[193ページ インサイトのページ開始] [タイトル]アートと障害の可能性と創造性 東京大学大学院総合文化研究科教授、 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)センター長 梶谷真司 アートと障害が交差するところは刺激的だ。そこは福祉とか人権とか配慮とか共生とか、いろいろ難しいことが言われるが、わたしには単純におもしろい。 2019年からTURN(注:2015年度から2021年度まで東京都事業として実施された、多様な人々の出会いによる相互作用を、表現として生み出すアートプロジェクト。交流プログラムや福祉施設・アーティストとの協働プロジェクトの実施、対話の場づくりや活動発信などを総合的に行う。注終了)の活動に参加し、また昨年2024年からクリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョーにも呼んでいただいている。それでわかったのは、この二つはどうも相性がいいらしいということだ。でも、なぜなのか。 アートの可能性 アートの役割・意義とはなんだろうか。絵画や彫刻、工芸や建築のような造形芸術は、特に言葉で伝えられないものを審美的(aesthetic)なものを通して伝えることだと言えるだろう。ヨーロッパでは、中世において、絵や彫刻は字が読めない人にもキリスト教の教えを伝えるもので、そこで重要なのは、真理の伝達であった。近代になると、新しい世界の見方や価値観を提示するものとなり、同時に芸術家の個性の表現になった。その延長線上で19世紀以降、戦争、差別、貧困、抑圧など社会の不条理の告発も、芸術の役割となっていった。 こうした歴史を顧みると、近年アートが社会課題への取り組みとして、さまざまな人たちと共創するのは、また新たな展開であることがわかる。そこでのアートは、個性の表現と社会への批判の側面はもちつつも、むしろ社会のなかに入って、他者、とりわけ障害者や高齢者、マイノリティなど、社会の周縁にいる人たちと共働するのである。 とはいえ、社会課題への取り組みは、アートに限らず学問も行政も行う。ではアートの独自性は何か。まず挙げるべきは、アートがもっている非言語的次元、感覚的・感性的次元であろう。これは、アートの普遍性に通じる。感覚や感性は通常、主観的で個人的な好 みによるところが多く、客観性や一般性に欠けるとされる。言語による活動のほうが、ものごとを客観的に正しく捉えられると思われがちである。ところが実際には、思想や価値観は、共有されず対立することも多い。他方、感覚的・感性的なものは、主観的で個人的 でありながらも、客観的で一般的なものをもっている。好き嫌いはあっても、美しいものは美しく、楽しいものは楽しい、心地よいものは心地よいのである。これらは事物の属性ではないが、わたしたちが生きる世界の属性なのである。 また何より言語を必要としないので、こどもも大人も、外国人も、知的能力や言語理解の多少にかかわらず、経験し享受することができる。そして感覚的・感性的であるがゆえに、光、色、形、音、匂い、味、感触など、五感のすべてに訴えられる。さらには、五感 を超えた場、空間、雰囲気の体験に訴えることもできる。このアプローチの多様さ、柔軟さが、より多くの人に可能性を広げ、関心を喚起する。 障害・マイノリティの可能性 障害は一般に、何かが足りない状態だと思われている。障害に限らず、LGBTQにせよ、外国人にせよ、マイノリティであるということは、マジョリティではなく、広く共有されている標準から外れているということである。だからマイノリティは社会の周縁に追いやられる。その人たちが求めることは、多くの人にとって必要とするものではないとされる。 だがそれは、裏を返せば、まだ発見されていない価値や需要、簡潔に言えば、潜在的な可能性がそこにあるということでもあろう。タイプライターもタッチパネルも音声認識も、もともとは障害のある人のために開発され、それがマジョリティにとっても便利なものとして普及した。エスカレーターもエレベーターも、歩くのに困難を抱えている人のためにつくられたが、いまでは誰もが当たり前に使うものになった。マイノリティのためにしたことが、社会をよりインクルーシブにする。そうすると、社会全体のためにもなる。 隠れた需要を掘り起こし、経済化していくのは、いかにも資本主義的だ。こういう、ある意味基本的なことが、世の中ではあまり理解されていない。だから、 障害のある人、LGBTQ、外国人など、マイノリティのためにすることは、社会の負担になる、お金の無駄だという話になるか、さもなければ人権に訴えてケアや支援をすべきだという話になる。しかしどちらの話も、一義的に何が正しいか決めるのが難しく、違 う立場の人には受け入れにくい。何よりいろんな立場が対立しやすい。 だがわたしが障害に興味をもつのは、先に述べたような可能性の側面である。いま何をすべきかではなく、将来何ができるかである。それは、多くの人にとって胸躍ることではないだろうか。このようなアートと障害の可能性を考えると、両者の相性がいいのが よくわかる。つまり、アートの柔軟性と障害の周縁性がかけ合わさることで、両者の新しい可能性がひらかれ、それが社会全体の可能性をひらくのだ。 居場所というテーマ  以上を踏まえた上で、「居場所」という「だれもが文化でつながる会議」のテーマについて考えたい。「居場所」とは、居心地がよく安心できて、繰り返し戻るところであろう。その裏には身の置きどころのなさ、孤立、違和感、馴染めなさがある。もちろん誰し もそのようなことを感じること、場所はある。しかし、日常生活のなかで比較的長く過ごすところ、家庭、学校、会社、地域や身近な人間関係など、本来は居場所であるはずの場所がそうでなくなるとき、居場所が〝問題〞として浮上する。 時期的には、1980年代くらいから社会問題化したように思う。大きくクローズアップされたのは、こども、若者、女性、高齢者など、もともと居場所があった、むしろマジョリティの側の人たちだった。既存の社会や価値観の変化によって、もともといた所属 先(学校、家庭、職場、地域コミュニティ)を失ったり、新たな場所を求めて行った先で、それまでなかった摩擦や軋轢が生じたりしていた。 他方、障害者をはじめとするマイノリティには、そもそもそういう居場所自体が当たり前ではなかっただろう。そうした人たちは、社会の周縁にいて見えない存在になっていた。だから、昨今いろんなところで話題になっている〝居場所〞と、マイノリティにとっての〝居場所〞は、問題としては重なりながらもずれているように思う。したがっていま、居場所を再定義し、より包括的な視点を見つけなければならなくなっているのではないだろうか。 会議に参加して思ったこと  「だれもが文化でつながる会議」のテーマは2024年が「文化と居場所」、2025年は「居場所とわたし」であった。社会的・一般的なレベルから個人的・個別的なレベルに重心が移動したと言える。実際の発表がすべてそうだったわけではないが、今年のセッションに参加して考えたことを述べていこう。 普段からわたし自身、場や組織の性格、人の役割を曖昧にするということに関心をもっている。その点から見て、ほっちのロッヂは興味深い。そこでは、ケアや支援が必要な人(患者や障害者)とケアをする人、医療者という役割を明確にせず、症状や状態、年齢 などで区別するのではなく、「好きなことする仲間として、出会おう」と、文化企画を担当する唐川恵美子さんは言う。しかもそれを考え方として表明しているだけでなく、そこにいるみんなが私服で、患者も医者も、実際に見た目ではわからないようにしているらしい。このような具体的工夫は、さりげないように見えて、実は非常に大事なことだと思う。 同様のことを、ダンサーのじゃれおおさむさんは、専門性のデメリットとして語っていた―専門性を高めると役割や立場が明確になり、それに応じた専門的なケアを行うようになる。それは責任ある態度であるし、それがあるから安全で安定している。しかしそこには上下の勾配ができて、ケアする者とされる者という固定した関係ができてしまう。それは、自分自身の可能性を閉じてしまうことでもある。 このように区別をしないこと、曖昧にすることは、場そのものへと拡張しうる。バザールカフェの松浦千恵さんによれば、支援が必要な人にフォーカスするとそうじゃない人は来にくくなる。障害や病気がある人だけでなく、大学生のなかにも生きるのがしんどい人はいる。そのような場所は、そこに来る人のためだけではない。何よりも、ソーシャルワーカーであると同時に子育てをする母でもある松浦さん自身にとって、この曖昧さは大切である。それは答えがなくていい、理解し合わなくていいというゆるさでもあり、それによってカフェが彼女自身の居場所になるのだという。 さらに、はじまりの美術館は、施設をまるごとそうした曖昧さの原理で運営している。学芸員の大政愛さんは、美術館をみんなの〝わたし〞にとっての居場所、そこに行けば顔を知っている〝誰か〞に会えるところ、何か新しいものがあって人との出会いがあって、特別な用事がなくても、「ちょっと天気がいいから」来るところ、「何かおもしろいものがあるところ」……そんな場所になるよう工夫をしている。スタッフは常に受付やカフェスペースにいるので、来館者と交流する機会が多く、来館者どうしをつなぐこともできる。そういう細かい何気ないことを積み重ねて、美術館が気軽にいろんな人がいられる空間となる。 アートによる排除をいかに乗り越えるか 最後に、2024年の国際会議のクロージングセッションで進行役を務めさせていただいた ときに、わたしが問題提起したことに触れておきたい。それは、アートがもつ包摂(inclusion)の可能性の半面で、アートゆえの排除(exclusion)の可能性とどのよう に向き合うかということである。 アートが多くの人に訴えかける力があることは、誰も否定しないだろう。けれども、 アートには関心がない、アートは難しそう、アートはおしゃれな人がやることで、自分にはそんなセンスはないなど、アートを避ける人もいる。そこでわたしが興味深いと思ったのは、「アートの気配」という言葉である。 バザールカフェについて松浦さんは、「完璧じゃなくてダサい、だから人がかかわれるようになっている」と言っていた。まさに、アートとは対極にありそうな「ダサさ」。完成されたものは余白がない。不完全さにこそ豊かな可能性がある。これがアートの気配である。このセッションに登壇した3人は、アートはなくても生きていけるが、アートの気配はないと生きていけないという点で共感していた。だから、社会福祉士でキュレーターでもある青木彬さんは言うのだろう―アートという作品以前の、アートと名づけられない 想像力、残り香、その気配、そこにこそクリエイティビティを感じるのだ、と。   わたしたちの社会は、目的を明確化し、効率性を追究し、役割や機能を分け、 プロセスもアウトプットもできる限りコントロールしようとする。組織もテクノロジーもそのためにある。ポストモダンと言われて久しく、ものごとの複雑さと曖昧さが増すばかりだ。にもかかわらず、わたしたちはいまだどっぷりと近代のなかにいる。そこにさらに深くはまり込み、現実の矛盾や不快さを感じながら、同じ道を突き進むしかない。 そのなかでむしろ積極的に曖昧さとゆるさを求め、不完全であろうとする。この態度を、京都市立芸術大学学長でバザールカフェの創設者でもあるこやまだとおるさんは、クロージングセッションで得意のユーモアとともにこう語った―「わからなさと友達になろう」  それは反近代なのか、超近代なのか。いずれにせよ、そこにはアート、もしくはアートの気配の創造性とともに、障害やマイノリティの創造性が宿っている。やはり新しいもの、革新的なものの可能性は、社会の中心ではなく周縁からひらけてくるのだ。 かじたに しんじ 京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。専門は哲学、医療史、比較文化。近著に『考えるとはどういうことか0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬舎、2018年)、『哲学対話の冒険日記 われら思う、ゆえにわれらあり』(あいり出版、2023年)、『思想としての育児 知識と身体の歴史哲学』(教育評論社、2026年)がある。 [インサイトかじたにしんじ 終了] [200ページ、カラー写真ページ(計5枚)開始] [1枚目:全面の写真。窓辺に展示されている宮永愛子の作品「くぼみに眠る海、水鳥」。窓の外には小さな青い花が咲いている。作品が置かれている木の台の手前にはフランク・ロイド・ライトデザインの六角椅子が置かれている。] [2枚目:見開きの写真。2階のミニミュージアムから1階のホールを俯瞰する構図。写真右から順に宮永愛子の作品「留め石」、ホールの壁画、3人の女学生が三角形を成した像、六角椅子、宮永愛子の作品「くぼみに眠る海、水鳥」が位置し、写真左半分は幾何学模様の木枠の大きな窓と外の風景が広がっている。] [3枚目。大きな縦向きの写真。大教室タリアセンにおけるこやまだとおるの作品お父ちゃん弁当の展示風景。壁沿いの什器と棚に、額縁におさめられた作品が並んでいる。] [4枚目。全面の写真。講堂のステージ上にあるなかざきとおるの作品「看板屋なかざき」の展示風景。ステージ中央に東京都やアーツカウンシル東京のロゴなどが施された看板、ステージしもてには、家をかたどった作品、かみてのステージしたには、船をかたどった作品が置かれている。] [5枚目。見開きの写真。講堂内銀杏の間におけるAKI INOMATA(アキイノマタ)の作品の展示風景。木の彫刻作品「彫刻のつくりかた」が3点展示されている。] [カラー写真ページ終了] [208ページ 展示作品の解説 開始] [タイトル] 言葉の隙間を埋める存在 「居場所とわたし」というテーマを掲げた本会議では、否応なく言葉と概念が先行します。そこでの対話の最終目的は、芸術文化活動が「わたしの居場所」をかたちづくるために不可欠であることを、あらためて定義し直すための「言葉」を獲得することにありました。  しかし、どれだけ精緻に言葉を尽くしても、そこからこぼれ落ちてしまう豊かなイメージや、名づけ得ない「何か」が必ず存在します。その確信から、不意に視界に飛び込み、偶然あるいは必然のように出会ってしまう存在として、4人のアーティストによる作品を会場に配置しました。  これらの造形物は、抽象的な概念だけでは捉えきれない「関係性の機微」を軽やかに可視化します。自分らしくあるために不可欠な「他者」とは、慈しむべきわが子、社会的な契約がもたらす「間柄」、あるいは地球をわかち合う動物たちかもしれません。それらとの結びつきを静かに提示する作品たちは、いま・ここから連なる過去や未来、そして広大な時空の広がりをわたしたちに想起させます。  作品の前に立ち止まり、解説を補助線として「造形と言葉」の間で対話することで、テーマと深く向き合う愉しみに出会える。わたしの居場所とは、決して孤立した「点」ではなく、多層的な「大切な関係」の網目のなかにこそ存在する。作品たちは、その事実をわたしたちに自覚させてくれるでしょう。 [展示作品の解説 終了]