま64歳ですが、カンボジアにはこの世代の聾者がいないんです。ポル・ポト政権時代に、わたしと同世代の聾者はみんな処刑されてしまい、ろう教育も崩壊してしまいました。それにより、アメリカから来た聾者が、手話を教えるワークショップを行う学校ができたんです。自由学園の話を聞いて、カンボジアのことを思い出しました。 [田畑]  確かに和田さんのお話を伺って、「そうよね……」と思いました。わたしのこどもは中学生のときに初めてヘレン・ケラーの本を読み、「三重苦」という言葉に出会いました。びっくりした顔で、わたしに向かって「僕は三重苦なの?」と聞いてきたんです。それで、「自分ではどう思う?」と聞くと、「三つも苦しみが重なっているなんて思ったことはない」と。「そうなんだ。それはいいね。あなたは幸せだね。でも、あなたの周りの人はほとんどみんな、あなたを三重苦だと、気の毒に思っているんだよ」と言いました。すると、すごくびっくりしていたんです。わたしのこどもは自由学園にあるような、その子ならではのよさを解放していくような環境に恵まれてきました。それが「僕は三重苦だとは思わない」という言葉につながっているなと思います。 [郡司]  ありがとうございます。これからお伝えする二つ目の話題も、感覚を広げていくことにつながると思います。わたしが美術教育の先行研究として学んでいるのが、北イタリアのレッジョ・エミリア市における「100の言葉の考え方」というものです[注2:レッジョ・アプローチ。北イタリアの都市レッジョ・エミリア市で行われている幼児教育。「こどもを有能で創造的な存在」と捉え、環境や対話を重視した探究的でユニークな教育法は、「最も革新的な幼児教育(『ニューズウィーク』誌、1991年)」で紹介され、世界中の注目を集めた。レッジョ・アプローチは、その礎を築いた教育者ローリス・マラグッツィの「100の言葉」の考え方を基にしている。こどもは「100の言葉」をもつとし、無数の方法で世界を理解し表現する力をもっており、その可能性を奪わず育むというものである。注2終了] レッジョの教育はこどもへの眼差しが非常に際立っていて、こどもの権利、こどもの尊厳を誰もが大事にしている文化があります。レッジョにおけるこども観は、「こどもは生まれながらにして市民であり、有能な学び手」というもの。確かにこどもたちの聞き、触り、見て吸収する力は、われわれ大人よりも長けています。  レッジョの幼児教育を牽引したローリス・マラグッツィは、喋ったり書いたりしている言語を超えて、こどもの声、表情、身体の動き、そして描くこと、奏でること、踊ること、つくること、それらすべてが言語なのだという考え方を示しています。言語があるということは、やりとりが可能ということですよね。言語を受け止め、それにフィードバックできる。こどもは100の言葉をもっている、だけど学校文化がその99を奪っていると、マラグッツィは警鐘を鳴らしました。  そう思うと、手話や触手話の微細な表現には本当に豊かな文法があると言えます。いまは世界各国を駆け回っているはやとさんも、小さい頃には触覚過敏があったと伺いました。そこから、どのようにご自身の世界を展開されてきたのか、お聞きしたいです。 [田畑]  小さい頃は手だけではなく、身体全体でものに触れることを怖がっていました。それは当然だと思います。見える人、聞こえる人であれば、母親が「楽しいよ、気持ちいいよ」と話す言葉や表情、聴覚と視覚の両方から情報が入って、触れることの怖さが自然に取り除かれると思うんです。だから本当に少しずつ少しずつ、薄い紙を重ねていくような経験を経て、息子はものにちゃんと触れるようになりました。「こうやって世界を知ることができるんだ!」という気づきを得てからは、積極的に触るようになり、ともに言葉をつくっていくことができました。  盲ろう児教育において、その子の微細な身体の動きを見ることは、基本中の基本です。心が動いてから身体が動くので、その子は何を感じ、何を伝えようとしているのか、かすかな動きを見逃さないことが必須です。 [和田]  ちょっと話が逸れてしまうかもしれませんが、みなさんチャップリンはご存じですよね。チャップリンは映画を制作するときに、必ず聾者のスタッフに協力依頼をしていたそうです。顔の表情はこれで本当に伝わっているのか、眉の動きはこれでいいのか、口の使い方は合ってるのか、そういった確認を聾者にしてもらっていた。当時は、聴者が聾者の力を借りることがあまりなかった時代ですよね。でも、実は昔からそういうことは行われていた。見えないけれど、もっている才能がある。聾者だからできること、聴者だからできることをお互いにうまく持ち寄って、いいものをつくっていく社会に全体的に変わっていったらいいなと思います。 [小見出し] 居心地のよい、生きるための場所 [郡司]  三つ目の話題提供は「居場所としての洞窟―洞窟壁画―」です。今回のオータムセッションは「居場所とわたし」がテーマですので、こちらを取り上げました。建築の根源は洞窟だという考え方があります。やはり、雨風や嵐から自分の身を守るために洞窟のなかで暮らし、対話をしていたんだと思うんですね。  フランスの南部、ショーヴェというまちにある約3万2000年前の洞窟には壁画が描かれ、それはアニメーションの原点とも言われています。言葉以前に、人々は描くことを通じてやりとりをしていた。洞窟は生命維持の場所であり、呪術的、神聖な場所であり、祈りを描く場所でもありました。ショーヴェの洞窟はそうした、人々の居場所であった痕跡をいまに伝えるものだなと思います。さて、居場所の話題が出たところで、和田さんが自らの身体感覚をいかしてつくり上げてきた居心地のよいご自宅を、みなさんと一緒に拝見したいと思います。 [和田]  まず、わが家の入り口です[写真:入り口の外観]。二つ目の写真[写真:ガラス張りのひさし]は2階から見下ろした様子。一般的なひさしの材質と異なり、この家はガラス張りのひさしなので、誰が来たか2階から見てわかるようになっています。そして玄関[写真:玄関からリビングをのぞいた様子]。家のなかに入ると、「部屋に誰かがいるな」とわかります。透明なガラスだと、開けたときに着替えていたりするとよくありませんから、半透明のガラスにしました。玄関のかまちにも工夫があって、少しカーブがかかっています。人と隣り合わせて何かを見て話すときなどに、直線だと相手の顔が見えないので、表情と手話が見えるように丸くしました。  そして、室内には9mの吹き抜けがあります。パソコン室が2階にあり、1階の奥がキッチン。わたしはキッチンに立っている時間が長いので、そこから家族がどこにいるのか見渡せるような設計にしています。お手洗いはドアの上部にガラス窓があり、使用中かどうかを電気がついているか消えているかで判断できるようになっています。引き戸なので、使っていないときは少し開けておくようにもしています。この家には開き戸が2か所だけで、あとは全部引き戸。聾者は開き戸だと、急にドアが開いて人とぶつかることもあるんですね。また、洗面所は、さきほど郡司先生からもお話がありましたが、洞窟をイメージしています。歯磨きや洗顔をしているときに丸見えなのはよくないなと、入り口の輪郭にカーブをかけました。  最後にリビングです。テーブルは二つあり、お互いに顔を見合わせて喋れるよう丸いかたちを選びました。階段にも座れるので、15人ぐらいでも話ができるようなつくりになっています。今年初めてフランスの聾者がこの家に遊びに来て、撮ってくれた動画をInstagramに載せたところ、25万人の方々が見てくれました。聾者だけではなく、聴者からもこの家は参考になるとコメントをいただいたんです。  土地を見つけたのが約30年前、家を建てたのは23年ほど前のこと。当時はろうの建築士がいなかったので、自分の想いを建築会社にどうやって伝えたらいいんだろうと、写真や記事を切り抜いてスケッチブック2冊に貼りつけ、仕様を決めていきました。大変でしたが、いま見ると懐かしい思い出です。 [田畑]  和田さんのお宅に入った瞬間、「うわ!」と声を上げそうになりました。血が通った、ぬくもりのあるお宅だなと思ったんです。ドアの取っ手が動物のかたちをしていたのもすてきでした。伺うと海外のアンティークとのことでしたが、「なぜあそこは鳥なんですか?なぜこちらは猿なんですか?」と尋ねると、家族の干支だとおっしゃったんです。愛がお家のなかにちりばめられているんですね。  聾者にとって心地のいい家は、盲聾者にとっても心地がいいだろうと感じました。なぜかというと、家のなかのもの一つひとつのかたちがユニークで、触感が非常に馴染むんです。家という基本的な居場所が気持ちよく感じられるということは、あらためて人が生きる上ですごく大事なんだと、和田さんのご家族に教えていただきました。 [小見出し] 一人ひとりに目を凝らし、世界を見渡す [田畑]  和田家のみなさんに、わたしはものすごく感謝しているんですよ。いわゆる福祉障害という枠組みではないフィールドで、わたしのこどもが触覚デザイナーとして活動できているのは、夏実さんのおかげなんです。夏実さんは、これまで出会ってきた人とは違った見方で、はやとに価値を見つけてくれた人です。  わたしはこどもが小さい頃から、この子はすごくおもしろい、いいものをもっていると思っていましたが、親が言ってもただの親バカ。ましてや障害のある子なので、「お母さん偉いですね」と言われてしまうわけです。  でも、夏実さんははやとが放つ光を受け取って、それを世界につないでくれた。その夏実さんを育てたのが令子さんなんです。だから夏実さんのご両親を本当にすばらしいと思っていますし、夏実さんの感性が、どのように生まれてきたか興味があります。 [和田]  わたしが20代の頃、両親とイタリア、フランスを旅行したことがあったのですが、両親はそこで初めて、現地の方が聾者に対して大変わかりやすいジェスチャーで話したり、通じるまでしっかり向き合ってコミュニケーションを取ろうとしたりする様子を目の当たりにしたんですね。それから、わたしに対する態度が一変したんです。  海外の聾者たちが子育てするときは、基本的に手話で話しかけて育てます。わたしもこどもが小さいときから、手話で話しかけて育ててきました。そうして夏実が手話を好きになって、はやとくんとつながって。不思議なご縁を感じています。 [田畑]  郡司先生に一つお伺いしたいことがあります。表現を行う以前の身体を大事にされるというあり方に感銘を受けたのですが、そのような考えをもたれるきっかけは、なんだったのでしょうか? [郡司]  美術教育というと、完成度が高い作品をつくらねばならないと思われがちです。もちろん、集中力や粘り強さを身につけるために、そうした目標意識をもつことも必要ですが、それ以前に発露する表現もありますよね。何か人に伝えたい、分かち合いたいという、身体のなかで生まれる根源的な想い。それを小さい頃から耕し続けることが大事だと思っています。  こどもたちはいろいろなことを知っていますが、実際には経験をしていない。そのために頭でっかちになってしまうことが、いまの学校教育では往々にしてあると思うんです。なので、あらためて自分の身体に聞く、自分の身体で知るところからはじめたいと考えています。  さて、あっという間に時間が来てしまいました。最後にメッセージをいただいて、この場を閉じたいと思います。 [和田]  以前は旧優生保護法があり、もしそれがいまも続いていれば娘はいなかったかもしれませんし、家をつくるときにも銀行からお金を借りられなかったでしょう。障害者基本法ができ、社会の理解も少しずつ広まってきたおかげで、いまがあると感じます。 [田畑]  個人の体験の積み重ねが今日、この日につながっていると思うと、非常に感慨深いものがあります。やはりそれぞれの生き方、日々を感じる心が、大きな世界に羽ばたいていく。一人ひとりを大事にしながら、広く社会を見据えていく視点をもっていきたいと思いました。 [引用・参考文献] 注1:宝島幼稚園、 宝島幼稚園「教育方針・特色」「宝島幼稚園について」 2026年2月19日取得 https://tkj.boy.jp/wp/ 注2:レッジョ・アプローチ、 レッジョ・チルドレン、ワタリウム美術館編、2012年『子どもたちの100の言葉』田辺敬子他訳、日東書院本社。 ワタリウム美術館編、 2011年『驚くべき学びの世界―レッジョ・エミリアの幼児教育』佐藤学監修、東京カレンダー [セッション5のページ終了] [154ページ、テーブルトークのページ開始] [タイトル] 盲ろうの世界に触れる 世界を知る方法としての触覚 [リード文開始] 視覚と聴覚の両方に障害がある盲聾者は、どのように言葉や世界を認識し、いま生きる社会を捉えているのだろう。当事者として触覚を通じたコミュニケーション・情報伝達を研究する田畑はやとさんと森敦史さんが、自身の経験をもとに語り合った [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 田畑快仁(読み:たばた はやと) 京都芸術大学大学院芸術研究科芸術環境専攻 先天性盲聾者。第一言語は手話で、接近手話、触手話、指点字、筆談などを駆使。触覚サインシステムを研究しながら幅広いプロジェクトに取り組む。「Sky さくら」という名前でデザイナーとしても活動中。触覚デザイナー、アーティスト、 [写真:たばたはやとの顔写真] 森 敦史(読み:もり あつし) 筑波技術大学障害者高等教育研究支援センター研究員 先天性盲聾者として日本で初めて一般大学に進学。筑波技術大学大学院修了後、盲ろうに関する研究活動に従事。「クリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョー」の都立文化施設の環境整備に関する検証・分析にも参画。 [写真:もりあつしの顔写真] [登壇者プロフィール終了] 「こんにちは。筑波技術大学から来ました、森敦史です。研究員をしております。わたしは生まれつきの盲聾者です」 「わかりました。こんにちは。僕は田畑はやとといいます。触覚デザイナーをしています。そのときに使う名前は、〝Skyさくら〞と名乗っています。僕もあなたと同じように、生まれたときから盲ろうです」 「今日は二人で、いろいろなお話をしたいと思います。よろしくお願いします」 「よろしくお願いします。楽しくディスカッションしましょう〜!」   はじめに交わされたのは、こんなふうに和やかな自己紹介だった。これらは声でやりとりされたのではない。田畑さんと森さんは向かい合って、手話をする相手の手に自分の手を重ね、言葉を読み取っていく。 [写真:もりあつしとたばたはやとがお互いの方へ体を向けて触手話でコミュニケーションをとる様子] そして、その触手話のやりとりを、手話通訳者が手話と音声に訳すことで、参加者も対話の内容を認識する。言葉が会場の前方に立つ二人の手指の動きにあること、意思を伝え合う営みがそこにあることに、会場一帯が目を引きつけられた。拍手の代わりに響くのは、参加者による足踏み。その振動が、リアクションとして田畑さんと森さんの身体に伝わる。 [写真:もりあつしとたばたはやとがそれぞれ手話通訳者と触手話で話す様子。] 手話を用いる二人だが、言葉の体得には、こども時代からの〝ものを触る〞積み重ねが あった。田畑さんは、幼い頃を「耳の聞こえない、目の見えない狭い世界に閉ざされていた」と振り返る。しかし、こわごわとしながらも、積極的に多様な経験がしたいと、あら ゆる場に出向くことで、場の状況を把握しながらものごとを知っていったという。森さんも同様に、海水浴や山登り、スキーにキャンプ、庭や公園での遊び、畑の収穫などさまざまな経験をした。 「印象に残っているのは、祖母の家で栗拾いをしたこと。そのときに、イガがとても痛くてびっくりしたんです。〝これがイガなんだ〞と感じることで、言葉を覚えていきました」と森さんは語った。 二人は、一人で移動したり、あらゆる場所へ赴くこともある。田畑さんは、「電車に乗る体験について、お話しいただけますか?」と森さんへ投げかけた。ここで話されたのは、視聴覚によらずどのように到着駅にたどり着くのかということ。森さんは点字ディスプレイ(文字情報を点字で表示する機械。インターネットに接続し、森さんはスマートフォンのように活用している)により位置情報を確認することもできるが、体感的な方法として「めざす駅が何駅目なのか、何分かかるのかを事前に調べておくこと。あとは、たとえばつくば駅のような終着駅だと、線路が分岐する際に揺れを感じるポイントがあります」と話した。 一方の田畑さんは、「僕は新宿や渋谷に行っても混乱しません。不思議でしょう?」と会場へ語りかける。確かに、どうやって複雑な駅構内を把握しているのだろう。その方法は「頭のなかで地図を思い描く」ことにある。それをもとに動線を決め、風の向きや空気感などから自らの位置を認識していくのだ。 [写真:外から窓越しにテーブルトークの様子を除く構図。もりあつしが手話で話し、たばたはやとが手話通訳者と触手話で話している。]  二人の足取りは海外にもおよぶ。田畑さんは2024年にヨーロッパ各国を訪れ、美術鑑賞や現地の盲ろうのこどもとのワークショップなどを行った。そして、その際に印象的だったコミュニケーションの仕方について、このように語った。「あいさつをするときにハグをしたり、頬に軽くキスをしたり。盲聾者は、触れ合わないと相手のことがよくわかりません。お互いの想いを伝えるために、日本でも親しい人の間で、こうしたコミュニケーションができるといいなと思いました」 森さんも、アジアや欧米を訪れた体験を振り返る。「アジアは道路が細くでこぼこして、バイクの往来が激しく歩くのが大変な場所もありましたが、欧米は道が広く平坦。現地で入ったレストランの椅子やテーブルの置かれ方、食べた料理の素材や味などからも、ローカルイメージをつかむことができました」   田畑さんと森さんの対話から感じるのは、二人がいかに「触覚」を通して文化を、ひいては世界を捉えているかということだ。そこには、目が見える・耳が聞こえる人々が体感し得ない、ものごとを享受する豊かさがあるのかもしれない̶̶触手話と手話を行う手の動きを見つめながら、そんな想いが湧いた。  田畑さんは自身の体験を触覚を通して感じることのできるシステムを研究し、2026年春からは、触覚デザイナーの活動を社会人として展開する。森さんは触覚をいかし美術鑑賞を行う環境整備に取り組んでいる。二人の取り組みから、わたしたちの世界の捉え方も変わるかもしれない。 [写真:もりあつしとたばたはやとがそれぞれ手話通訳者と触手話で話す様子。] [テーブルトークのページ終了]