[カラー写真ページ(計8枚)開始] [1枚目:全面の写真。講堂を2階席から俯瞰する構図。セッションが行われており3人の登壇者が話している。] [2枚目:見開きの写真。講堂でクロージングセッションが行われている。登壇者の背にあるモニターは、左にこやまだとおるの作品「お父ちゃん弁当」の写真、右に手話通訳者の映像と字幕が表示されている。多くの参加者が着席し話を聴いている。] [3枚目:全面の写真。講堂内銀杏の間にアキイノマタの作品「彫刻のつくりかたYuzuⅣ」が展示されている。その向こう側にはスタッフとセッションを聞く参加者の後ろ姿がある。] [4枚目:中央下部に写真。薄く雲が広がる青空と様々な高さの住宅やビルなどを背景に自由学園みょうにちかんの外観正面とその前を横切る3人の人物。建物の前の庭には緑色の芝生が広がる。] [5枚目、6枚目:ページ上下に2枚配置されている。上の写真はワークショップの様子。講師が黄色の資料を手に持ちながらマイクで話している。下の写真は、建物の外から大教室としまを覗く構図。1人の男性が展示を見ている様子。] [7枚目:中央に写真。食堂でセミナーが行われている様子。写真の上半分以上を食堂の内観が占め、天井の高さが強調されている。天井付近には2つのひし形を組み合わせたような幾何学模様の大きな窓があり、側面の壁には縦長の細い窓がある。木製の幾何学的な装飾が施された大きな丸い照明が、空間を横切るように3つ並んでつるされている。] [8枚目:全面の写真。自由学園みょうにちかん東外廊下の柱の間に設置されたパネル。緑の地に、オレンジの下線付きの白文字で「Creative Well-being Tokyo Autumn Session on Open Access to Culture 2025『居場所とわたし』」と書いている。] [カラー写真ページ終了] [281ページ、「居場所とわたし」展示解説 開始] 「だれもが文化でつながるオータムセッション2025」で展示した4人のアーティストの作品を、社会学者・文化政策研究者の小泉元宏さんが解説した。 AKI INOMATA《彫刻のつくりかた》 〈他者〉の視座をかたちにする「翻訳の芸術」   AKI INOMATAの代表作の一つである《彫刻のつくりかた》は、ビーバーとの共作がベースとなっている。ビーバーの飼育場に木の角材を置き、かれらがもつ「木を食べたり、伸びた歯を削ったりする」という習性を利用して、彫刻のような「作品」を生み出してもらうという試みからはじまった。こうしてビーバーがかじった「作品」を原型に、タイや日本の彫刻家が約3倍のスケールで彫刻を制作する(3倍という比率は、ビーバーとINOMATAの体重比に由来する)。そこには彫刻した人間作者の解釈が加わった「第2」の作品が現れる。  さらに、第3のアプローチが―今回展示されているのが―ビーバーが齧った木を3Dスキャンし、そのデータをもとにCNCせっさくきで掘り上げた「作品」である。加えてINOMATAは、木材内部にカミキリムシが開けた穴を発見し、CTスキャンで解析して、かれらの視点をイメージしたCG映像作品もつくり上げた。ビーバー、人間、機械、そして虫たちの、同一なようで、少しずつ異なる「彫塑」。それらは社会における異なるアクターの関係性を示すかのようである。   INOMATAの作品は、これまで人間活動が地球に与える不可逆的な影響を問う「じんしんせい」概念や、人間中心主義を相対化するダナ・ハラウェイのサイボーグや伴侶種(伴侶動物)などに関する理論と関連づけて論じられてきた(たとえば金澤 2020, 岩崎 2020)。これらの視点の重要性を踏まえつつも、本稿では彼女の作品を、ブリュノ・ラトゥールが提唱するアクター・ネットワーク理論(ANT)の観点から捉え直したい。それは、主体/客体、人間/自然といった近代的二元論を超え、人間と非人間(モノ、概念、環境)が構成する動的な関係性の網の目として世界を記述する視座である。ラトゥールによれば、社会とは固定された構造や、一方が他方を生み出す因果律に基づく関係性によるものではない。社会、社会的領域、社会的結びつきといったものは存在せず、跡をたどることが可能な結びつきを生み出す媒介者間の翻訳活動が存在する、アクター間のネットワークである、と彼はいう(Latour 2005)。   INOMATAの実践は、この「翻訳の社会学」と呼ばれる視点と重なりつつも、とりわけ重要なのは、「わからない」各アクターの感覚を可視化することで、アクター間の違いや共有の可能性を実存的に想像するための情動を含んでいることである。ビーバーをはじめ、他者の「彫刻」作業の感情は本質的に不可知であり、機械に至ってはINOMATAが「もう彫刻と呼べるのかどうかわからなくなる」(AKI INOMATA 2024, 103)と述べるように、造形の意図は存在しないかもしれない。ここでANTが直面するのは、理念的には理解できても、結局のところ各アクターとのつながりを概念レベルでしか捉えられないという限界である。けれども各アクターの視座を造形化してみるとどうだろうか。そこには「他者」の情動を表現し、それを解すること=翻訳を試みようとする想像力が眼前に立ち上がる。それは、いわば「翻訳の芸術(art of translation)」と呼ぶのに相応しい、INOMATAのアートだからこそなしうる仕草だといえるだろう。  「彫刻の作者はビーバーや機械」とわたしたちが紹介を受けたとき、戸惑いを覚える感覚とともに内包されているのは、差異を確認しつつも他者との関係性を想像し直す、現代社会における共存の可能性の契機なのである。 [引用・参考文献] Latour, Bruno, 2005, Reassembling the Social: An Introductionto Actor-Network-Theory, Oxford, UK: Oxford University Press.(伊藤嘉高訳、『社会的なものを組み直す―アクターネットワーク理論入門』法政大学出版局) AKI INOMATA、2024年、「生きものと共につくるアート」桐光学園中学校・高等学校編、『高校生と考える人生の進路相談』左右社、96-107頁 岩崎秀雄、2020年、「生きとし生けるものたちとの共創への問いを巡って」美術出版社書籍編集部編、『AKI INOMATA: Significant Otherness生きものと私が出会うとき』美術出版社、148-149頁 金澤韻、2020年、「他者の視点で」美術出版社書籍編集部編、『AKI INOMATA:Significant Other生きものと私が出会うとき』美術出版社、18-23頁 こやまだとおる《お父ちゃん弁当》 「違い」を超えた共生のための技法  こやまだとおるの《お父ちゃん弁当》は、プロジェクト開始当初、幼稚園児だった息子をめぐってはじまったものである。息子の姉(こやまだの娘)であるこやまだ香月が、毎朝、即興でお弁当の絵を描き、それをとおるが冷蔵庫にある食材で再現する。香月の絵は、本作品に見られるように、「そら」「かざん」「マグマ」「プレート」など、さまざまなイメージにあふれている。なかには素材の指定がない絵も多く含まれている。  こうした即興的な寄せ集めと工夫によって何かをつくり上げるブリコラージュの仕草は、遊び心に満ちたプロジェクトであると同時に、家族の関係性を結ぶ役割も担っていることは明らかだ。しかし一方で、「娘の頭の中はわかりませんが、素敵な情景をよく朝一番で思いつくなー。素敵。」(2018年1月25日「海の夕焼け」)(山下樹里他 編 2021)といったとおるのことばが示すように、プロジェクトが、家族である娘の感性との「違い」を前提にしていることも重要である。確かに「社会の最小単位」としての家族には共有される感覚が存在することも多い。しかし、それは決して均質な共同体ではなく、本質的に他者同士の関係である以上、異質性が同時に前提にある。  そのようなお互いの「違い」を前提に、対等に向き合うことを可能とする「仕掛け」を設けるからこそ、異なる視点の組み合わせが生む創意工夫や関係構築の新たな希望が生まれるのだ。  家族社会に限らない、現代社会についても同じことがいえるだろう。わたしたちは主観性の違いをお互いに認めつつ、互いの共有点をおもしろがりながら探るような態度からこそ、新たな創造の可能性を共有していくことができる。こやまだはかつて、アメリカのニューメキシコの砂漠での経験をもとに、次のように書いている。 「私は他者にはなれない。でも、他者の視線は私に内在する可能性がある」(こやまだ 2005,10)  彼の《お父ちゃん弁当》は、この思想が生む相互作用の可能性を、最も身近な社会で実践した記録である。絵を通じて他者の視点を受け取り、日々の行為をもって―しかも即興とブリコラージュによって―応答を試みる。このささやかだが、かけがえのない実践は、他者性をいかにして架橋し、共生を築くことができるのか、その可能性をわたしたちに示している。 [引用・参考文献] 小山田徹、2005年、「眺めるというコト」荻原康子編『「小山田徹:しあわせのしわよせ」展―漫画家・滝田ゆうの視線とのコラボレーション』財団法人アサヒビール芸術文化財団、8-12頁 山下樹里・横山由季子・阿部優理恵編、2021年、『日常のあわい』金沢21世紀美術館監修、青幻舎 なかざきとおる《看板屋なかざき》 ありうるかもしれない世界のためのアート  なかざきとおるのアートの意味を考えることは、その表現としての特徴を理解するだけでなく、現代社会におけるアートとわたしたちの位置づけを問う問題でもある。今日、市民による文化生産の手段が急速に普及し、相互接続性が飛躍的に高まった一方で、わたしたちが声を上げるための権利やコミュニケーションの条件は決して平等なものではない。資本の多寡や社会的立場に起因する不平等のなかで、何を表現し、だれとつながることができるか、だれが発言力をもつのかが決定されているのだ。そして、このような状況は、過度に戦略的にデザインされた社会構造のなかでかたちづくられ、固定化されているようにも見える。しかしなかざきのアートは、平等を装う社会において見過ごされる生や、ありうる可能性を、デザイン風・物語風・演劇風に〈演じ返す〉ことで反転させるための試みである。  2001年頃からなかざきは、看板をモチーフとする《看板屋なかざき》シリーズを各地で展開してきた。このシリーズの特徴は、看板制作における依頼者と制作者の力関係を反転させるための、一連の制作過程を含めて作品化する点にある。まず、依頼主となかざきが契約書を取り交わし、提供された情報を看板に記載するが、最終的なデザインは制作者側に委ねられる。通常、依頼主が優位に立ち、指示や目的にしたがって制作が進む関係性を揺さぶり、両者を対等な立場に置くためである。本来、対等なコミュニケーションは、相互の考えの違いに根ざす解釈のねじれや誤解、すなわち意識的・無意識的なミス・コミュニケーションを伴う。このシリーズは、そのズレを許容する「余白」を制作過程に意図的に組み込み、制作者の主体性を保持する枠組みを構築している。いわば見えにくい力関係を、契約書や看板を通じて可視化するのだ。それは、ポストフォーディズム社会においてアウトソーシングされ、流動的かつ便宜的に使われるクリエイティブ労働の主体性を回復する所作ともいえるだろう。  しかしまた同時に、なかざきの「抵抗」は、社会運動などによる直截的な改革とは大きく異なり、看板群に見られるような心象風景や、都市の小さな物語を通じて展開することも重要である。都市の風景や物語の断片を結びつけながら、見覚えがあるようでどこにもない景色や、ときにはありえないような想像を介して「ありうるかもしれない」可能性を紡ぎ出すことで、現実社会に介入するのだ。そこには、民話や戯曲など、創作としての文芸や表現が政治的転換に大きく寄与してきた歴史と同様に、勘違いや空想を通じて新たな情動や活動が引き出される可能性が潜んでいる。だからこそ、彼の作品に触れるとき、わたしたちはその空間や時間が別の時空を指し示すような感覚を抱く。そこには、固定化されたように思える取り巻く環境が暫定的な状況であること、そしてわたしたち自身が、その状況を変える主体となる力をもちうることを自覚する契機が示されているのである。 [引用・参考文献] 竹久侑・嘉原妙編、2022年、『なかざきとおる―フィクション・トラベラー』なかざきとおる監修、水戸芸術館現代美術センター 堀切春水編、2025年、『Bluebird Sign/青い鳥のしるし』 なかざきとおる監修、混浴温泉世界実行委員会 宮永愛子《留め石》《くぼみに眠る海‒水鳥‒》見失われた存在と時間の物語を紡ぐために  わたしたちの社会は、「いま」の消費を絶えず促している。オンライン購入からメールの受信ボックスにいたるまで、いま何を買うべきか、何を観るべきかを誘うリストで溢れかえっている。時間は、いまや次々と絶え間なく消費するための資源へと変質してしまったのだ。ジョナサン・クレーリーは、現代の常時接続の社会においては、あらゆる瞬間が消費の対象となり、本来は生産しない時間であったはずの睡眠も含め、生活や知覚のための時間がすべて資本にとらわれていることを述べている(Crary 2014)。宮永愛子がガラスや石、ナフタリンなどを通じて提示するのは、このような時代に見失われがちな、過去・現在、そして未来へといたる時間をつなぎ直す物語、あるいは異なる場や視点が交差することで生まれる多層的・複眼的な物語の可能性である。たとえば《留め石》は、同じ時の流れにありながら、しかし異なる視点や物語をまたぐ作品である。福島第一原発周辺の帰還困難区域を会場とする「Don’t Follow the Wind」展を契機に制作された《留め石》を、宮永は区域の中と外、それぞれに展示した。留め石とは、本来、ある場に置くことによって、それ以上先の立ち入りを禁止することを示すものである。けれども彼女は2つの世界を区切るための石の意味を、むしろ別の場所にあっても同じく流れる時や、別の場所同士の視点の存在を相互に示し合うことで、それらの視点・物語の交差を促そうとする。宮永はいう。「あっちに行ってもこれがありますよ、私が作ったものはこれですってあえて発表することにしたんです」、と(アートライティングスクール 2021)。  さらにこの作品には、作家自身の呼気がガラスのなかに閉じ込められているのだが、当初の《留め石》制作の際、彼女は妊娠中であった。そのことについて宮永は、自身と胎児であった娘、「2人分の空気」が入っていると表現し、その後も、娘とともに呼気を込めた《留め石》を制作してきた。ここにも、異なる主観や時間の混在・併存を通じて、多層的に物語が交差する宮永作品の視点が示されている。  他方の《くぼみに眠る海‒水鳥‒》は、宮永の実家(曽祖父以来の陶房)の工場に積まれていた陶芸用の石膏型のなかの「くぼみ」(めがた部分)に眠り続けてきた100年前の「空気」に思いを馳せながら、雌型部分にガラスを注いで制作したものである。その際、宮永は、必ずガラスとともに気泡を入れる。そこには、以前から石膏像を満たしてきた空気を埋めたガラス像と、「いま」の空気が込められることによって、異なるときの移り変わりや関係性が示されてゆく。なお、今回の自由学園みょうにちかんでの展示にあたり、作家は会場の歴史や空間を考慮しながら、2羽の水鳥を配置した。それぞれの水鳥の関係性や空間との呼応にもぜひ注目してほしい。  宮永作品の重要性は、単に造形の美しさや時間の移ろいを表現する稀有な価値にとどまらない。それは、作品が置かれた場所や、別の場所との関係性が生み出す物語による、あるいは、歴史の盲点やつながりを拾い上げることによって示される視点による、社会的な示唆をも含んでいる。そして彼女の作品は、空間と時間を超えて複数の視点を交差させることで、わたしたちに「ここ」、そして「いま」の意味を問い直す契機をも与えてくれるのである。 [引用・参考文献] Crary, Jonathan, 2014, 24/7 : Late Capitalism and the Ends of Sleep, London; New York: Verso Books.(岡田温司監訳・石谷治寛訳、『24/7―眠らない社会』NTT出版)アートライティングスクール、2021年、「宮永愛子インタビュー[前編]―3日後につながる隠し扉とは?」、アートライティングスクールnote、(2025年9月13日取得,https://note.com/artwritingschool/n/n5369568256d9) 浅田真帆、2024年、「インタビュー」『宮永愛子―詩を包む』長田実穂他編、富山市ガラス美術館 [「居場所とわたし」展示解説 終了] [288ページ、おわりに開始] おわりに  文化が形成する居場所のルールを守る。それに適応することで得られるウェルビーイングを学ぶ。それはある種の正義と正解に答えを合わせた受動的振る舞いかもしれません。社会的範例を確認し、共有することに比重を置いたのが、前回の「だれもが文化でつながる会議」のテーマである「文化と居場所」。その経験を経て、今回は、あらためて居場所と自分自身の関係について考える「居場所とわたし」をテーマとしました。  「わたし」という自明の存在が意識されることにより、議論は「わたし」を主体とする能動的なウェルビーイングを捉える場へと質的にも劇的に変容しました。それはクロージングセッションのテーマ「わたしの居場所」に端的に示されています。能動的な「わたし」が、未来には当たり前となる「居場所」を考えること。いまだない新しい何かを生み出す主体者としてアクションを起こす、現状への過度な追随や迎合とは一線を画す姿勢です。文化の可塑性を知る大学や芸術文化の現場こそが、「未来のあたりまえ」を用意する社会的役割を担うべきであり、同時に、だからこそ必要なのだ―このようなことが語られ、会議は幕を閉じました。  「だれもが文化でつながるオータムセッション2025」の登壇者の多くは、長い年月をかけ道なき道を歩み、その地平/土壌を開拓してきた先達者たちです。かれらの言葉には、知識に経験が加味されて昇華した、身体化された実践知とやわらかな温もりがありました。その言葉に会場全体が包容され、わたしたちは共感し、理屈を超えてウェルビーイングの背後にあるものを体感できたように思っています。  このような時間が醸し出された一因には、明らかに「場の力」があります。羽仁もと子・吉一夫妻が1921年に創立した自由学園の学び舎であるみょうにちかんは、関東大震災、東京大空襲を耐え、1960年代以降の猛烈な都市開発の波にも抗ってきました。その後は保存への強い支持を受け、1997年に重要文化財に指定されました。修復を経て現在も人々が集い活用する、動態保存がなされています。  この源流には、羽仁もと子の強靭な思想と実践があります。自分の生活を自ら創る自由学園での教え。個人の自立を日常生活の場から促した「家計簿」や雑誌『婦人之友』の発刊。いまの時点から見ると、これらはどれも「未来のあたりまえ」を創出する見事なプレフィギュレーション(先取的実践)です。次々に思想を行動に移した羽仁もと子は、教育者、ジャーナリスト、編集者といった肩書き以上に、芸術文化と社会運動を生活のなかで融合させたアーティビスト(Artivist)としていきた、「生活圏」とアートをつないだ偉大な先駆者として、必要な登壇者だったのです。この4日間はわたしにとって、自由学園みょうにちかんの空間に脈々と受け継がれ、息づいている何ものかに触れられた時間でした。個人の自立を基本にしながら、他者とつながる「間柄」にウェルビーイングが生まれる手触りを、時代を超えてこの場所にかかわる人々の存在から、感じとれた気がしています。 アーツカウンシル東京 もりつかさ [おわりに終了] [292ページ 奥付 開始] クリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョーとは  乳幼児から高齢者まで、障害の有無、言語・文化の違いを超えて、多様な人々が文化事業に参加し、ともに創造していくための環境整備や調査・検証・開発に取り組むプロジェクトです。芸術文化を通した共生社会の実現を目指し2021年度に始動。東京都の2030年に向けた文化政策(「東京文化戦略2030」)に基づき展開しています。 都立文化施設やアーツカウンシル東京で展開する文化事業等のアクセシビリティ対応においては、来館・参加するまでの情報提供やサービスの向上、鑑賞・参加体験を豊かにするための取り組みの促進、障害当事者等の企画運営への参画を推進し、だれもが芸術文化にアクセスしやすい環境をめざします。  また、芸術文化によるウェルビーイング向上にかかわる国内外の実践者とのネットワークを醸成し、プロジェクトの実践を通して、共生社会の実現に向けた取り組みを発信します。 はじまっていた「未来のあたりまえ」 Creative Well-being Tokyo だれもが文化でつながるオータムセッション2025 「居場所とわたし」の4日間をじっくり味わうための本 企画 森 司、坂本有理、岡崎未侑、樋口菜奈(公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京) 編集 多田智美、鈴木瑠理子、永江 大、白井 瞭(MUESUM) 執筆協力 出射優希(MUESUM)、髙橋そう、浅見 旬、有賀みずき デザイン タキ加奈子、片平有美(soda design) DTP 株式会社ツー・ファイブ印刷 ベクトル印刷 写真 金川晋吾(1ページから8ページ、13ページ、155ページから159ページ、 186ページ、273ページから280ページ)、 阿野太一(表紙・裏表紙、201ページから207ページ)、 齋藤彰英、森 勇馬、佐藤えりか(101ページ、112ページから113ページ、124ページ、212ページ、219ページ、221ページ、231ページ、236ページ、242ページから243ページ、247ページ、251ページ、269ページ上、271ページ、273ページ) プロフィール写真 池田 宏(19ページ、161ページ 森 司、253ページ 佐藤李青)、 梅田彩華(57ページ 富塚絵美)、小禄慎一郎(217ページ 石井健介)、 川瀬一絵(244ページ 佐藤慎也)、草本利枝(105ページ じゃれお 理)、 栗原 論(81ページ 駒井由理子)、品田裕美(105ページ 齋藤紘良)、 清水朝子(39ページ 唐川恵美子) 松蔭浩之、Courtesy Mizuma Art Gallery(19ページ 宮永愛子) Hana Yamamoto(260ページ 渡辺龍彦) 発行 2026年3月31日 公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京 〒102-0073 東京都千代田区九段北4-1-28 九段ファーストプレイス5階 https://www.artscouncil-tokyo.jp 本書に記載のURLは発行時点のものです。 *営利・非営利問わず、本書のコンテンツを許可なく複製・転用・販売などの二次利用することを禁じます。 ©アーツカウンシル東京 2026, Printed in Japan ISBN 978-4-909894-68-7 C0070 [奥付終了] [裏表紙] [写真:中央にカラー写真。なかざきとおるの船をかたどった作品。下にロゴ3つ。左から順に、クリエイティブウェルビーイングトーキョー、東京都、アーツカウンシル東京。]