[表紙] [左下にカラー写真:宮永愛子の作品「留め石」が展示されている。] [右上にタイトル] はじまっていた「未来のあたりまえ」 [1ページ、カラー写真ページ(計7枚)開始] [1枚目:全面の写真。ホールにて。幾何学模様が配された縦長の窓が並ぶ空間で話を聞く参加者。参加者の向こう側には宮永愛子の作品「くぼみに眠る海、水鳥」が見える。窓の外には草木が生えている。] [2枚目:ページ右下に写真。建物内から見る庭の青い花。] [3枚目:全面の写真。ホールでテーブルトーク2が行われている。登壇者のもりあつしとたばたはやと、通訳介助者、参加者の様子を2階から俯瞰する構図。窓から光が差し込み、床に幾何学模様の影ができている。モニターにメインビジュアルが表示されている。] [4枚目:ページ中央に写真。参加者の奥に、食堂に集まる女学生の様子が写された当時のモノクロ写真がある。] [5枚目:ページ中央に写真。階段から食堂を見上げる構図。天井には白く光る丸いランプ、床には木製の椅子が置かれている。幾何学模様が配された窓から光が入り、クリーム色の壁と端に寄せられた青いカーテンを照らしている。] [6枚目:見開きの写真。外から窓越しに講堂の中を覗く構図。講堂でセッションを聞く参加者の様子。] [7枚目:ページ中央に写真。ホールの壁画の前に立つ建築ツアー参加者の後ろ姿。壁画は乾いた質感で、一列になって砂漠を歩く人々と文字が描かれている。旧約聖書出エジプト記の一節がモチーフである。] [カラー写真ページ終了] [本扉] [左下にタイトル] はじまっていた「未来のあたりまえ」 [10ページ、はじめに開始] はじめに 2024年10月29日からの5日間。わたしたちは、東京・有楽町にあるガラス張りの巨大なコンベンションセンター「東京国際フォーラム」にいました。その場所は、洗練された都市そのものであり、効率や強度を重視する現代社会を象徴する機能的な空間でした。 そこで開催した「だれもが文化でつながる国際会議2024」には、「文化と居場所」をテーマに、国内外からさまざまな分野の専門家が50名近く集結しました。 その1年後の2025年10月20日からの4日間。わたしたちは、東京・池袋にある、「自由学園みょうにちかん」に集いました。ここは1921年に羽仁もと子・吉一夫妻が創立した女学生の学び舎。フランク・ロイド・ライト設計の簡素で小さく、穏やかで癒しさえ感じられる木造の空間です。 この1年で積み上げた知見や経験を、身近な距離感で、多様な専門性や背景をもつ人々とわかち合う。これは、「だれもが文化でつながるオータムセッション2025」の最初の構想でした。「居場所とわたし」というテーマを据え、一人ひとりを当事者とし、「文化と居場所」という大きな問いを、より自分ごとに引き寄せて考える場です。 準備段階における登壇者の方々との対話は、企画をつくるという実践そのものでした。対話を重ねるうちに、わたしたちも実践者として「リフレクション・イン・アクション」(行為のなかの省察)を繰り返し、問題意識が確実に移り変わっていくのを感じていました。それは、走りながら考え、対話の過程で自らの立ち位置を修正し、質を高めていくプロセスでした。議論の焦点は「居場所」から「わたし」という主体へと移行し、わたしたちは「他者」の存在をあらためて意識します。クロージングセッションのタイトル「わたしの居場所̶未来のあたりまえを考える」は、たどり着いてしまった必然的な帰結でした。 記録のために伴走してくれた編集チームから、会期中に「当初は軽やかに読み進められるマガジンのような媒体を想定していたが、やはり時間をかけて反芻できるような書籍へと編集方針を変更したい」と耳打ちされました。これもまた、リフレクション・イン・アクションです。この本をどんなリズムで読んでほしいか、読者の体験を想像しながら試行錯誤し、かたちにしていく。それはもう一つのプロジェクトです。「可塑性」に満ちた編集作業は、会議のバトンを受けた深いコミットの証です。 そのようなわけで、本書は単なる議事録ではありません。交わされた言葉を解きほぐし、対話の芯にある含意を素材として編み直したものです。 挿入された写真は、みょうにちかんの木の床の質感、窓から差し込む光、そして言葉と言葉の間に流れていた沈黙―そうした「手触り」を大切にした一冊に組み上げられました。あの場にいた方には、当日の体感や記憶を思い出すよすがとして。初めて手に取る方には、その場に立ち会っていたかのような臨場感とともに。自分のリズムでページをめくり、じっくりと読み込んでいただけると幸いです。 [はじめに終了] [全面のモノクロ写真:ホールでパンフレットを手に話を聞く参加者。] [目次開始] 10ページ、はじめに 17ページ、セッション:居場所を考えるための対話 18ページ、ばらばらな声が響く場から世界を捉え直す 38ページ、他者とともに生きるための実践 56ページ、ともにあることを可能にする「気配」 77ページ、インサイト:「居場所とわたし」に芸術文化も入れてください。あおやぎまさのり 80ページ、手探りの先に、見たい風景を思い描く 101ページ、スクリーニング:「ことばとあそぶ、おととあそぶ」 104ページ、つくり合う場から生まれるもの 126ページ、自らの「居場所」を見出すこと 154ページ、テーブルトーク:世界を知る方法としての触覚 160ページ、未来のあたりまえを「いま」つくり考えるために 187ページ、インサイト:わからなさと友達になる。こやまだとおる 190ページ、「うれしい敗北感」という希望。まきのまなえ 193ページ、アートと障害の可能性と創造性。かじたにしんじ 201ページ、エキシビション:「居場所とわたし」 209ページ、セミナー:「居場所」を育むための講義 210ページ、アクセシブルなウェブデザインとは何か 217ページ、バリアフリー活弁士による鑑賞体験 224ページ、インサイト:いつかの明日とわたしの居場所。いしいけんすけ 227ページ、手話通訳の基本と理論の重要性 234ページ、テーブルトーク:芸術文化に触れるコンテンツをすべての人に届けるために 236ページ、エキシビション:アクセシビリティ整備に活用できるデバイス 237ページ、学習障害と支援教材 243ページ、ワークショップ:伝わるフォントと文字組を知る 244ページ、カームダウンスペースをつくる 252ページ、エキシビション:カームダウンスペースの試み 253ページ、日常をアートでデザインする 260ページ、文化事業と評価 266ページ、エキシビション:異なる文化・感覚をもつ人たちがともにあるための実践 269ページ、ワークショップ:触知図をつくる 271ページ、「やさしい日本語」で話す 281ページ、「居場所とわたし」作品解説。こいずみもとひろ 288ページ、おわりに 291ページ、だれもが文化でつながるオータムセッション2025 開催概要 本書は、だれもが文化でつながるオータムセッション2025」を再構成して制作しました。 [目次終了] [17ページ、章扉] セッション:「居場所」を考えるための対話 [18ページ、オープニングセッションのページ開始] [タイトル] ばらばらな声が響く場から世界を捉え直す [リード文開始] アート作品というと、完成された「もの」に目が向きがちだ。しかし、その場に流れる時間や生活、他者との関係と呼応することで、作品には新たな意味が生まれてくる。本プログラムの統括を担い、展示キュレーションを行ったもりつかささんを聞き手に集ったのは、美術家のなかざきとおるさん、宮永愛子さん、そして異なる視点から作品の読解をおこなった社会学者の小泉元宏さん。ばらばらな他者の声が響く日常から、世界を捉え直すこと。そのプロセスの先に立ち上がる、生活圏とアートが交差する場、そしてそこからひらかれる、新たな居場所の可能性を見つめていく。(オープニングセッション「生活圏」とアート) [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 小泉元宏(読み:こいずみ もとひろ) 社会学者、文化政策研究者 立教大学社会学部教授。東京藝術大学、ロンドン芸術大学、大阪大学、ロンドン大学、鳥取大学などでの研究・教育職を経て現職。専門は芸術社会学・文化政策研究。都市・地域社会におけるアートや現代文化実践を対象に、芸術と社会の関係や文化政策のあり方を理論と実践の両面から研究している。 [写真:こいずみもとひろの顔写真] 中﨑透(読み:なかざき とおる) 美術家 看板をモチーフとした作品をはじめ、パフォーマンス、映像、インスタレーションなど、形式を特定せず制作を展開している。2023年、第73回芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。主な近年の展覧会に、「なかざき透 フィクション・トラベラー」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、2022 年)など。 [写真:なかざきとおるの顔写真] 宮永愛子(読み:みやなが あいこ) 美術家 東京藝術大学大学院修了。ナフタリンを用いたオブジェや、塩、陶器の貫入音や葉脈を使ったインスタレーションなど、気配の痕跡を用いて時間を視覚化し、「変わりながらも存在し続ける世界」を表現する。主な近年の展覧会に、「宮永愛子 詩を包む」(富山市ガラス美術館、2023年)など。 [写真:みやながあいこの顔写真] 森司(読み:もり つかさ) アーツカウンシル東京 事業調整課長 2009年より「東京アートポイント計画」をディレクションし、現在は東京都・区市町村連携事業を所管する。東京2020公認文化オリンピアード事業「東京キャラバン」「TURN(ターン)」を担当。聾者と聴者が遭遇する舞台作品《黙るな 動け 呼吸しろ》の推進役を担う。本プログラムの企画、統括を務める。 [写真:もりつかさの顔写真] [登壇者プロフィール終了] [本文開始] [小見出し] 変わりながらあり続ける [森] 「自由学園みょうにちかん」という、まさに〝明日〞を語るにふさわしい場所で開催できることをうれしく思います。本プログラムは、セッション、セミナー、展示・ワークショップ、ネットワーキングという4つのセクションから構成されています。展示では4人のアーティストのかたに、「居場所とわたし」、そして本セッションのタイトルである「『生活圏』とアート」というテーマに呼応する作品をリクエストしました。社会学者の小泉元宏さんには美術批評家とは異なる視点から、作品をめぐる思考や感覚を言語化する役割を担っていただいています。  オープニングセッションには、そのうち2名のアーティスト̶なかざきとおるさん、宮永愛子さん、そして小泉さんにご一緒いただいています。この場では、お二人の制作プロセスや、「わたし」という存在を確認するために不可欠な「他者」との関係に焦点を当てながら、作品と社会、そして「居場所」について考えていきたいと思います。まずは、宮永さんから自己紹介をお願いいたします。 [宮永] わたしは彫刻を仕事にしています。彫刻というと、木や石といった素材を使った、かたちのある作品を思い浮かべる方が多いかもしれません。でも、わたしの作品は少し違っていて、常温でゆっくりと昇華し、姿を変えていく「ナフタリン」という素材を用いています。  一般的に彫刻は、かたちのあるものとして存在し続けるものだと思われがちです。目に見えない感情をかたちにし、できるだけ変わらないものとして留めたい。そうした欲求から生まれてきた表現でもあります。けれど、実は昔からある彫刻も、よく見れば少しずつ変化しています。ただ、わたしたちが生きている時間の感覚では、その変化にほとんど気づけません。  一方で、わたしが大切にしているのは、「変わりながらあり続ける」ことです。ナフタリンでかたどった作品は、比較的速い速度で変化していきます。だから、変わっている事実に気づくことができる。  それでも、気づくのは、変わったあとです。その意味では、お花と少し似ているかもしれません。お花も、咲いている瞬間を見ることはなかなかできない。気づくのは、いつも咲いてからです。作品を通して、「ものは変化していくものだ」ということを感じてもらえたらと思い、制作しています。 [森]  続いて、小泉さんから、宮永さんの展示作品について語っていただけますか? [小泉]  《留め石》は、東京電力福島第一原子力発電所周辺の帰還困難区域を会場とする展覧会「Don't Follow the Wind」を機に制作され、区域の内と外、その双方に展示された作品です。本来「留め石」は、その場より先への立ち入りを禁ずる印ですが、この作品では、隔てられた場所同士の空間や流れる時間を想像する契機としての意味をもっています。さらに作品中央の空洞には、制作当時妊娠していた宮永さん自身の呼気が封じられ、これから生まれてくる娘と共有する「二人分」の空気が内在しています。境界を示す「留め石」が、場所と時間、そして人との関係をつなぐ媒体となっている作品です。 2点目の《くぼみに眠る海‒水鳥‒》は、宮永さんのご実家の陶房に残された石膏型の「めがた(くぼみ)」を、100年前の空気が留まった場と見立て、そのくぼみにガラスを注いで像をつくることで生まれました。宮永さんは、意図的にそこに呼気による気泡を入れることで、かつて雌型を満たしていた空気と「いま」の空気を共存させています。  宮永さんの作品は、視覚的にも非常に美しいものです。しかし、それだけではありません。作品が置かれた場所との関係が生み出す物語、あるいは歴史のつながりを拾い上げる視点によって、見えにくい「社会的な関係性」そのものが示唆されている。その点が非常に重要だと思います。 [宮永]  わたしは作品を展示するなら、「その場所に何があるのか」「これまでに何があったのか」を知りたいと思っています。展覧会だと、どうしても作品そのものに視線が集中しがちですよね。でもわたしは訪れた人がこの場所に立ったとき、「ここにはかつてどんな時間が流れていたのだろうか」と想像してもらいたい。だから見てもらいたいのは作品だけではなく、「それをどこに置いたか」ということ。その空間をどのように立ち上げ、見せようとしたのか。そのこと自体を感じ取ってもらえたらと思っています。 [小泉]  わたしたちは現在、インターネットなどを通じて常に誰かとつながっている「常時接続」の社会に生きています。そこではあらゆる瞬間が絶え間なく更新され、意識が「いま・ここ」だけに閉じ込められがちです。そんななか、宮永さんの作品は、ここではない時間、ここではない場所の存在を、ふっとわたしたちに想起させてくれるのです。  空間という点では、瀬戸内国際芸術祭の《「小さなお店プロジェクト」ヘアサロン壽》も印象的でした。このヘアサロンには椅子の正面には鏡がなく、海を見渡せる窓が設けられています。宮永さんによる当時のステートメントを読み上げます。  「おなかにいる時から持ちあわせてきた髪は人生のおしまいがくるまでずっと伸びてゆく。ここで満ち引きの呼吸をききながら、風に耳を澄ませ、椅子の上で少しだけ変わっていく自分。昨日まで、明日を整えて。日常の流れる向こう側、こちらから見る海。壽のとき。」 [写真:《「小さなお店プロジェクト」 ヘアサロン壽》のある部屋から海をのぞむ] [宮永]  プロジェクトの会場となる壽荘で、海が見える窓に出会って、「美容院にしてみよう」と思いつきました。一緒に美容室をお願いしたのは、香川県に住み、月に何度か女木島に通って、おばあちゃんたちの髪の毛を切っていた美容師の方でした。ただ、彼女は「わたしが髪を切ることが、なぜアートになるのかわからない」とずっと戸惑っていたんです。わたしからは、「あなたと美容室をひらくこと自体が、わたしのアート作品だから、普段通りに切ってください。きっと髪を切っているうちに、わかると思います」と伝えていました。  ここで髪の毛を切ると、自然と海の話がはじまり、やがて、いつのことかわからない記憶や昔の出来事が、少しずつ語られていく。その時間そのものが作品になるはずだと考えていました。  しばらくすると、彼女から電話がかかってきました。「言っていたことがわかりました。海を眺めながら髪を切っていたら、おばあちゃんがお嫁に来たときの話をしてくれて、すごく豊かでいい時間だったんです」と。まさに、そうした時間こそが、わたしがつくりたかったアートです。 [小泉]  光や風を受けて表情を変える海や、そこを行き交う人々を眺めながら、少しずつ変わっていく「わたし」をあらためて認識する。そんなプロジェクトをプロデュースされていたわけですね。 [小見出し] 「わからなさ」を受け入れる [森]  続いて、なかざきさんからも自己紹介をお願いします。 [なかざき] 僕はもともと画家になろうと思って、美術大学の油絵科に入りました。ただ、周りを見ているうちに、現代美術のほうがおもしろそうに見えてきたんです。絵を描くというより、いろいろなものをぐちゃぐちゃに混ぜたり、大きなものをドンとつくったり。そんな表現に惹かれていました。  ただ、卒業制作に向けて、いろいろ試していくうちに、何が良くて何が悪いのか、自分でもわからなくなってしまった。それでいま思えば安易なんですけど、「〝デザイン〞じゃなければ、〝アート〞になるんじゃないか」と思ったんです。そこから「看板」というデザインの形式をあえて使いながら、ズラすことに挑戦しはじめました。  《看板屋なかざき》では、クライアントと、わざと理不尽な契約書を結びます。伝えたい情報は載せるけれど、デザインの最終決定権は僕にある。そんな少しおかしな契約の結果として、クライアントの意図とは、ずれた看板が生まれてくる作品です。  卒業制作展では実際、100人くらいに営業して、看板をつくりました。本来、人を惹きつける目的の看板ですが、僕がつくっていたのは、あえてダサくて、かっこ悪くて、少し不快なもの。大学全体を白いペンキで塗ってギャラリーに見立てるような状況を、壊したいという欲望もあったからです。結果として、キャンパスに入った瞬間に「文化祭みたいだな」と思ってしまうような雰囲気になっていました。  自分なりにやりきったんですが、契約や展示場所、他者の問題が一気に押し寄せてきて、正直、自分の手に負えなくなってしまった。その後、この経験をあらためて振り返りたいと思って大学院に進学。現代美術を研究しながら、自分で再検証していくことで、だんだん作家になっていく。そんな過程を経て、実際に契約を結ばず、「もし有名企業と契約したら」という仮定で、ずれたイメージの看板もつくるようになりました。 みなさんが知っている「みずほ銀行」や「マクドナルド」の看板もあります。  シンガポールや青森など、いろいろな場所で看板をつくりました。実在するお店の言葉や、個人的な言葉が混ざり合って並ぶ風景がおもしろかったんです。作品のなかに他人が入ってくることも、次第に自然な風景になっていきました。  その後は制作と並行して、場づくりにもかかわっていて、一人で完結する作品というより、いろんな人とかかわりながら、プロジェクトベースで活動を続けています。 [森]  続いて、小泉さんから、なかざきさんの展示作品についてもお話しいただけますか。 [小泉]  いま目の前にあるのが、《看板屋なかざき》の作品です。このシリーズでは、依頼主と制作者の対等な関係性がつくられています。依頼主が発注しても、最終的なデザインは制作者に委ねられる。だから、当然ミスコミュニケーションが起こる。そのミスコミュニケーションを「許す」というアート作品なんです。両者のずれを許容して、解釈のねじれが組み込まれる余地が残されている。元の言葉が脱色されて、土着化され、カタカナ固有の色やにおいが立ち上がっています。  中央と地方などの権力関係が固定化されながらも、平等を装っている現代において、なかざきさんの作品は人々とともに、デザイン風、あるいは物語風、演劇風に「演じ返す」ことで、その権力性を反転させる。そして、新たな可能性を見出そうとする試みだと、わたしは捉えています。それは受け手側の解釈の余地̶ずれを起こす余地̶を生み出し、送り手と受け手側の合作としての新しい何かをつくり出すことにもなります。だからこそ、わたしたち双方を許容するような「ホーム」としてのまちの景色の可能性のようなものが、なかざきさんの作品には、ふっと浮かび上がるんですよね。看板が並ぶ、どこにも実在しないまちの風景にもかかわらず、なぜか逆説的に、みんなにとっての「ホーム」のような感覚が立ち上がってくる。 [写真:《看板屋なかざき》photo: Kuniya Oyamada]  舞台上にある看板もそうです。どこか懐かしくて、みんなを許容してくれるような感覚がある。どこか見覚えのある風景や物語の断片を結びつけつつ、しかし現実にはどこにもない景色を描き出すことで、もしかしたら「あり得たかもしれない、あり得るかもしれない社会の可能性」を紡ぎ出す。そうやってわたしたちの想像力、ひいては現実社会に介入してくるアートだといえます。 [なかざき]  今回、設置している作家の方々って、意外と「手放している」というか。使い勝手のよい絵の具や筆を使うのではなく、すごく不自由なものと格闘しながらかかわっていく。話を聞きながら、そんな関係性を思い浮かべました。そして僕も、それを大事にしているなと。  以前、学生時代の先生が、「作品は自分のものであるし、自分を表現してみたい。美術は自分の投影物なんだと最初は思う。だけど、つくり手は自分でありながら、いかに作品と他人になれるかだよ」と言っていました。  当時はその感覚がよくわからなかったんですが、作家と作品は、親と子の関係に似ていますよね。作品のことを一から十まで理解していて、常に親である自分の名前もついている、こどもみたいな感覚ではある。でも自分だって、親のことをよく知らないですよね。10代の頃、誰とどう遊んで、どんな友達関係があって、どこへ行って、何を考えていたとか……それを知らなくても、つながっていられる。まず「知らない」ことを認める。要は、こどもを自立させるということなんでしょうね。過保護に「この子はこうなの!」と全部説明することなのではなくて、自分が知らない関係を結んでいくことを許すことなのかもしれない。 [小泉]  今回のアーティストのみなさんは、いろんな見方ができる作品をつくっていらっしゃいますよね。わたしの解説はあくまで「わたしにとってはこう見える」ということなので、別の見方をしてもいいんだと思います。 [なかざき]  作家の前で作品の話をするのはいやだと思うこともあるでしょうが、作家が思ってもないような話が出てくるのが、批評されることのおもしろさです。芸術作品は、そうあってほしいと思うんですよね。  そう考えると、僕らは100年前の作品でも、どんな文化背景があったのか̶そういうことを知らなくても感動しちゃうことがいっぱいある。もちろん精一杯わかろうとして、歴史や背景を勉強することもあります。でも、全部を理解できているかどうかはわからないし、そういう「わからなさ」も、いいかなって思います。 [小見出し] ばらばらの物語がある豊かさ [森]  なかざきさんも同じ瀬戸内国際芸術祭で、地域の方に協力をお願いして作品をつくられていましたよね。依頼された側の人たちの反応は、いかがでしたか? [なかざき]  「瀬居島プロジェクト/SAY YES」展ですね。瀬居島は、埋め立てによって陸続きとなり、いまは車で行けるようになった、「かつて島だった地域」です。工業地帯が広がる道を抜けていくと、突然、島の風景に戻るような場所が現れる。そこで、廃園になった幼稚園を会場に作品を展開しました。  数年にわたって、地域にゆかりのある方々にインタビューをさせていただきました。それを100字ほどのエピソードに分けて、30個ほど切り出し、順番はあえてばらばらにして、言葉や物語のコラージュのようなかたちにしていったんです。  そこに、関係ありそうなもの、なさそうなものを含めて、僕がつくったオブジェクトや、その場所に残っていったものを組み合わせて展示しました。たとえば、お月さまのお話には、満月を連想するようなライトボックスを置いたり、漁師のおばあちゃんのお話には、亡くなったおじいさんが昔使っていた大漁旗やプロペラを置いたり。そうやって、いろいろなお話を集めた作品です。 [写真:「瀬居島プロジェクト/SAY YES」展 なかざきとおる《Say-yo, chains, what do you bind or release?》展示風景photo:Ken Kato]  歴史って、大きな力をもった人たちが、あるパースペクティブから見た、「正しい一つの大きな歴史」として語られることがありますよね。僕自身、美術をやっていて、美術史を勉強し、その流れのなかにいたいと思って制作していますが、それができているかは、もっとあとにならないとわからない。  同時に、30年したら、僕らが生きている時代も、「この時代はこうだった」という一本の歴史になってしまう側面もあると思うんです。でも、いま僕らが生きてる現実は、一本では語りきれない。10人いたら10人それぞれ違うことをしているし、勝手なことを言っているし、目立ってる人に文句を言う人もいる。渦中にいる人たちにとっては、そんなにきれいな話じゃないですよね。でも、それがすごく豊かで、おもしろい。 [宮永]  わたしも、そういうことが豊かだと思って、今日もお話を聞いていました。でも一方で、多くの人が、そこに「豊かさ」を見出せる場面は、案外少ないのかもしれない。「豊かさ」ってすてきな言葉だけれど、実は捉え方はいくつもありますよね。 [なかざき]  というか、正直、面倒くさいですよね(笑)。話を聞いていくと、みんな言っていることが本当にばらばらなんです。ここのおじいちゃんはこう言っているのに、あっちのおばちゃんは「違うよ」って言う。全然らちが明かない。でも、それがリアルなんですよね。事実と少し違っていることもひっくるめて、その人が思っていること、信じていることを、僕に話してくれる。そのこと自体がおもしろい。そうした、ぼやっとした感覚や記憶の集まりとしての歴史のあり方って、すごく人間的だなと思います。 [小泉]  「自分とは違う人である他者」に、きちんと耳を傾けるための技法、と言ってもいいのかもしれません。わたしたちはどうしても、「わからない人」と話すことを避けがちですよね。でも、アートを介して、それが一つのかたちとして見えるものになる。  なかざきさんの作品では、人々の矛盾やズレを含む視点が生み出す可能性が提示されている。宮永さんの場合は、ほかの空間や時間、他者への想像力を喚起しながら、それらを大きく包み込んでいく作品です。それぞれ異なるかたちで、わたしたち側からは見えにくい歴史の盲点や人々の物語、「他者」の感情を、強く浮かび上がらせていると感じました。 [小見出し] 「生活圏」とアートに託したもの [小泉]  現代は、わたしたちの「余暇の時間」さえもが管理され、資源として消費される社会といえます。そこでは、芸術や創作活動までもが、産業や資本主義の論理に取り込まれてしまう。「他者との違い」を生み出すためのツールとして、アートの経済的な有用性ばかりが求められてしまうわけです。  一方で、今回の展示作家の一人・こやまだとおるさんは「眺めるというコト」という論考で、こんなことを書いています。「私は他者にはなれない、でも、他者の視線は私に内在する可能性がある。その日から、眺めることは目的から愉しみに変わった」。ここでは「他者」の感情を想像し合うような共感・同感の力が想起されます。  わたしたち一人ひとりの「居場所」や「ホーム」は、決して閉じたものではなく、常に誰かやどこかとつながりながら成り立っている。そのつながりの重要性を可視化するものとして、すぐには理解できない表現や、社会的な関係性そのものを価値として含み込むアートや実践があります。  これまでの文化政策では、すでに存在し、理解可能で、定義された作品や活動が、主に評価の対象とされてきました。そこでは、普遍性や安定性が前提とされ、時に排除を伴いながら、政策を組み立ててきた側面があったと言えます。  しかし、これからわたしたちが重視すべきなのは、すでにある評価の定まったものだけではありません。まだ存在していないもの、あるいは簡単には理解できず、明確に定義さえできないプロジェクト、そうした、結果ではなく協働や包摂、変容の「プロセス」そのものを価値とする活動こそが、重要な意味をもつはずです。  それに伴い、わたしたちがもつ価値の基準そのものも、更新されていく必要があります。狭い意味での美学的な美しさや経済的な指標だけではなく、人と人との関係性のなかから生成される新たな価値に、目を向けていくことが求められています。  今回、「生活圏」とアートというテーマで語られた営みや作家たちの言葉、実践の積み重ねは、こうした文化政策に対する視点の転換を示しているのではないでしょうか。 [森]  ありがとうございます。今回のお話を通して、「生活圏」とアートという言葉に託したものを、ぼんやりとでも感じ取っていただけたでしょうか。「生活圏」は時代とともに変化し、わたしたちは移りゆく、ある一つの価値観のなかに身を置いているにすぎません。無自覚にいまの社会を捉えてしまいがちなところを、アーティストが少しだけずらしてくれたり、問いを投げかけてくれたり。アートが介在することで、豊かさとも、混ぜ返しともいえるような状態で、ものごとが動いていく。そうした感覚を「生活圏」とアートと言い表してみた、というところです。  それは、たとえば海辺の美容室のように、美術館の「ホワイトキューブ」のなかでは持ち得ないアートのあり方なのではないでしょうか。今回は、その具体的な事例のお話を聞くことができたと思います。  言葉がまだ用意されていなかった仕事が、次第に言葉を得て、定義されていく。その言葉が、さらに流れを生み出していく̶そうした変化を感じ取っていただきながら「居場所とわたし」から「わたしの居場所」への議論ができればと思っています。 [本文終了] [オープニングセッションのページ終了] [38ページ、セッション1のページ開始] [タイトル] 他者とともに生きるための実践 [リード文開始] 動物園・水族館での生きものとの触れ合い、そして医療福祉とアートをつなぐ試み。一見すると異なる領域の取り組みにも思えるが、いずれも他者とともに生きるための実践が日々重ねられている。領域を超えて語り合ったのは、動物園・水族館の教育普及に携わる天野未知さんと、医療とアートを横断しながら地域の場を育てる唐川恵美子さん。二人はそれぞれの現場で、ケアをどのように捉え、人と生きもの、人と人の関係性を編み直してきたのか。神奈川県障害者芸術文化活動支援センターを運営する田中まみさんを聞き手に、その実践と思考をたどる。(セッション1 文化的なケアの実践) [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 天野未知(読み:あまの みち) 東京動物園協会 教育普及センター所長 東北大学で海洋生物を学んだのち、葛西臨海水族園に就職。都立動物園・水族園で、生きものや生きものの暮らす自然環境の魅力や尊さを「伝える活動」に携わる。現在、上野動物園、多摩動物公園、葛西臨海水族園、井の頭自然文化園の4つの園の教育普及活動を統括、サポートするポジションで、来園する多様な方々一人ひとりに楽しい学びを提供するために奮闘中。趣味は里山歩きや素潜りでの生きもの観察。 [写真:あまのみちの顔写真] 唐川恵美子(読み:からかわ えみこ) 「ほっちのロッヂ」文化環境設計士 東京外国語大学ドイツ語学科および同大学院修士課程を修了後、東京都内・福井県内の公共ホールにて事業企画運営に携わる。2017年より地域のなかでアートが根づく「アーティスト・イン・ばあちゃんち」主宰。2020年、長野県軽井沢町にオープンした「診療所と大きな台所のあるところ ほっちのロッヂ」へ参画し、医療福祉ケアを担うスタッフやアーティストとともに作品制作、地域活動を展開している。 [写真:からかわえみこの顔写真] 田中真実(読み:たなか まみ) STスポット横浜 事務局長・副理事長 東京工業大学大学院社会理工学研究科修了。2008年より「STスポット横浜」に入職。文化施設や芸術団体と学校現場をつなぐ横浜市芸術文化教育プラットフォーム事務局、地域文化をサポートするヨコハマアートサイト事務局の運営を行政と協働で行う。2020年より神奈川県と協働し、福祉現場と芸術文化をつなぐ神奈川県障害者芸術文化活動支援センターを運営。「アートNPO リンク」スタッフ、「アクションポート横浜」理事。 [写真:たなかまみの顔写真] [登壇者プロフィール終了] [本文開始] [小見出し] 生きものをみる目、生きものを感じる心 [田中]  わたしたち3人は異なる分野の現場をもっています。今日はそれぞれの実践を通して、「文化的なケア」って何だろうということを一緒に考えていけたらと思います。まずは天野さんから、動物園・水族館の教育普及活動について教えてください。 [天野]  いま日本にある動物園・水族館は、大小合わせて約290か所。これは世界的にも多いほうで、日本人は動物園・水族館が大好きといえるでしょう。また、乳児から高齢者まで幅広い世代が訪れ、レジャー、観光、散歩など来訪目的もさまざまです。 2024年には東京都の4園で、約630万人ものかたが来場しました。  日本の動物園はこどもの娯楽施設として発展してきました。しかし、近年は生きものの減少や絶滅種の増加を背景に、動物の保全や教育、調査研究を担い、多様な人々に生きものを介した学びを提供する社会教育施設へと役割を大きく変えています。わたしが所長を務める教育普及センターも、こうした流れのなかで、7年前に設立されました。  わたしたちが大切にしているのは、生きものをただ「かわいい」とみるにとどまらず、「なぜ?」と問いをもちながら、じっくり観察し、能動的・科学的に「観て」学ぶ姿勢を育む場にすること。気軽に参加できるものから専門的なプログラムまで、また、障害のあるこどもや動物園・水族館に来られないかたに向けても、多様な学びの機会を提供しています。  近年は、虫とりや釣りの体験が少なく、自然の変化に気づきにくいこどもが増えていると言われます。「生きものをみる目」「生きものを感じる心」が弱まりつつある現状を踏まえると、「保全」とは、人と自然が共生する関係を取り戻すことではないでしょうか。動物園が入り口となり、自然への興味や理解を深め、生きものや環境と継続的な関係を築くきっかけとなることを目指して、日々、教育普及活動に取り組んでいます。 [写真:学校団体の児童に生きものの見方を伝える様子。] [田中]  唐川さんは、「ほっちのロッヂ」の文化環境設計士として、医療福祉の現場に従事されています。具体的にはどのようなお仕事をされているのでしょうか? [唐川]  ほっちのロッヂは、一言で言えば「診療所と大きな台所のあるところ」です。病院に通いにくい方や自宅療養中のかたに向けて医療を届ける活動を行っています。高齢のかたや主に障害のあるお子さんも制度を使えるようになっているので、さまざまな年齢や状態のかたが集まる場でもありますね。「ケアの文化拠点をつくる」こと、そして「症状や状態、年齢じゃなくって、好きなことする仲間として、出会おう」を合言葉に、医者や看護師も一緒にサークル活動に参加するなど、立場を超えたかかわりが生まれています。 [写真:ほっちのロッヂ外観]  わたしが担当する文化企画には、大きく三つの柱があります。一つ目は「地域連携」。地域の方々と好きなことを通じてつながる取り組みです。編み物やランニングなどのサークル活動や、地域のお祭りへの出店などを担っています。ほかにも放課後にはこどもたちが自由に過ごせるアトリエ活動を行ったり、第二土曜日には「土曜自習室」として、地域のかたがやりたいことを持ち寄れる日を設けたりもしています。  二つ目は「滞在制作支援」です。プロのアーティストに一定期間滞在してもらい、互いの経験を交換しながら、創作のきっかけを得る創作支援を行っています。  三つ目の「広報啓発活動」では、医療福祉をアップデートするアイデアや、地域のかたから生まれた実践を発信しています。緊急避妊ピル処方をはじめたのをきっかけに、町内の保育園や学校での性教育をしたり、多様性を尊重する地域を目指し、玄関にプログレスフラッグを掲げ、外国籍の住民への医療通訳・発育の相談をしたり。病気になってから行く場所ではなく、好きなことをする場所として地域の方に認識してもらいたいと考え、日々取り組んでいます。  最近では、サーカスアーティストの金井ケイスケさんとともに、さまざまな状態のかたが参加できるプロジェクト「つながるサーカスキャラバン」もはじめました。医者が患者に一方的に「処方」するのではなく、それぞれの関心を起点に関係を築く。その考え方を地域にも広げながら、「ケア」をよりひらかれた文化として育てていきたいと考えています。 [小見出し] 自ら気づき、動きたくなる状況をつくるには [田中]  それぞれの現場で、訪れてもらうこと自体をゴールにするのではなく、その先を見据えていらっしゃる点がとても印象的でした。同時に、誰かから与えられるのではなく、自ら何かに気づき、発見していくことの重要性も感じました。天野さんは、来園者が能動的に発見していくために、どのような実践をされていますか? [天野]  たとえば、生きものビンゴやクイズをするときは、知識がなくても、生きものをちゃんと観れば答えにたどり着ける問題にすることを心がけています。ほかにも、肉食動物と草食動物の目の位置の違いを学ぶ際には、実際にお面にしてかぶって体験してもらったり、干潟や田んぼなど園外にフィールドを広げ、自然のなかで体験するプログラムをおこなったり。知識を教えるより先に、身体や感覚を使って気づいてもらうことを大切にしています。  遠方に行かなくとも、身近な都会にも小さな自然はあり、そこにもさまざまな生きものがいる。だからこそ動物園・水族館は、自然や生きものを「観る」ことを楽しめるようになるための、トレーニングの場でもありたいなと思っています。 [唐川]  わたしたちはどんな人も出入りがしやすく、継続しやすい場にすることを意識しています。たとえば月1回、あるいは2回など、頻度だけを決めておいて、「そろそろ編み物をしたいな」と思った人が主催者になる。そうした気楽なあり方の方が、結果的に長く続き、うまくいく実感があります。  また、困りごとで集まるのではなくて、興味を惹かれるものや好きなものを中心に集まることも大切にしています。そこに、たまたま看護師の資格をもっている人がいたり、身体のことに詳しいリハビリのトレーナーがいたりする。そうして編み物をするなかで介護の上での困りごとの話題が出れば、周囲の人が自然と動いていく。「この人のためだったら、動いてもいいな」と思える関係性が、地域のなかで生まれていくかたちがいいなと思っています。 [田中]  言い出しっぺが入れ替わることで、「ここがないと生きていけない!」とある意味で依存してしまうことも避けられそうですね。 [唐川]  ほっちのロッヂ共同代表の紅谷浩之は、医療者として「眼鏡」のような存在でありたいと、よく話しています。眼鏡は視力を矯正するための医療機器として生まれ、生活を根底から支えているものですが、いかにも医療機器という存在ではない。視力が悪くなくても、おしゃれとして身につけることもありますよね。医療者も、そんなふうに意識しないくらい自然な存在になれたらいいなと。  医療はあくまで解決策の一つにすぎず、日常生活のなかでたまに頼るくらいの存在でいい。たとえば、医者が「患者」と呼ばれる人に出会い、「この人には薬じゃない気がするんだよね」とつぶやいたとします。すると、保育士の資格をもつ人が「この人、本当は何がしたいのかな?」と言い、それを聞いたこどもたちが「この人、絵が上手らしいから、漫画の描き方を教えてほしい」と言う。そこでわたしが「この人にアトリエの先生をやってもらおうかな」と言うと、看護師の資格をもつ人が「おもしろそう」と賑やかしてくれる。そんな状況が日々の現場で生まれています。  人が抱える困りごとはとても複雑で、行政、警察、病院など窓口が分かれてしまっていては、なかなか解決につながらない現状があります。そんななかで、「ほっちのロッヂなら、医師も看護師もこどもの専門家も、場合によってはアートの人もいるし、きっと何とかしてくれるよ!」と言って、託されることもあります。 [田中]  そう考えると、ほっちのロッヂがすべてを背負うのではなく、どこまでを担い、どのタイミングで専門家に手渡していくのか、その見極めも重要になってきますね。 [小見出し] 身近にある自然に目を向ける [天野]  動物園には、飼育係や獣医師、教育、事務をはじめ、機関誌『どうぶつと動物園』の企画編集担当など、さまざまな職種の職員がいます。ですが、獣医以外は、就職してから現場で専門性を身につけていくことが多いですね。また、来園者から求められる専門性も、時代とともに変化し、多様化しています。その変化に応えるために、国が推進する絶滅危機動物の保全活動に協力したり、地域の小学校と地域の方々をつなぐハブとなる役割を担ったり、ネットワークづくりも含めて専門性を更新してきました。 [田中]  自然や生きもの全般の専門家でありながら、地域に根ざしているのは心強い。一方、より専門的な知識や資格が必要な医療・福祉分野では、状況が違いそうですね。 [唐川]  特にいま、専門家しかもっていない「人がどのように命を終えるのか」という知見は、とても重要だと感じています。がんの末期には何が起こり、どのように終わりに近づいていくのか。こうした情報を専門家以外の人にも少しでも共有できたら、悲しみを支え合えるよりよいコミュニティが生まれるかもしれません。医療福祉の専門性は敷居が高く見えがちですが、核にあるのは人間の普遍的な営みです。だからこそ、文化として地域にひらいていけるのではないかと感じています。 [天野]  生きものの知識も、ただ「教わった」だけだと、なかなか身につかない。自ら「調べたい!」と思ってもらうにはどうしたらいいか模索中ですが、学校で生きものを飼育するサポートをしたり、自宅でビオトープをつくったりといった普及活動にも取り組んでいます。「ビオトープをつくって、メダカを飼ってみたけど死んじゃった。鳥が来て、いたずらしたのかな」̶そうやって、現象から生きものと自然とのつながりを感じ取ることでこそ、自ら知識を得る意欲が湧いてくると思っています。もちろんパンダやゴリラ、キリンのことも知ってほしいですが、もっと身近な生きものに焦点を当てたきっかけづくりが、これからの動物園の大きな役割なのかなと考えています。 [唐川]  ほっちのロッヂの前にも森があって、いつでもはいれるようになっているのですが、足を運ぶスタッフは意外と少ないですね。軽井沢は標高1000メートルの場所なので、ここにしか生えない野草も多くあるのに、それを見分けられるスタッフは数えるほどしかいなかった。そこで、「森のなかで、何をしてもいいですよ」とアーティストの方々を4人同時にお招きしたんです。  そのうちの一人、𡧃田ももさんはまず草刈りからはじめて、自分たちで植物を調べ、マッピングしていきました。さらに、夏草で「三つ編みの道」をつくったり、桑の実をあちこちに埋めて芽が出るかどうかを試したり。造園屋さんのようにきれいに整える庭仕事ではなく、植物の存在に気づけるちょっとした仕掛けを、森のなかにたくさん散りばめてくれたんです。アーティストの動きを見ているうちに、スタッフも「自分が興味を惹かれるところにフォーカスして遊べばいいのか」と気づいていく。日常にあるおもしろさに目を向けることができたプロジェクトだったなと思っています。 [田中]  何かをしてあげることなのではなく、自分のなかでトライ&エラーを重ねながら更新し続けていくことこそが、「ケア」なのかもしれませんね。 [小見出し] 受け取り方の違いに「ケア」がある [田中]  本日のテーマである「文化的なケア」という言葉を聞いたときに、お二人はどのようなことを想像されましたか? [唐川]  わたしは、ケアというのは、一人ひとりの「表現」だと思っています。人や動物、あるいは自然がそこにいたときに、どう反応するか。その反応の仕方は人によって違いますし、反応しない人もいる。ケアという言葉の語源にも、「気遣う」「気づく」といった意味がありますよね。だから、どんな状況だったら反応が生まれるのかを試している場そのものが、「文化的なケア」の実践なのかなと思います。 [天野]  動物園で言えば、生きている動物と向き合ったとき、受け取るものは本当に一人ひとり違うと思うんです。美術館や博物館でも同じことが言えるかもしれませんが、生きている動物の存在がよりそれぞれの想像力を引き出してくれる̶それが人を引き寄せる力になっているようにも思います。動物を前にすると、自然と会話が生まれる。だから、家族と一緒に来たり、初めてのデートで訪れたりする。そうした状況そのものが、文化的なケアにつながっているのかもしれません。 [田中] ケアの対象は、人だけに限りませんよね。動物や自然、あるいは建物を対象にしても、ケアという言い方ができるのかもしれない。  また、ケアは勉強や研修、処方のように一方向の矢印が見えてしまうものとは違って、双方向性を感じられる営みでもあります。動物がどう感じているかは人間にはわからなくても、こちらをじっと見つめ、何かを感じている様子は伝わってくる。そのやり取りや、自分もまた自然の一部であると実感できることも、ケアなのだと思いました。動物園やほっちのロッヂのように、さまざまな人が行き交う場所で、大事にされていることや工夫についてもお伺いしたいです。 [天野]  動物園を運営するわたしたちは「生きている動物がいれば、自然とお客さんが来る」と、どこかであぐらをかいていた部分があったと思います。でも本当に、誰もが楽しく過ごせる動物園になっているのかと、反省するようになりました。  オランダ・ロッテルダム動物園発祥の「ドリームナイト・アット・ザ・ズー」は、障害のあるこどもや小児がんを抱えるこどもとその家族を、閉園後の動物園に招待する取り組みです。1996年にはじまり、現在では世界中に広がり、都立動物園でも10年ほど前から実施しています。  この経験を通して、特別な日だけでなく、いつでも安心して来てもらえる環境を整える必要があると感じ、感覚過敏の方に向けたセンサリーマップの公開や、事前に流れを伝えるソーシャルストーリー[注1:発達障害(特に自閉スペクトラム症)のある方や小さなこどもなどが、現場での体験や流れ、ルールなどを事前に視覚的に理解することで、安心して楽しめるようにつくられた社会学習ツール。注1終了] の用意にも取り組んできました。  ただ、ツール以上に大事なのは、わたしたち自身の意識です。どんな人が利用しづらさを感じているのかを想像し、一人ひとりに向き合っていく。その姿勢こそが大切だと感じています。 [唐川] 「つながるサーカスキャラバン」では、重度の障害があるこどもたちを含めて、さまざまな状態の人たちが参加しています。そこでわたしが何より大切にしているのが、「安心感」です。「誰でも来てください」という言葉のなかに、「自分も含まれている」と感じてもらえるよう、言葉遣いには特に気をつけています。  たとえば、募集要項には「年齢不問。からだの状態や能力不問。」と書き、「障害や病気、医療的ケア、外国のルーツと共に生きている、またはそうした人との活動に興味と共感をもっていること」と明記しています。  本番会場で配布するチラシには、「感動したら、拍手や歓声、呼吸器のアラームで知らせてね!」とも書きました。呼吸器のアラームは緊張感のある音ですが、必ずしも危険を知らせるものではありません。楽しくて心拍数が上がるだけでも鳴ることがある。そうした背景を共有しながら、「楽しいときには、どんどん鳴らしてください」というメッセージを込めています。 [写真:医療的ケア児が空中芸を披露する「ムーンナイトサーカス 2023」 ©矢萩篤史] [田中]  最後に、今後チャレンジしていきたいことを教えてください。 [天野]  唐川さんがおっしゃった、「自分も含まれている」という安心感が、すべての出発点だと思います。動物園は門戸の広い施設ではありますが、まだまだ十分ではないと感じています。誰もが安心して訪れ、学べる場所にしていきたいですね。そのためにも、異なる分野や施設の人とつながり、意見を交わす場が必要だと感じました。 [唐川]  医療の現場で専門家だけがもっている情報を、もっとひらいていきたいと思っています。人が生まれて、どのように命を終えていくのか。その最期の瞬間は、いまはごく限られた人しか立ち会えません。でもそれを、アートを切り口に、文化的な経験として地域のなかで共有していけたらと考えています。 [田中]  わたしはこれまで、障害のある人やこどもを対象に活動してきました。関係性を築くためには、対象をある程度絞る必要があると感じていたからです。でも今後は、地域に暮らす人たちとの関係づくりにも挑戦してみたい。そして、文化施設の方々と悩みや違和感を共有しながら、仲間を増やしていきたいです。 [本文終了] [引用・参考文献] 注1:ソーシャルストーリー、東京ズーネット 上野動物園「ソーシャルストーリー もっと しりたい もるもっと」 2026年2月18日取得、 https://www.tokyo-zoo.net/zoo/ueno/childrenszoostep/moru-SocialStory/index.html [セッション1のページ終了] [56ページ、セッション2のページ開始] [タイトル] ともにあることを可能にする「気配」 [リード文開始] 多様な背景や特性をもつ他者どうしがともにある。そんな場を築くには? 地域やアーティストと協働でプロジェクトを行うディレクターの青木彬さんと富塚絵美さん、社会課題を抱える人々を支えるソーシャルワーカーの松浦千恵さんは、その手立てを「アートの気配」に見出してきた。それは単に、作品を身近に置いて鑑賞することとは異なる。むしろ、人と人とが出会い、触れ合い、認め合う営みを育む、アートの力とも言えるだろう。かたちのない、しかし確かな実感として立ち現れる力とは̶。(セッション2 アートの気配がある居場所) [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 青木彬 (読み:あおき あきら) 藝とディレクター、社会福祉士 首都大学東京インダストリアルアートコース卒業。アートを「よりよく生きるための術」と捉え、アーティストや企業、自治体と協働してさまざまなアートプロジェクトを企画している。これまでの主な活動に『ファンタジア!ファンタジア!─生き方がかたちになったまち─』ディレクター(墨田区、2018年~)など。著書に『幻肢痛日記』(河出書房新社、2024年)、共著に『素が出るワークショップ』(学芸出版社、2020年)。 [写真:あおきあきらの顔写真] 松浦千恵(読み:まつうら ちえ) ソーシャルワーカー(社会福祉士・精神保健福祉士) 2004年頃より「バザールカフェ」にかかわるようになり、現在は事務局スタッフ。依存症専門の精神科クリニックと「バザールカフェ」で主に依存症の方に向き合っている。支援という文脈において、人と人がつながったり、人を受け入れていくバザールカフェの「場」の価値をあらためて感じている。共著に『バザールカフェ ばらばらだけど共に生きる場をつくる』(学芸出版社、2024年)。 [写真:まつうらちえの顔写真] 富塚絵美(読み:とみづか えみ) アートディレクター 文化企画を通じて、芸術との多様なかかわり方を提案するアートディレクター。2008年より東京都台東区谷中で文化創造拠点をつくるアートプロジェクトを開始。 2018年より盲聾者との交流プロジェクト、2019~25 年は京都市京セラ美術館でラーニングを担当し、2019 年より東京藝術大学のキャリア支援教員、2022年より福祉施設を拠点とした「TURN LAND(ターン ランド)プログラム」のディレクターを務める。 [写真:とみづかえみの顔写真] [登壇者プロフィール終了] [本文開始] [小見出し] 地域に根ざし、豊かに生きるための場づくり [青木]  自分の活動に関してこれまでの経緯を話しますと、大学ではアートマネジメントや文化政策を学びました。卒業後は公共劇場で演劇やこども向けワークショップの企画制作を行い、その後フリーランスのキュレーターとして独立。現在は企業や行政といった、アートを専門としていない方々とのお仕事が全体の半分くらいでしょうか。山のなかや商店街の空き物件、町工場、戦争遺跡̶そういった、美術の制度にはない場所でアートを立ち上げています。活動拠点は東京の墨田区と京都の2拠点で、建築分野の方々との交流もあり、アートとまちづくりに関する執筆なども行っています。  また、僕は12歳で骨肉腫になり、2019年に右足を切断し、現在は義足で生活しています。2024年には、足を切断してからの日々の記録をまとめた『幻肢痛日記』(河出書房新社)という本を出版しました。切断した四肢に痛みを感じる幻肢痛自体は知識として知っていたのですが、実際に自分が幻肢痛を感じたことが興味深く、そこから自分の身体の変化とアートに対する考えを重ねた思考の軌跡をまとめた本です。自分自身のそういった経験や、仕事で福祉領域の方々と協働することも多いため、福祉への関心が高まり、今年の2月に社会福祉士の資格を取得しました。  今日、ここでトークできることがとてもうれしいんです。というのは、今回のオータムセッションの会場である自由学園みょうにちかんの創設者、羽仁もと子さんは、セツルメント運動に携わっておられました。[注1:セツルメント運動、19世紀末のイギリスに端を発する社会改革運動で、主に大学出身者や宗教家など中産階級の人々が、貧困層が暮らす地域(スラムなど)に住み込み、地域住民と生活をともにしながら教育・福祉・文化活動を行う取り組みを指す。支援者が地域に「根を下ろす」かたちで活動することが特徴であり、1884年に建てられたロンドンの「トインビー・ホール」は世界初のセツルメント運動の拠点として知られる。日本でも、大学、キリスト教や仏教などの宗教関係団体や、地方公共団体などがかかわって拠点がつくられ活動が展開していき、現在の社会教育活動や地域福祉活動につながっていった。注1終了] 僕が福祉に関心をもったきっかけの一つが、まさにセツルメント運動なんです。19世紀イギリスの産業革命時は、移民の貧困が社会課題になっていました。その貧困地域に宗教家やボランティアの学生たちが移り住み、自分たちも地域の住民として一緒に生活改善を行ったというのがこの取り組みです。いまでいう地域福祉の源流にあたるもので、一見すると福祉活動ですが、同時代の多くのアーティストもこの運動にかかわっていた。そうした点で、現在のアートプロジェクト的なものだったと言えるかもしれません。また、セツルメント運動の展開を調べていくなかで、僕が拠点を置いている墨田区でも、活動が盛んだったことがわかりました。  僕は『ファンタジア! ファンタジア! ―生き方がかたちになったまち―』というアートプロジェクトを、2018年度から2023年度にかけて、東京都とアーツカウンシル東京との共催事業である「東京アートポイント計画」の一環として行いました。これは、墨東エリアと呼ばれる墨田区北東部を舞台に、地域の人々がアーティストや研究者との出会いを通じて、豊かに生きるための創造力を育む「学びの場」を生み出す試みです。このときにもセツルメント運動をヒントとした取り組みを実施しました。  ここでこの運動を紹介したのは、今日のテーマ「アートの気配がある居場所」につながってくると思えたからです。美術史に名前の残っているアーティストがかかわっていた事例もありますが、そうではない無数の表現者たちが、当時この運動に参画していたのではないかと。セツルメント運動を振り返ることが、いまの自分たちの大きなヒントになるのではないかと考え、ご紹介させていただきました。 [松浦] 青木さんのお話が興味深く、もっとお聞きしたいところですが、わたしもバザールカフェについてお話しさせていただきます。  バザールカフェは、日本基督教団京都教区とバザールカフェプロジェクト運営委員会が共同で計画し、1998年に、多くの方々の力によって立ち上がりました。中心人物を挙げるならば、一人は芸術家のこやまだ徹さん、もう一人は牧師でありカウンセラーも担い、関西学院大学准教授を務めていた榎本てる子さんです。わたしの父は医者で、榎本さんとHIV/AIDSの支援活動をともにしていたので、そのつながりで父から榎本さんを紹介されて意気投合し、バザールカフェで働きながら大学に通いました。それから、社会福祉士と精神保健福祉士の資格を取得して、ソーシャルワーカーの仕事をするようになったんです。わたしはいま依存症者とかかわっていますが、当時からバザールカフェには、当事者の人たちが出入りしていました。その頃は依存症についてまだよく知らなかったけれど、振り返ってみると、そこでの出会いが、この仕事をするきっかけになっているのかなとも思います。  バザールカフェは、日本で多くの西洋建築を手がけたウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した宣教師館をリノベーションした建物。2階建てで1階は店舗、2階は住居になっていて、わたしもここに住んでいます。  そもそもバザールカフェは、名前のとおり「カフェ」なんです。立ち上げのとき、病気で仕事を失ったり、外国籍のお母さんで、子育てをしながら働く場がなかなか見つけられなかったり、という人たちの仕事を探していたのですが、それよりも「働く場所をつくったほうが早いやん!」と。それで、いまもフィリピン、韓国、タイの方々などに母国の料理をつくってもらっています。これは、職を得るということもそうなのですが、支援されるだけではなく、「自分にもできることがある」と再確認するプロセスになり、自尊心の回復にもつながっていきました。料理は本当においしいですよ。うちのカオマンガイは京都で一番だと思っています(笑)。  バザールカフェのテラスには、モニュメントのようにはっさくの木があります。冬になれば実ったはっさくを分け合って、地域の人たちとかかわりを築くきっかけにもなりました。カフェスペースの家具も、みんなでペンキやニスを塗ったり、改修したりして手がけたもの。プロにお願いすればすぐに完成させられるけれど、作業工程をわざわざ増やして、たくさんの人のかかわりしろをつくるというのも、ずっと行っていることです。庭では、百人いれば百通りの過ごし方があります。バトミントンをやっていたり、ハンモックで休んでいたり、本を読んでいたり。一人でも過ごせるけれど、他人の気配もある、そんな場所です。  それから、「バザールフィエスタ」という年に一度のお祭りも。普段バザールカフェで働いているスタッフが自分でオーガナイズして出店し、学生と協働することで互いを知り、交流する場として設けています。そのようにして人が集まり、コミュニティができる場所が、バザールカフェだと言えると思います。 [写真4枚。1枚目:テラス。2枚目:カフェスペース。3枚目:庭での日常風景。4枚目:バザールフィエスタでの出店の様子] [小見出し] 人と人がともにいられる工夫 [富塚]  お二人は自然に起こりそうで、でも自然には絶対起こらない人との触れ合いをつくっていると認識しています。青木さんは美術館以外の場所でキュレーションを展開し、バザールカフェは一見人が集まってのんびり休んでいる場所にも見えるけれど、実に手の込んだ仕掛けがあって成り立っている。「自然に起こったらいいな」ということを、あの手この手でつくっている印象です。お互いの話を聞いていかがでしたか。 [青木]  僕が初めてバザールカフェに行ったのは、高校生のときです。アートに関心をもっていろいろな本を読み、こやまださんやダムタイプの活動を通してバザールカフェを知りました。[注2:ダムタイプ、1984年に京都市立芸術大学の学生を中心に結成された、マルチメディア・パフォーマンス・アーティスト集団。情報化社会やHIV/AIDS、セクシュアリティやジェンダーをめぐる問題、生と死の境界、記憶などをテーマに、映像や音響、コンピュータ制御された舞台装置と身体によるパフォーマンス、インスタレーションを国内外で展開。芸術家のこやまだ徹もメンバーの一人で、ダムタイプもバザールカフェが抱える社会への問題意識に共感し立ち上げに参画した。注2終了] 実際に訪れると、正直なところ「この場所のどこにアートがあるのかな?」と、当時の僕は「アートの気配」に気づけなかった。普通に居心地のいいカフェとして楽しんだ記憶があります。それから18年ほど経って今回の打ち合わせで伺った際、この場所が25年続いているのは本当にすごいことだとあらためて実感しました。 [松浦]  バザールカフェはダサいんです(笑)。でもそれは意図していることでもあります。こやまださんも、「完璧じゃないからこそ人がかかわれるんや」とおっしゃっていて。 そんなバザールカフェと、青木さんが行っている取り組みにも、何か共有できるものがあるように思いました。 [富塚]  このセッションのタイトルにある「アートの気配」は、千恵さんの言葉から取ったんです。打ち合わせのときに「アートの気配がないとわたしは生きていけないとわかった」とおっしゃっていて、「へえ!」と思って。  わたしにとっては、今回の打ち合わせが初・バザールカフェでした。『バザールカフェ ばらばらだけど共に生きる場をつくる』(学芸出版社、2024年)というこれまでの活動をまとめた本を読みましたが、実際に行ってみると多様な年齢、出で立ちの人が自然に共存している素敵な風景がありました。さきほど千恵さんが話してくださったはっさくの木も、ただ植えられているわけではなくて、その木を媒介にコミュニケーションが発生するように仕掛けられている。アートとしてそれがちゃんと息づいていて、この場を立ち上げたこやまださんの精神が引き継がれている印象を受けました。 [松浦]  うれしい。本当ですか? [富塚]  本当です(笑)。余白だらけなのに隙がない場所だなって。 [松浦]  ただ、アートの気配が消えそうになるときもあるんです。やっぱり、活動を継続していくにはお金が必要。福祉の観点からは、困難を抱える人たちを支えるという明確なミッションを示すことで、多くの方々の共感を得てきました。言い換えれば、そうしたプロセスを踏まなければ、お金が集まらないということでもあります。  一方で、アーティストのみなさんは、とにかく曖昧で、混沌とした空間をつくるわけです。そのせめぎ合いがずっとあって、次第にアーティストがコミットする機会が減っていったところもある。現在も、アーティストが常時かかわっているわけではありません。それでも、「アートの気配が完全に消えることはないんだな」とも思っていて。それは、最初の段階で仕掛けられたアートが、文化として根づいているからなんですね。  バザールカフェには苦しい状況にある人もいます。揉めることもありますし、でも多様な人が集まるということはそういうことですよね。そういった、「どうしたらいいんだろう、でもいま何かしないと」というときに、アートの気配が必要なんです。みんなで対話するときにも、一息つくためにはアートがいるんですね。 [青木]  松浦さんの「アートの気配がないと生きていけない」という言葉に共感しました。「アート」じゃなくて、「アートの気配」なんですよね。僕は自分のプロフィールにも書いていますが、アートを「よりよく生きるための術」と捉えて活動しています。この4、5年の間に福祉への関心を深めるなかで、セツルメント運動の歴史から感じたものを「アートと名づけられない創造力」と言い表しました。世の中にはいわゆるアートとしては扱われないけれど、無数の表現がある。インディペンデント・キュレーターとして、そういうものと触れ合えるようになりたいと思ったんです。  もうひとつ、ソーシャルワーカーは創造力豊かな専門職だと感じています。緊迫した状況になることもあるわけですが、「どうにかしなきゃ!」というときにこそ工夫が宿るじゃないですか。そこに切実な力が発揮されると思っています。  僕は、そういった方々と一緒に仕事をしながら、「この人たちが感じているリアリティや、いまの制度をちゃんと知りたい」と、社会福祉士の資格を取得しようと決めたんです。その過程では、実習で多くのことを学びましたし、利用者さんとコミュニケーションをとる際などに、「これまでアートにかかわった経験がこんなに生きるんだ」という驚きも感じたんです。そのときに、「アートはやはり必要なんだ」と確信がもてたというか。ソーシャルワークはクリエイティビティにあふれる行為なんだという発見です。バザールカフェはその先駆的な場所でもあったんだなと感じました。 [小見出し] なぜアートが必要なのか? [富塚]  さきほど千恵さんは、「一息つくためにはアートがいる」とおっしゃいましたが、具体的にはどんなことがありますか? [松浦]  それで言うと、「スワロフスキー」の話があります。近くにある大学の学生もバザールカフェでスタッフをしているのですが、かれらも余白がなくて、生きることにしんどさを感じている。みんなといるときに、まるで自分だけが何かをやっている、やらされているかのようにずっとお皿を洗い続けていたりとか。強制しているわけでもなく、みんなも「座ったらいいやん」と様子を見ているんだけど、一人だけギスギスしたり、気持ちがキツくなったりするということが起こるんです。そんな状態のときに、ある人が「座りましょう」と言おうとして、なぜか「スワロフスキー」と言ったんですよ。「なんや」となりますよね。でも、そうしたらみんな座ったんです(笑)。そうやって座るところから、雑談を通して各々の個人的な話がはじまる。その時間をみんな求めているんですよね。専門家に話を聞いてもらうんじゃなくて、普段から時間や場を共有している人と、何をしんどいと感じているのか、ぼそぼそとやりとりをする。それがはじまるためには、「座ろう」じゃなく「スワロフスキー」じゃないとだめだった。そういうことを、バザールカフェでは誰かが起こすんです。  あと、青木さんがおっしゃったように、想像力は大事なキーワードですね。ソーシャルワークとアートは重なり合っているとわたしも実感しています。福祉のように人にかかわる、支援するためには、想像力がないといけない。その人がいる環境や状況をどれだけ思い描けるかが、支援に影響すると思っていて。でも想像力って、常に研ぎ澄ませ続けないと鈍っていきますよね。自分がさまざまな経験をすることで、逆に価値観が凝り固まり、ものの見方を狭めるときもあります。でも、バザールカフェはそれをゆるめられる場所なんです。 [富塚]  「アートの気配が必要だよね」ということを、ここにいる3人は了解して喋っていますが、「本当かな?」と疑問をもっている人もいると思います。なぜ必要なのか、どうやったら伝えられるでしょうか。 [青木]  少し自分の父親の話をします。父は僕が20歳の頃に脳腫瘍で亡くなったのですが、もともと演劇の裏方をしていて。脳腫瘍が見つかって摘出手術をしたあと、言語障害、記憶障害といった症状が出たとき、入院している病棟のロビーを上手、下手に分けていたんです。状況とは合わない言動ですよね。でも、彼は彼なりに自分が失ってしまった機能と現実を、舞台上にいるという設定でつなぎ止めていたと思ったんです。ここは舞台で、上手、下手がある。そうやって自分を落ち着かせていた。僕はそれが、クリエイティビティにあふれる行動だと思えたんです。それは父が、数十年にわたり広く文化芸術に携わってきたからこそ、いざというときに出た行動だと思って。そういうことが起こるためにも、人はみんな、アートに触れたほうがいいんだろうと思えました。 [富塚]  わたしは2020年度からアーツカウンシル東京との共催で、都内の福祉施設にアーティストを招きアートプロジェクトを行う「TURN LANDプログラム」のディレクターを務めています。そこでは福祉側とアーティスト側、どちらかが一方のお手伝いをするわけではなく、一緒に取り組むことで何が起こるかを楽しむ場を設定しています。わたしがキュレーターとして青木さんの活動を見ると、アーティストは福祉側の人とともに課題解決をするだけではなく、作品の発表も行っている。そういう点で、「セツルメント運動」と呼ぶのともまた少し違う活動なのかなと思ったんです。しかも、それを地域のなかで行おうとしていて、すごく複雑なことをしているんじゃないかなって。実際にはどのように進めていたのでしょうか。 [青木]  『ファンタジア! ファンタジア!』では、2021年度から興望館という福祉施設とアーティストの碓井ゆいさんとの協働プロジェクトをスタートし、2022年の「共に在るところから/With People, Not For People」という展覧会に結実しました。興望館は1919年に墨田区でのセツルメント運動を発端に設立され、100年以上の歴史があるんです。その資料室に残されていた写真を図案に起こした刺繍作品と、1939年の職員日誌を手がかりにした架空の職員日誌による作品を展示しました。 [写真3枚。撮影:かとう はじめ。1枚目:「共に在るところから」展示風景。2枚目:刺繍作品。]  このプロジェクトでは、1年目に学童の子どもたちとのワークショップを映像で記録し、アーティストと施設の方へのインタビューを行ったのですが、そのとき施設の方が、「こどもたちは喜んでいていい経験になりましたが、アーティストさんはこれでいいんですか」とおっしゃったんです。でも、一緒に進めていくと、その過程で「これもアートなんだ」とちょっとずつ理解してくれたんですね。展示の最終日にも、ソーシャルワーカーさんが「最初はどうなるかわからなかったけど、青木さんやアーティストの方と一緒にやると、どうなるかわかった気がします」と言ってくださって。「わかった」じゃなくて、「わかった気がする」。そのわかりきれないことを共有できる時間の設計が大事だったのかなと思ったんです。  また、展示が終了したときに、作品をどうするかという話になりました。通常であればアーティストが持ち帰る、あるいはコレクターや美術館が購入します。ただ、80年以上前の職員日誌が残っていたことが頭をよぎり、碓井さんに「作品を興望館に預けると100年くらいは残るんじゃないですか?」という話をして、寄贈することにしたんです。そうしたら、施設のみなさんがバザーやイベントのときに、自分たちでキャプションをつくって、ロビーなどにその作品を展示してくれているんですよ。アートを咀嚼した感じがして、とてもうれしかったですね。これは最初から寄贈する前提で作品制作を行っていたら到達できなかったことだと思うんです。  「人にはアートが必要です」とは、感情的な印象もあって、キュレーターの立場としては言いにくかったのですが、この4、5年でやっぱり必要だと思えるようになりました。それに、セツルメント運動を通して「100年前からアートプロジェクトはある」と言えるようになれば、アートが必要ということが、理論的にも説明できるのかなと。研究者もあまりいない領域なので、実践者としてリサーチしながら、過去と現在をつなげていこうと思っています。 [富塚]  すごく腑に落ちました。打ち合わせのときに、アーツカウンシル東京のもりつかささんが「アートが本当に必要だと確信をもって、それを大切にしている人が専門家だ」とおっしゃっていたのですが、そう実感しました。 [小見出し] 自分の生き方に向き合える「居場所」 [松浦]  すみません、急に話が変わってもいいですか?いまオータムセッションのテーマである「居場所とわたし」という言葉が目に入って、バザールカフェでの打ち合わせで青木さんが話していた、居場所についての話を思い出して。それがすごくおもしろかったので、ここでもぜひ話していただきたいです。 [青木]  はい(笑)。はじめに僕は京都と墨田区を行き来しているとお話ししましたが、昔から一か所にとどまれないんですよ。一つのコミュニティにだけいるのが好きじゃなくて、複数の場所に出入りしたい。自分の身体に重ねると、小学校6年生のときに骨肉腫になり走れなくなったので、いわゆる健常者の子たちの場所にいると障害者とされた。でも、僕は車椅子バスケを中学校からやっていて、そこにいると比較的動ける方の障害者だったんです。その二つのどちらかにも自分がいる、そういう身体感覚がありました。また、母はアートが好きで、父も演劇の人だったので、いろんなところに一緒についていくなかで、「大人ってこれでもいいんだ」とオルタナティブな人生の選択に出会えた。そのときに、自分を一つの場所、一つのアイデンティティにとどまらせなくていいんだと思えたんです。それがアートを軸に、福祉やまちづくりの分野を横断していることにつながっているのかなと。セツルメント運動はまさにアート、福祉、まちづくり、三者の中間にあった領域。自分の関心の交差点なんです。 [松浦]  わたしにとっての居場所を考えると、バザールカフェなのは間違いない。「これからもずっとかかわり続けるんだろうか」と悩むときもありますが、いまは自分にとって必要だからいるんだと思うんです。  「居場所」は「居心地のいい場所」だと、勘違いされているなと思うことがあるんですけど、そうじゃない。居心地がいいだけの場所なら、そのうち必要じゃなくなるんじゃないかなって。バザールカフェがわたしの居場所である理由は、他者を通して自分自身を見る場所だからです。それはとても苦しい作業ですが、自分がどう生きていくかを考える上で必要なことなんですね。  ソーシャルワーカーでいるとき、育児をしているとき、どんなときも「こうあらねばならない」と思ってしまうことがありますが、バザールカフェはそれを解きほぐしてくれる。曖昧で混沌としていていい、答えがなくていい。一緒にいるからといって、お互いに好きになろうとしなくてもいい、理解し合わなくてもいい。それを咀嚼できたことがとても大きかったですね。 [富塚]  「いまはアーティストがかかわっていない」なんておっしゃいましたが、対話を通して、千恵さんにアーティストのような側面があったんだなと気づかされました。お二人とも、今日はありがとうございました。 [引用・参考文献] 注1:セツルメント運動、 大林宗嗣、1926年『セッツルメントの研究』同人社書店 川上富雄、2024年「セツルメント史概観―その誕生から日本における実践まで―」『駒澤大學文學部研究紀要』第81号79- 98頁 注2:ダムタイプ、 NTTインターコミュニケーション・センターアーカイブ「参加者一覧」ダムタイプ 2026年2月20日取得 https://www.ntticc.or.jp/ja/archive/participants/dumb-type/ [セッション2のページ終了] [77ページ、インサイトのページ開始] 「居場所とわたし」に芸術文化も入れてください アーツカウンシル東京機構長 青柳正規 「だれもが文化でつながるオータムセッション2025」は、芸術文化を通じて人々のウェルビーイングを支え、包摂的な社会の形成に寄与することを目的とするクリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョーの理念を、具体的に実践し共有する場として開催されました。本セッションの全体テーマである「居場所とわたし」は、社会のなかで多様な立場に置かれた一人ひとりの存在とそのあり方に、できる限り丁寧な光を当てる視点を提示するために企画されました。 社会には無数の「ひだ」があります。行政や制度の視点からは把握しきれない、くぼみや揺らぎ、手触りとしてしか感じ取れない領域です。「居場所とわたし」というテーマは、まさにそうした社会のひだの奥に分け入り、そこに生きる個々人の実感をすくい上げようとする試みです。その感性によって表現したり表現する過程の行為そのものを、芸術文化であり芸術文化のもつ力として認め合おうとするのが、本セッションの出発点でもあります。 居場所とは、単なる物理的・空間的な拠点を指すものではありません。自然環境との関係、他者や社会とのつながり、文化的表現や価値の共有、そして何よりも「こうありたいと思う自分自身の姿」など、複数の要素が重なり合って形成されるものです。人は生物的 であると同時に、心理的・社会的・文化的、さらには実存的な存在として、多層的に生きています。居場所もまた、その多層性を映し出し、一人ひとり異なるかたちで成立し形成されていきます。 そのことを考える際、わたしたちがその一員であるがゆえに学ばなければならないのが自然です。大地に深く根を張る大木は、揺るぎない存在感をもってその場に立っています。しかし、その安定は、地上からは見えない広大な根の広がりによって支えられていま す。自然のなかでは豊かな根を張ることのできる樹木も、都市空間では制約を受け、同じ姿を保ちながらも根の広がりは制限され弱さを抱え込むことになります。人の居場所もまた同様で、都市化や社会構造の変化のなかで、物理的・相関的な支えが縮減してきまし た。その典型が日常生活で感じることのできるコミュニティへの帰属意識です。だからこそ、「広がることのできない根」を補い、存在を支える別の力が必要と されています。 芸術文化は、その力の一つです。文化は、自然と社会のなかで個人の存在を可視化し、意味づけ、関係づける働きを担います。行為そのものが居場所となる場合もあります。考えること、表現すること、創作することは、自らの存在を確かめ、世界との接点をつくる行為です。人は、そうした営みを通じて「ここにいてよい」という感覚を育んできました。 アール・ブリュットをはじめとする多様な表現活動の広がりは、その象徴的な例です。かつては福祉や支援の文脈のなかでのみ捉えられていた行為が、芸術文化としての属性をもつ表現として評価されることで、アール・ブリュットに携わる人々は社会と新たな回路 で結び直されました。文化が加わることで、居場所は閉じた空間から開かれた場へと変わり、存在の領域つまり居場所は大きく広がり、強化されます。樹木にたとえるなら、アール・ブリュットという考え方が広まることによって、これまで以上に地中に大きく根を張 りめぐらすことが可能となったのです。  アーツカウンシル東京は、東京都の文化政策と芸術文化の現場とをつなぐ中間支援組織として、誰もが創造性を発揮し、社会とつながることのできる環境づくりに取り組んできました。クリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョーは、芸術文化の社会的価値をあらためて位置づけ、心身の健康や社会的包摂といった課題に応答する重要な事業です。本セッションの4日間にわたるプログラムでは、講演、対話、展示を通じて、「居場所」と「わたし」の関係が多角的に掘り下げられました。 会場では、立場や背景の異なる参加者が、それぞれの経験や視点を持ち寄り、文化を媒介とした対話が自然に生まれていきました。そのプロセス自体が、居場所をともにつくり出す実践であり、ウェルビーイングを育む時間であったと言えるでしょう。  芸術文化は、人と人、人と社会を結び、持続可能で包摂的な社会の基盤をかたちづくると同時に、新たな未来を構想する想像力をわたしたちに与えてくれます。本記録が、「居場所とわたし」という問いを通じて、芸術文化の果たす役割への理解を深め、今後の施策や実践へとつながる一助となることを願います。 [プロフィール開始] あおやぎ まさのり 専門は古代ローマ美術・考古学。日本におけるポンペイ研究の第一人者で、50年にわたり古代ローマの遺跡発掘に携わる。東京大学文学部教授、国立西洋美術館館長、文化庁長官、東京オリンピック・パラリンピック文化・教育委員会委員長などを歴任。現在、東京大学名誉教授、山梨県立美術館館長、学校法人多摩美術大学理事長ほか。代表的な著書に『古代都市ローマ』(中央公論美術出版、1990年)などがある。文化功労者。 [プロフィール終了] [インサイトのページ終了] [80ページ、セッション3のページ開始] [タイトル] 手探りの先に、見たい風景を思い描く [リード文開始] 「美術館」と聞いたとき、どんな場所を思い浮かべるだろう。そこにはどんな人が集い、どんな時間を過ごしているだろう。多様化する社会のなかで、美術館のあり方は変わりつつある。きのうち真由美さんは学芸員として、作品の展示や保存に特化した美術館を、人とまちへひらく試みを重ねてきた。一方、大政愛さんは地域のコミュニティ拠点としての美術館運営を現在進行形で実践している。そして、文化施設における社会共生の取り組みを展開してきた駒井由理子さんは、二人の活動に〝誰もが美術に触れられ、居ることのできる場をつくる〞という共通の意思を見た̶。(セッション3 更新された美術館の役割) [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 大政愛(読み:おおまさ あい) はじまりの美術館 学芸員 筑波大学芸術専門学群卒業。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。2016年より現職。アートとコミュニケーション、居場所づくりを活動の軸とし、はじまりの美術館では主に展覧会の企画運営、広報、相談業務などを担当。これまで企画した展覧会に「あなたが感じていることと、わたしが感じていることは、ちがうかもしれない」(2017年)、「ぐるぐるまわってみる」(2025年)など。アートミーツケア学会理事。 [写真:おおまさあいの顔写真] 木内真由美(読み:きのうち まゆみ) 長野県伊那文化会館 学芸主幹 2004年4月より長野県信濃美術館学芸員。長野県伊那文化会館、長野県立美術館を経て、2023年4月より現職。展覧会を担当するとともに、美術館の利用に障壁を感じる人たちに向けて、美術館をより身近に感じ、アートと出会える事業も積極的に行ってきた。2021年にオープンした長野県立美術館の建設にあたり、インクルーシブ・プロジェクトの骨格づくりや、「アートラボ」(五感で楽しむ実験的展示室)の設置にかかわった。 [写真:きのうちまゆみの顔写真] 駒井由理子(読み:こまい ゆりこ) アーツカウンシル東京 事業調整担当課長 現在、都立文化施設のアクセシビリティ向上と各施設の社会共生担当の取りまとめに携わる。2023年まで神奈川県の文化施設に勤務。2016年の障害のある方々の4 つの大会の担当をきっかけに文化施設のアクセシビリティ向上に取り組む。2021年にアクセシビリティ向上と教育普及、あわせて神奈川県域での「共生共創事業」を担う。部署の立ち上げにかかわり、以降「芸術文化を社会にひらく」事業に従事し、2024年より現職。 [写真:こまいゆりこ顔写真] [登壇者プロフィール終了] [本文開始] [小見出し] 美術館を社会へひらく実践 [駒井]  最初に、今回のセッションの内容ともつながってくる「新しい博物館定義(注1)」 (注1:新しい博物館定義 博物館の役割とされる「収集、保存、展示、調査、研究」といった学術研究的側面に加え、「包摂的」「持続可能性」「コミュニケーション」「コミュニティ」「省察」といった言葉が盛り込まれた、社会課題に対する博物館の社会的役割を大きく更新させた定義。2019年のICOM(国際博物館会議)京都大会で提出された定義案の継続審議を経て、2022年のプラハ大会で新しい博物館の定義として採択された。欧米の文化政策では、博物館をウェルビーイング推進の拠点と位置づけた取り組みを推進している。 ICOM日本委員会による日本語確定訳文 「博物館は、有形及び無形の遺産を研究、収集、保存、解釈、展示する、社会のための非営利の常設機関である。博物館は一般に公開され、誰もが利用でき、包摂的であって、多様性と持続可能性を育む。倫理的かつ専門性をもってコミュニケーションを図り、コミュニティの参加とともに博物館は活動し、教育、愉しみ、省察と知識共有のための様々な経験を提供する。」注1終了) についてお話ししたいと思います。この定義における「博物館」は「ミュージアム」を指していて、日本語で言うところの「博物館」と「美術館」を両方兼ねた言葉です。今日は「博物館」と言ったり、「美術館」と言ったりしますが、いずれも英語の「ミュージアム」として聞いていただければと思います。  さて、わたしたちは今回、事前に新旧の博物館定義をよく確認し合いました。以前の定義はどちらかというと、制度・運営の裏づけとなるような実務的な内容です。一方、新定義には「様々な経験を提供する」とあり、大きな意味での理念が入ってきたと感じています。言い換えれば、〝ものの展示〞の定義に、どのように人がかかわっていくのか、どのように人と一緒に過ごしていくのかという〝人〞の要素が加わってきたと。今日は、この新旧の定義をどうつないでいくのか、それぞれの実践からお話ししていきたいと思います。ではまず、きのうちさんから活動をご紹介いただけますか? [きのうち]  わたしの勤務先は長野県伊那文化会館ですが、所属は一般財団法人長野県文化振興事業団という、県100%出資の団体です。長野県立美術館、ホクト文化ホール(長野県県民文化会館)、松本市のキッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)、長野県伊那文化会館、長野県埋蔵文化財センターという、5つの施設の指定管理を担っています。以前、わたしは長野県立美術館で展覧会企画や教育普及活動を担当していたので、ここでは館の歴史を振り返りながら、これまでの取り組みをご説明したいと思います。  長野県立美術館は2021年にリニューアルオープンしましたが、建て替え工事を行う以前は長野県信濃美術館・東山魁夷館という名称の館でした。わたしが勤務しはじめたのは2004年で、その時点では教育普及が未実施。当時、教育普及は都市圏をはじめある程度全国的に浸透していましたが、上の世代の学芸員にとっては副次的なもので、やはり美術館は作品を守る、作品を展示するところという認識のある時代でした。  なので、教育普及を行うにあたっては、学芸員ではなく総務課のみなさんに、「こどもや高齢者の方々とかかわり、美術館を社会へひらいていく活動なんです」とその意義を伝え、ご理解いただいたんです。というのは、当時は指定管理者ではなく随意契約だったので、総務課が県職員だったんですね。それで、「やってみたら?」と後押しを受けて、まずは予算ゼロの状態からスタートすることになりました。  前職で板橋区立美術館に勤務していたこともあり、信濃美術館への配属当初から企画展を担当したのですが、最初はその予算を工面して関連ワークショップをひらくなどし、どういうことができるかを試していました。このときの取り組みを一つ紹介すると、盲学校と連携して行った「手で見て触る彫刻展」があります。この展覧会は、信州大学教育学部で彫刻を指導されている先生との縁から実現したんです。触ることのできる彫刻作品を学生が盲学校へ持ち運び、文化祭で展示するというものでした。 [写真:長野県立松本盲学校での「手で見て触る彫刻展(2008年)」の様子]  それから、伊那文化会館で5年間勤務し、2014年に再び信濃美術館に戻りました。この頃になると、館では「地域の核となる美術館・歴史博物館支援事業(注2)」 (注2:地域の核となる美術館・歴史博物館支援事業 文化庁が2015年から開始。美術館・歴史博物館を主体に、地域にある文化財の活用、観光振興、多言語化による国際発信、国際交流、地域へのアウトリーチ活動、人材育成などを通し、美術館・歴史博物館を活用・強化する取り組みを支援する事業。注2終了) という文化庁の事業が行われていて、補助金を得て地域とつながる企画を担うことになります。基本的にはアウトリーチ活動が中心で、館としてもバリアフリー化への限界、教育普及活動の周知の難しさを経験し、今度はとにかく外にアプローチしようという感覚でした。  そしてその後、全面改築して、新たに長野県立美術館が開館。この美術館を建てる際には、建築家と議論を重ね、美術館の機能を大きく二つに分けました。一つは、作品を保管・展示する美術館機能。もう一つは、県民ギャラリーや交流スペースなどを有した、人が集い出入りする「屋根のある公園」という機能です。  新築にあたっては「ランドスケープ・ミュージアム構想」という、〝周辺の風景に溶け込む美術館〞というコンセプトもありました。わたしは、やはり自然だけでなく、人もまちも含めた空間のありようが、ランドスケープなんじゃないかなと考えています。開館に至るまでに、視覚や聴覚などの障害者団体、重い障害のあるお子さんのお母さんたちによる会の方々などと、建築家、県職員、美術館担当者が顔を合わせてお話しする過程を大事にしてきたことも、お伝えしておきたいと思います。 [小見出し] 「居場所」としての美術館へ [駒井] ではここで、大政さんにお話を聞いてみましょう。といいますのも、わたしときのうちさんは同世代でして、さきほどの博物館定義の話にもあった、実務としての制度にどうやって風穴を開けていくかを試みてきた立場なんです。世代の異なる大政さんのお話から、その違いをみなさんと考えていけたらと思います。 [大政] はじまりの美術館は、「人の表現が持つ力」や「人のつながりから生まれる豊かさ」を大切に考え、「誰もが集える場所」として、2014年6月に開設しました。長期的な目標としては、福祉とアートが同居するこの場所が、寛容で創造的な社会がひらかれていくきっかけになることをめざし、日々活動を行っています。  美術館の運営は、郡山市にある社会福祉法人安積愛育園が行っています。ここは1967年に設立された、主に知的・発達障害のある方の支援をする法人です。児童の入所施設にはじまり、通所支援事業所、グループホームなど多岐にわたる事業を行っており、そのなかの公益事業という位置づけで美術館を運営しています。  安積愛育園では、1997年頃に創作活動がスタートしました。ボールペンを組み立てたり、おまんじゅうの箱を組み立てたりといった作業よりも、何かを表現したりつくったりする方が合っているな、という利用者の方がいたことから、スタッフが自主的にはじめた取り組みです。その後、「いつかアトリエ&ギャラリーをもてたらいいよね」とスタッフ間で思いめぐらせていると、2010年にフランスで開催された「アール・ブリュット ジャポネ」という展覧会で、利用者さんの作品が紹介される機会がありました。それがきっかけとなり、作品を散逸させず、国内で根づかせていくために美術館をつくろうという構想が、日本財団の助成で動いていくことになります。ただ、2012年頃に開館を予定していたものの、2011年の東日本大震災の影響で延期になって。あらためて、作品を展示するだけの場所ではなく、地域のハブとしても機能する場所にしようとコンセプトを立て直し、2014年に開館を迎えました。  美術館では、展覧会のほか、居場所づくりと交流を行う「オハコカフェ」、作家の表現のアーカイブとSNSでの発信、地域の人や団体とのコラボレーション活動などを行い、さまざまなイベント企画、障害のある方の表現活動に関する支援センター事業も行っています。建物は築約140年の酒蔵をリノベーションしたもので、端から端まで十八間、約33mの長い梁が通っています。大きい蔵ですが、西側からも東側からも入って抜けられる構造になっています。  まず、展示室についてお話しします。梁が長いと言いましたが、展示室自体も細長くて、建物の北側から三分の二の広さをもっています。そして、南側にあたる三分の一が、ワークショップもできる多目的スペースのオハコカフェ。展示室には靴を脱いで入ります。美術館としては珍しいと思いますが、近隣の方が農作業の前後に立ち寄れるように、雪国なので長靴でも来られるように、というコンセプトによるものです。靴を脱ぐので、赤ちゃんも床をハイハイできるんですよ。 [写真:北側の展示室からは南側のオハコカフェを望むことができる]  ここでは年に約5回のペースで企画展を実施し、これまでに200組を超える作家を紹介してきました。展示ではテーマを決め、それに合わせて障害のある作家、現 代アートなどの作家の表現を並列に展開し、体験型の作品を展示することもあります。 例を挙げると、過去には今井さつきさんというアーティストが、《人間ノリ巻き》とい う、自分が海苔巻きになれる作品を展示しました。 [写真:今井さつき《人間ノリ巻き》(「無意味、のようなもの」展、2018年)]  また、来館者が主体的に展示に参加できる仕組みを、意図的に取り入れているところも特徴の一つ。展示によっては「はじまりの美術館に暗闇の遊園地があるらしい」「光る車いすがあるらしい」などと伝わって、地域の小学生たちのなかでブームが起こるときもあるんです。櫛田拓哉さんというアーティストの「つみコップ」という取り組みは、紙コップを自由に積み上げていくものなのですが、こどもたちが、「今日はあそこまで積み重ねよう」と話しながら楽しんでくれました。 [写真:櫛田拓哉《こどものにわの作り方》より「つみコップ」(「こつこつと手さぐる」展、2025年)]  ここで、「寄り合い」というはじまりの美術館ならではの活動をお話しします。もともと猪苗代町には美術館がなかったので、開館にあたっては、「急に美術館ができても〝自分には関係ないや〞と思われてしまうのではないか」という懸念もありました。そこで、地域の方々と一緒に取り組む美術館づくりを目指し、開館前にはじめた活動が寄り合いです。最初は町民ワークショップとして開催したのですが、「美術館でどんなことをやってみたいか」「美術館ができることで、まちがどんなふうになっていくといいか」と、期待や想いを寄せてくださる方が参加してくれました。これは開館後も続いていて、冬になるとオハコカフェにこたつを出して、みんなでみかんを食べながら話し合いをしています。 [写真:町民たちが集う寄り合いの風景]  活動内容をご紹介しますと、たとえば「猪苗代あいばせMAP」があります。開館してすぐは、猪苗代に来ても、はじまりの美術館だけを見てまっすぐ帰ってしまう方が多くて、地元の方からは「いいところがいろいろあるのに、もったいない!」という声がありました。そこで、地元の人がおすすめのスポットを自ら紹介するマップを一緒につくったんですね。「あいばせ」は、会津弁で「一緒に行こう」という意味です。 [写真:猪苗代あいばせMAPは美術館や町内で配布]  ほかにも、美術館の敷地には小さなタライを埋め込んだ池があるのですが、地域の方がそれを「猪苗代湖のかたちの池にしたい」とおっしゃって。地面を測量したり、手作業でコンクリートを調合して工事したりして、本当に完成しています(笑)。また、ここ数年は秋になると「焼き芋の季節だね」と言い合って、焼きたいものを持ち寄ることも。だんだんと石焼き芋の技術を習得して、みんなでおふるまいをしています。  「それって美術館なの?」「どこがアートなの?」と思われるかもしれませんが、寄り合いは、はじまりの美術館という場があったからこそ生まれたゆるやかな活動であり、いろんな人が集う美術館がもつ「遊び」の部分だと思います。ボランティアと違って、自分たちがやりたいことを自分たちでやる。そんな地域のみなさんの集まりです。  最後に、居場所についてお話しします。わたしにとっての居場所は「そこに行けば、顔を知っている〝誰か〞に会える」「新しい人やものとの出会いがある」「何もしなくても、そこに居ることが許される」、この3点があてはまるところだと思っています。  はじまりの美術館は、常勤スタッフが館長、企画運営、学芸員の3人、パートスタッフが2人、合計5人で運営しています。事務室もなく、スタッフは常に受付かカフェスペースにいるんですね。そうやって表に出ているので、来館者の方々と交流する機会が多く、「この人とこの人は話が合いそうだ」と、地域のつなぎ役を担うこともあります。  ここには、特別な用事がなくても来てくれる人がいます。また、展示室で表現に触れて何かをしたくなる人たちがいたり、「ここに来れば何かおもしろいものがある」と、展示ごとに来館してくれる人たちもいる。近所の方だけではなく、遠方の方もはじまりの美術館を気にかけて、いろいろなかかわり方をしてくださっています。  わたしにとっての居場所について少し付け加えると、「いなければならない場所ではない、自分が自分らしくいられる場所」とも言えるかもしれません。冒頭で地域のハブという言い方をしましたが、はじまりの美術館は、「自分ごととして、さまざまなことに出会える」「誰かの日常につながっている」「さまざまな人が集うことができる」、そのような居場所だと思っています。 [小見出し] 美術館とのかかわりを生み出す [駒井]  お二人とも、ありがとうございます。まず、きのうちさんのお話では、「手で見て触る彫刻展」が印象に残りました。文化施設側は、つい自分たちがいる施設から提供するという方向で考えてしまうので、ともすれば「触る彫刻をつくりましたので、来てください」といったアプローチになりがちです。でも、きのうちさんはそうではなく、「彫刻を触りたい」という盲学校側からの言葉を美術館として受け取り、展覧会というかたちで応答した。コミュニケーションが成り立っていると思ったんです。 [きのうち]  あの展覧会は、「目の見えない人たちが作品を鑑賞するには?」という視点から生まれたんです。長野県立美術館では現在も、いろいろなインクルーシブプロジェクトを行っているので、ぜひ来ていただきたいですね。信濃美術館時代は教育普及担当者がいませんでしたが、いまは学習交流係という部署もあって、学校団体を対象に教育普及を行う学芸専門員も数人います。 [駒井] 理念を実務に落とし、それを制度にして持続可能なものにするところは、きのうちさんならではの真似のできない技だと思います。一方で大政さんは、新しい博物館定義にある「倫理的かつ専門性をもってコミュニケーションを図り、コミュニティへの参加とともに博物館は活動し、教育、愉しみ、省察と知識共有のための様々な経験を提供する」というところを、非常に軽やかに実現させ、次のステップへと旅立とうとしている。さきほど、はじまりの美術館にはこどもたちが来るとおっしゃいましたが、それはなぜだと感じますか?大政さんは「小学生の子たちの間でブームにさせよう」と狙っているわけではないじゃないですか。 [大政] そうですね(笑)。でも、体験できることを展示に取り入れている点は大きいと思うんです。こどもたちが「何度も行きたい」となるのは、見るものがあるときというより、何か変化があるものや、自分が何かを仕掛けられるものがあるときですね。手紙を書く作品を展示したときは、ある女の子が毎週、違う友だちやお父さんを連れてきていました。そういう、誰かを連れてきたくなるような要素が、展示のテーマや作家の組み合わせ、作品がマッチすることで生まれ、ヒットするのかもしれないなと思います。 [きのうち]  これまでわたしは制度や建物によって、つまり、既にあるものを活用してどう美術館をひらいていくかを考えてきましたが、「自然にこんなことができているんだ」と驚きました。長野県立美術館は高校生以下無料なんです。道を挟んだ隣に小学校があって、子どもたちも毎日来ようと思えば来れる環境。中学校もそう遠くないところにあるのですが、「どうやったらこどもたちの間でブームになるの?」とお聞きしたいです。 [大政] かれらは必ずしも展示のために来ているわけではなくて、「バスケットボールして、クレープ食べてから美術館に来ました」って言うんです(笑)。まちには遊びになるコンテンツが少ないので、日常のなかで、美術館の展示が感覚的にフィットすると、遊びのルートの一環としてやって来てくれる感じですね。  開館前の寄り合いのメンバーには、小学生もたくさんいたんです。「美術館ができたら秘密基地をつくりたい」と計画を立てたチームがあったり、広報チームにも小学生がいたり。いま、寄り合いメンバーにこども世代がいないのは悔しいので、遊びに来ている子たちにも加わってほしいし、中高生とももっとかかわっていきたいですね。 [駒井]  昨日のセッションに「アートの気配がある居場所」がありました。わたしも「アートの気配」が好きで、ついアートを仕掛けちゃうんですよ。前職の公益財団法人神奈川芸術文化財団が管理・運営していたKAAT神奈川芸術劇場では、芸術監督が道行く人に劇場や演劇の存在を感じてほしいと、ガラス張りの広いアトリウムを利用して、アートパフォーマンスを行っていました。こちらから仕掛けていくことも、コミュニケーションを生むきっかけになるのかなと、いまのお話を聞いて思いました。 [きのうち]  仕掛けるという意味では、長野県立美術館時代にヒットしたと思う企画に、彫刻家の冨長敦也さんによるアートプロジェクト『Love Stone Project-Nagano』があります。これは、美術館の建設中に、地下から3つの巨石が見つかったことがきっかけではじまったプロジェクトで、館で出会う人々とともに石を磨くというもの。冨長さんが電動ヤスリで表面を削った石を、リニューアルオープンに合わせて交流スペース前に移設し、来館者と紙ヤスリなどで磨いていきました。いまでも毎年、冨長さんと石磨きワークショップを行っています。ずっと参加し続けてくれている方もいるんですよ。こうした試みが定着していけば、どんどん人が集まっていくんじゃないかなって。それはわたしが見たい風景でもあります。 [写真:冨長敦也『Love Stone Project-Nagano』]  最近、美術館でベビーカーを押して歩いている方が増えていて、すごくいいなと思っているんです。小さな頃から美術館という場に来て、その空気感を感じながら育つこどもたちが、これからどのようになっていくのか。とても楽しみですね。 [駒井]  わたしのこどもがまだ小さいとき、ベビーカーで美術館に連れて行ったことがあるのですが、インカムで指示を受けた警備員さんが走ってこられて(笑)。「わたしは来てはいけない人なんだ」と思ったことがあったんです。長野県立美術館では、こどもと一緒に美術館に来ることが、来館者にとっても日常的になってきている体感はありますか? [きのうち]  いまは多様な来館者を迎え入れるための制度として、いろんな美術館でベビーカーツアーが行われていて、長野県立美術館でもすごく人が集まります。ただ、それは一方で、来館が禁じられているわけではないのに、気兼ねがあって来られないということでもあるのかなと。ベビーカーツアーという制度がなくても、気軽に来てもらえたらいいなという想いがわたしにはあるので、そういう点では、長野県立美術館のひらかれた建築のあり方はそのハードルを下げてくれたと思います。でも、来館者の方にとっては、きっかけとなる制度がある方が来やすいということはあるかもしれません。 [大政]  はじまりの美術館は、特定の対象者に向けたイベントは基本的にしていないのですが、やはりそれは施設が小規模で、公立美術館とは役割がまた異なるからだとも思うんです。むしろ、うちだと距離感が近すぎて行くのに躊躇するけど、大きな館だとベビーカーツアーや障害のある人のための特別鑑賞会、手話通訳などが制度として整っていて、必要な配慮のもとで鑑賞できるという安心感もあると思います。  そういう規模感ともつながってくるかもしれないのですが、うちは来館者の様子をSNSでお届けすることが多くて。「いい風景、いい時間だな」と思うと、許可をいただいてInstagramのストーリーズに載せています。それを見た方が、「赤ちゃんを連れて行ってもいいんだ」と来てくれる。自分がそこの空間にいることを想像できるような情報発信を心がけていますね。 [きのうち]  打ち合わせでそのお話を聞いて、なるほどと思ったんです。美術館は何を展示しているかといった〝もの〞を発信しがちなんだけれど、来館者としては、そこで自分はどういうことができるのか、実際の様子を見て想像を重ねたいですよね。 [駒井]  大政さんの軽やかなあり方と、きのうちさんの構築的なあり方。異なるアプローチに見えますが、実は、めざしているところは同じなんだと感じます。最後に、お二人から一言ずついただけますでしょうか? [きのうち]  美術館は、誰もが気を張らず、ふと立ち寄れる場所であってほしい。そうした状況をつくるためには、まだまだ何か仕掛けていかないといけないなと思います。そしてそれぞれの施設で、やらなければいけないと思ったことをどんどん試してみれば、壁は破れていく。そうやって社会は変わってきたし、これからも変わっていく気がします。 [大政]  「軽やかなあり方」と言っていただきうれしかったです。はじまりの美術館は、わたし一人ではなくチームで運営していますし、地域の人からの何気ない一言が新しい企画につながることもあって、出会いがあるからこそ成り立っているなと思っています。今日のきのうちさんのお話のなかで、「どういうことならできるのか、試しながらやっていった」とありましたが、わたしたちもまさにそうです。わたしは新卒採用でしたし、スタッフの5人とも、誰もほかの美術館で働いたことがない人たちです。でも、わからないからこそ手探りでやってこれたと実感しています。それはきっと、どこの現場でも同じで、そうあっていい。そういう共通認識をもっていけたらいいなと思います。 [引用・参考文献] 注1:新しい博物館定義、 ICOM(国際博物館会議)日本委員会、2023年「新しい博物館定義、日本語訳が決定しました」2025年9月20日取得 https://icomjapan.org/journal/2023/01/16/p-3188 Konta、2024年「博物館の定義から経営を考える―ICOM定義の変遷とその意味」 Museum Studies JAPAN(2025年9月20日取得 https://museumstudies.jp/2024/05/28/what-is-museum-definition 注2:地域の核となる美術館・歴史博物館支援事業 文化庁「地域の核となる美術館・歴史博物館支援事業」2026年2月19日取得 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bijutsukan_hakubutsukan/shien/kaku/ [セッション3のページ終了] [101ページ、映像上映ページ開始] 谷川俊太郎+谷川賢作+ロバの音楽座 「ことばとあそぶ おととあそぶ」 2020年12月17日、自由学園みょうにちかん講堂にて開催された公演(注:東京都および公益財団法人東京都歴史文化財団のコロナ禍における芸術文化活動支援事業「アートにエールを!東京プロジェクト」の採択事業として開催。注:終了)の記録映像を、同講堂で上映。詩人、ピアニスト、古楽器奏者がお互いの声や音を聴き合い、曲や詩作のフレームを遊びながら広げていく様子は、その後に続くセッション4「居場所の見つけ方」のテーマとも重なる。 102ページから103ページは上映映像からの抜粋 YouTube 谷川俊太郎+ 谷川賢作+ ロバの音楽座 「ことばとあそぶ おととあそぶ」 https://youtu.be/4E0EVag35qA?si=xqwBz4hJoxNM45CU [写真:講堂で上映されている「ことばとあそぶ おととあそぶ」の記録映像を参加者が観ている様子。] [102ページ、103ページ、写真16枚:「ことばとあそぶ おととあそぶ」の映像のキャプチャが、同じ大きさで4列、4段に整列している。 1列目、1段目:ハーディガーディを演奏する手元。2段目:ロバの音楽座演奏風景。馬蹄形に座って楽器を演奏する5人の真ん中で、1人が腕を広げて踊っている。3段目:たにかわしゅんたろうが椅子に座っている。表紙に私という漢字が書かれた詩集を見ながら、詩を朗読している。4段目:窓から木漏れ日が入り込む。 2列目、1段目:笛を吹いているロバの音楽座のメンバー。2段目:楽器を演奏するロバの音楽座の2人。左の人は笛のようなものを吹き、右の人は板状の楽器を揺らし動かしている。3段目:ピアノを弾くたにかわけんさく。4段目:たにかわしゅんたろう、たにかわけんさくとロバの音楽座が笑顔でセッションしている。 3列目、1段目:楽器を演奏するロバの音楽座の2人。手前の人はセルパンという管楽器、奥の人は弦楽器のヴィオラ・ダ・ガンバを弾いている。2段目:スクリーンに絵が映し出されている。その前で朗読や演奏をする演者たち。3段目:たにかわしゅんたろうの横顔。歯を見せて笑っている。4段目:楽器を演奏する2人の手元。左に笛、右にアコーディオンのような楽器の一部が見える。 4列目、1段目:楽器を演奏しながら歌うロバの音楽座に合わせて、たにかわしゅんたろうが詩を朗読している。2段目:真ん中に座るたにかわしゅんたろうを残して退場し始める他の出演者たち。3段目:歌と演奏を続けながら舞台袖へと消えていく、たにかわけんさくとロバの音楽座。4段目:ぽつんと1人で佇むたにかわしゅんたろう。][映像上映ページ終了] [104ページ、セッション4のページ開始] [タイトル] つくり合う場から生まれるもの [リード文開始] 身体や心が常に変化し続けているのと同じように、人と人とのかかわりの間に現れる「居場所」もまた、固定化できるものではないのかもしれない。ダンサーのじゃれお理さん、古楽器奏者の松本雅隆さん、作曲家の齋藤紘良さんは、それぞれ創作とそのプロセスを他者と共有しながら、変化を続ける「居場所」を捉えようと試みてきた。言葉だけによらず、場をともにする互いの存在や空気、時間、音といった要素に呼応することから育まれる親密なやりとり。このつながりのなかで、かれらが共有したものとは̶。(セッション4 居場所の見つけ方) [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 砂連尾理(読み:じゃれお おさむ) ダンサー、振付家 1991年に寺田みさことダンスユニットを結成。近年はソロ活動を中心に高齢者との「とつとつダンス」などアートと社会をつなぎ、ダンスの意味を拡張する活動を行う。濱口竜介、山城知佳子の作品に振付・出演や、水戸芸術館、山形ビエンナーレ2022・2024に招聘作家として参加。著書に『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉――ダンスのような、介護のような』(晶文社、2016 年)。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。 [写真:じゃれおおさむの顔写真] 松本雅隆(読み:まつもと がりゅう) ロバの音楽座 主宰 1973年より中世・ルネサンスの古楽器を演奏する「カテリーナ古楽合奏団」、1982年より音と遊びの世界を繰り広げる「ロバの音楽座」、長年、森のなかで自然の音楽を体験する「ロバの学校」主宰。1998年「ジグの空想音楽会」が東京都優秀児童演劇選定優秀賞、2009年「ロバの音楽座」が第3回キッズデザイン賞・創造教育デザイン部門で金賞受賞。世界を回り古楽器の研究とともに、未来に向け数々の空想楽器を考案・制作している。 [写真:まつもとがりゅうの顔写真] 齋藤紘良(読み:さいとう こうりょう) 作曲家、しぜんの国保育園 理事長 専門はこどもが育ち暮らし老いて死んで次に向かうための環境や文化を考えること。保育施設の運営、東京都町田市の里山地域で500年間続く祭りの創造、寺院の再興、映像番組などへの楽曲提供などを行っている。全国私立保育連盟研究企画委員、大妻女子大学非常勤講師、簗田寺住職。著書に『すべて、こども中心。しぜんの国保育園から知る、こどもの主体性を大切にしながら家族が豊かに暮らす方法』(カドカワ、2020年)。 [写真:さいとうこうりょうの顔写真] [登壇者プロフィール終了] [本文開始] [小見出し] 自らの表現の起点を共有する [齋藤]  まずは3人で、チューニングの時間をとりたいと思います。現在の活動に至った経緯について、それぞれお話しいただけますでしょうか。 [じゃれお]  わたしはちょうど高度成長期に、こどもから大人へと育ちました。勉強してよい点を取り、よい学校に行き、その先にあるであろう豊かな生活をつかむ。そうしたある種の幻想のなかでこども時代を送った人は、数字で価値が測られる経験をしてきたと思います。わたしの場合も、そのことに違和感を覚えながら、当時は親や周囲の期待にそこまで反抗できないまま過ごしていました。しかしずっと、身体のどこかに不在感があった。「いま充実している、生きている」という感覚が欠けている自覚があったんです。スポーツに打ち込めば、あるいは自然に向かえば、何か実感を得られるのではないか。そう考えて、高校時代は登山部にも入りました。大学でも登山を続けるか悩んだのですが、大学の登山部は高校とは比べものにならないくらいハードだと聞き、結局は諦めました。 そこで思い至ったのは、「自分がまだアクセスできていないものに触れないと、充実感には出会えない」ということ。そのときに、一番遠ざけていたダンスの世界に足を踏み入れたんです。憧れとコンプレックスの両方を抱えていたんでしょうね。いまやらなければ、一生踊ることはないかもしれない。そう思って、わたしのダンスがはじまりました。卒業後はニューヨークへ渡り、帰国後、バレエダンサーとともに16年間活動することになります。  その過程で、アートの世界はいわゆる資本主義の枠組みから外れていて、自由にのびのびとゆっくり生きられる、というのは勘違いだと気づきました(笑)。毎年新作をつくらなければ、助成金も取れない。これはもしかしたら一般企業に入るよりしんどいことなのでは?と40歳のときに強く感じました。いまの資本主義の枠組みと同じようにやらなければならないなら、いったんそこから降りようと。  語弊もあるかもしれませんが、資本主義の枠組みから「外されている」人たちと一緒に、何かをつくり、かかわっていくことにワクワクしたんです。障害のある方や高齢者の方、社会のスピード感とは異なる時間を生きる人たちと出会ったとき、ここにこそわたしがつくるものがあるのではないかと直感し、かれこれ十数年が経ちます。 [松本]  わたしはヨーロッパ中世・ルネサンス期の音楽をやっています。バブル真っ只中の1973年からカテリーナ古楽合奏団を主宰し、もう52年くらい活動しています。演奏する曲は、作者不詳、詠み人知らずの民衆の音楽から、祈りの音楽、当時のダンスチューンなどさまざま。たとえば、こんな楽器を使っています。 (手に持っている楽器を会場に示す)  中世楽器の多くは東方に起源があり、その響きにも東方の香りが強く残っています。精製された白米というより、雑穀米のような灰汁があります。当時の楽器は、そうしたノイズとも言える灰汁がよい味わいを生み出してくれます。笛や太鼓はもちろん、どの楽器も自然素材なので、音色はあたたかいですね。  しかしこうした東方の響きは、時代の流れとともに西洋の響きへと変わり、徐々に消えてしまいました。何年も前、ベルギーの高校で公演をしたとき、演奏後に学生たちが寄ってきて「この楽器はアジアのどこの国の楽器ですか?」と尋ねてきたことがありました。それほどヨーロッパの人たちの記憶からも消えた楽器なのです。  もう一つの活動に、「ロバの音楽座」があります。1982年に結成したグループで、大人もこどもも世代を超えて楽しめる「音と遊びの世界」をつくることをテーマにしています。演奏する曲はすべてオリジナル、あるいは中世・ルネサンスの旋律に日本語の歌詞をつけたもので、こどもたちの知っている曲は一つもありません。このように説明すると「集中して聴ける?途中で逃げ出さない?」とよく聞かれるのですが、実際は何の問題もなく、平気で1時間くらい演奏を聴いてくれます。ある保育園で演奏したときは、一人の女の子が「懐かしい音だった」と言ってくれました。その言葉を力にして、44年間続けています。こどもたちはニュートラルな感覚でわたしたちの音を受け入れてくれます。  ロバの音楽座では、古楽器を演奏するだけではなく、未来に希望を託して「空想楽器」を創作し、演奏もしています。空想楽器はわたしの造語ですが、こどもたちが大きくなったとき、100年後、200年後には、どんなに愉快な楽器や音楽が生まれているだろう?などと想像するのが好きでつくっています。「古楽器と空想楽器」、「古いと新しい」。この二つのコンセプトは、不思議な化学反応を起こしてくれて、こどもたちによく響く合言葉のように感じています。 [齋藤]  ありがとうございます。ではわたしの活動についてもお話しします。  わたしは「しぜんの国保育園」の園長を15年務め、いまはこの園を含め6つの施設をもつ社会福祉法人の理事長を務めています。しぜんの国保育園の特徴の一つは、教室のなかにアトリエ、建築の部屋、音楽の部屋、読書の部屋といったサブジェクトを設けていることです。こどもたちはそこを自由に行き来しながら、「今日はこれをやろう」「あれとこれを混ぜたらおもしろいかも」と発想を広げ、毎日を過ごしています。  今回の「居場所の見つけ方」というテーマにかかわる活動を紹介します。2014 年に東京都庭園美術館のラーニングプログラムで、ダンサーの東山佳永(とうやまかえ)さんと身体表現と音のワークショップを企画しました。ダンス未経験の参加者とともに2年間ほど美術館へ通い、「その場に呼応して生まれる身体の動き」を考えるというものです。わたしは音楽家として、参加者の動作を見ながら曲をつくり、演奏までを行いました。定期的に美術館へ通うと、だんだん自分の場所になっていく。その場から湧き起こるものを音やかたちとして感じ、それを具現化していく作業がとてもおもしろかったですね。最初は恥ずかしがっていた参加者も、身体がほぐれてくると一人ひとり固有の動きが出てきて、見ているだけで刺激になりました。  さて、本題に入りましょうか。とはいえ、流れをあまり決めずに、話をしたり、ときには踊ったり歌ったり演奏したり。そういう自由な時間をつくりながら進行していきたいと思います。 [小見出し] 「ドローン」という考え方 [じゃれお]  まだ会場も少し緊張しているようなので、みなさん、一緒にストレッチをしてみましょうか。松本さん、何か音を出していただけますか? (松本さんによる楽器の音色が流れるなか)  ではまず、伸びをしてください。手を膝に落として、一度下を見る。背骨の長さを感じて。ゆっくり首を上げる。もう一度、下を向いて、身体をゆるめて、元の位置に戻します。続いて腕を前でクロスして、反対も。頭の上でも。じゃあ、ゆっくりと首を回して、逆回転もどうぞ。元の位置に戻って、目をつぶって、ゆっくり呼吸を。普段より長く吸って、吐いて。力が入ってるなと思うところは、どんどん抜いていってください [写真:ストレッチを行う来場者] ……では目をひらいて。 (ストレッチに合わせ、松本さんの音が静かに止む) [松本]  自分自身の根っこが、少し動いてきたような気がしますね。演奏しながら思い出したのですが、古くからある音楽様式に「ドローン」という伴奏形式があります。一つの音が絶えず流れ、そこに旋律が重なっていくような音楽です。ドローン音楽のための楽器は、世界の民族楽器のなかにもたくさんあります。ドローンがよく演奏された時代の楽器の方が、わたしたちの身体のなかにたくさんの情報をもたらしてくれ、聴くと安らぎ、即興的なアイデアへとつながるような気がします。古典派以降のシンフォニーのなかにも、ドローン的な楽章があり、その音楽に感じ入る人は多いのではないかと思います。ドローンを奏でる楽器の一つにバグパイプがあります。これも即興演奏のための楽器です。齋藤さん、ちょっとバグパイプでお話ししてみませんか。 [齋藤]  やってみましょう。 (松本さんと齋藤さんが、お互いの音を聴き合うようにバグパイプを演奏する) [写真:バグパイプを演奏する齋藤さんと松本さん] [松本]  最近、ドローンのような音を好む若者が増えています。「ドローンの楽器」をやりたいという人が増えていて、とてもうれしいことです。忘れられた自然観や原初的なものに戻りたいという希求のあらわれかもしれませんね。 [じゃれお]  大学時代に京都で、舞踏をやっているスコットランドの人がバグパイプを吹いてるのを見たことがありました。それ以来、今日初めて、しっかり見ました。  驚いたのは、楽器だから「吹く」と同時に音が出るものと思っていたのですが、バグパイプは吹かない時間も、空気袋を押し出すことで音が出ていましたよね。そこから感じたのは、いわゆる音楽がもつ「ライブ性」というよりも、過去に吹いた自分の息吹が、時間差で音として出てくるようなイメージです。それが非常におもしろい。現在の時間と過去の時間とで遊ぶような。 [齋藤]  とてもすてきな表現ですね。音が鳴っていたものが止まると、その空間に緊張感が生まれる。ただ、ドローンによる通奏低音が持続していると、その緊張感がほどけて過去と現在が同じ音でつながれ、演奏者に「次は何しようかな」という余裕が生まれ、次の発想が出てきますね。 [松本]  そうですね。ロバの音楽座は「自然の音に耳をすます」ということを軸にした「ロバの学校」を毎年夏にひらいています。空想楽器をつくり、祭りをつくる、大人とこどもの共同創造の場です。ロバの学校でこどもや大人たちと一緒に体験したいのは、雨のリズムや虫たちの歌声に耳をすまし、自然の音が「音楽」として感じられる感性をもってほしいなと願っています。 [齋藤]  ロバの学校には、わたしも一度参加したことがあります。そのときの体感として、最初は今日のこのセッションのはじまりのように緊張していたのですが、どこかのタイミングでそれがほぐれてくる。すると、周りの人たちも、ほぐれた音を鳴らしている気がして、さらにそれが協和していくのがおもしろい。 [松本]  1日目は「これ、何をやっているんだろう?」と、不満だったり不安な人もいます。小さなこどもたちもいろんな電子音に囲まれていて、少し大きい子は初音ミクのような音楽に夢中です。けれど、プリミティブなロバの学校の音と向き合っているうちに、少しずつこちらの世界も好きになっていくようです。一般的な楽器や音楽の概念をいったん隅に置いて、どこにもない空想楽器をつくり、音楽はもっと身近にあるものと感じられた頃、3日目の夜、へんてこで豊かなお祭り(ガランピー祭)がはじまります。 [齋藤]  ロバの学校に流れる、余白のある、〝間〞とも言ってもいいような時間こそが、緊張をほどく方向へといざなってくれるとも思います。ただ、いまの社会では、この時間を生むのは難しい。社会の時間にとらわれて、余白をつい後回しにしてしまいがちです。じゃれおさんは自己紹介のなかで、資本主義に乗れない人、弾かれてしまう人たちと一緒にいることで、そういう時間を取り戻したと話していましたね。 [じゃれお]  さきほどは「資本主義」と大げさに、偉そうに言ってしまいましたが……。僕が自分の身体が社会の流れやかかわる人によって振りつけられているなと実感したのは、障害のある方とのかかわりを通してでした。たとえば、普段一人だったら5分で行ける距離を、義足の方と歩くと15分かかる。3倍の時間がかかるわけです。でも、その人に合わせて「歩いたら止まる、歩いたら止まる」を繰り返していくと、木の枝が風に吹かれている、空に雲が流れているという、ただそういう時間が感じられたんです。  その後に家に帰って、同じようにゆっくり時間を味わってみようと思って、夕焼けをずっと見てみました。するとまず、カラスが山の方へ帰っていく。次にトンボが出てきて、虫が鳴きはじめる。少し暗くなると「あっ、コウモリが来るんだ!」とわかる。  いつも自分中心で時間を感じ、目的があって動いているから、そういうものを見ていなかったんだな、と気づきました。おそらく、松本さんがロバの学校で大事にしているのは、普段のフレーミングをほぐして、みんなが「音楽」と認識していないものの気配を「聴く」ことなのだと思います。たとえばこの場所でも、二人の声以外に、空調の音が聞こえたり、コソッという物音、紙をめくる音が聞こえてきたりする。音はそういうところにも存在しているし、動きもそこに存在している。僕は40歳ぐらいのときに、高齢者や障害のある方とかかわったことで、そうした意識がひらいていったように思います。 [松本]  そのような体験こそ、いまとても大切な気がします。AI、人工知能がこれからさらに発展して、身の回りが便利になっていくなかで、自然を体感しながら想像力を高め、気配に敏感になること。センスや感性、あるいは第六感と呼ばれるような部分を養うために、舞踏やダンス、音楽など文化の役割はいま以上に大切なものになると思います。 [小見出し] 自分の外にある感覚と出会う [齋藤]  じゃれおさんが言う、高齢者や障害のある方とのかかわりのなかで「意識がひらいていった」ことについて、もう少し説明していただいてもいいでしょうか。というのも、じゃれおさんが、神奈川のみどり福祉ホームで行った「アーティストとともに過ごす時間」というプロジェクトの記録映像で、「目覚めていく感覚」について語っていたことを思い出して。感覚が目覚めていくというのは、内に籠もっている状態から、目が外へと向いていくことですか? [じゃれお]  その映像には、実はカットされた部分があるんです。ずっとよだれを垂らしていたメンバーさんがいて、ある日、「今日はこの人を先生にしよう」と言って、みんなでよだれを垂らしてみたことがありました。よだれって、社会的に「ダメなこと」だと反射的に思ってしまうから、なかなか垂れてくれない。そうやって垂らしてみて、ようやく、かすかにですが、その人に触れられるのかなと思ったんです。  それから、わたしの親は晩年、病気になって障害を抱えることとなり、亡くなりました。僕を含め、いまは「健常」というフレームに入れられていたとしても、年を重ねるうちに、そのフレームは変わっていきます。そのときのために、自分がいまの固定された自分「じゃない」ところまで、歩みを進めてみる。他者を想像したり、あるいは他者の身体になってみたりする。決してなれないけれど、そう試みることで、その人が感じているであろう世界を、自分の身体を通して受け取ることができるというか。  わたしは、かかわっている相手ごとに、そうした試行錯誤を続けているのだと思います。さらに、これを言うとよく人に笑われるんですが……他者というのは人だけではなくて、いろんなオブジェクトの感覚も感じ取ろうと試みています。たとえば、自転車のサドルって、いつも乗られていて重たくないかな?とか。フライパンは、熱いと言っているんじゃないかな?とか。日常のなかでフィクションを立ち上げていく、ということだと思うんですが。それで松本さんに聞いてみたいのは、松本さんに聴こえる音は、ご自身が何を望んだからそう聴こえるようになったのでしょうか? [松本]  昔の楽器や音楽を調べれば調べるほど、音楽は、ただ単に人に聞かせるものではなかった。自分のため、自然のため、あるいは神のようなもののためと気づき、古楽器をはじめたのかもしれません。ロバの学校でつくった空想楽器で、石ころと話をしたり、風の音と一緒に演奏をしたりします。このようなことを繰り返していくと、聞こえなかった音が聴こえてくるような、そのような気配のようなものを感じることができてくるんです。このような体験は、じゃれおさんの感性・感覚を磨くチャレンジと共通していると思います。 [じゃれお]  僕のダンスは、いわゆる「自分を見てください」という表現ではなく、他者とかかわることでやっと自分の身体を感じられ、そこから立ち上がる世界とつながる、その方法論なんです。松本さんが石ころや風の音とセッションして音を発見していくプロセスも、ある種、楽器という「自分から離れたもの」を通して発見に至っていますよね。 [松本]  そうですね。一つ違うとすれば、じゃれおさんの場合は、そのプロセスが直接かたちになる。わたしの場合は、まず感じたり得たりするところがあって、そこから作品をつくっていく。パフォーマンスそのものというより、わたしにとっては前段階にあって、そこから作品へのイメージを高めています。 [小見出し] 生まれては消えていく居場所をつくり続ける [齋藤]  じゃれおさんのダンスも、松本さんの演奏も、傍から見ているといつもドキドキします。ある程度は段取りや決まりごとがあるとしても、見ている側からすると「次に何が起きるんだろう?」と。松本さんの曲は何度も見ているから知っているはずなのに、予定調和ではない、わくわく感がある。それって何なのでしょうか。 [松本]  コミュニケーションや遊びであったり、はぐらかしであったり。実際、聴いている人の感覚を少し揺さぶるつもりでやっています。中世に時代を遡ると、その頃は、こども向けの音楽や演劇などあまりなかったようです。こどもたちは大人が演奏や演技するのを覗き込み、そこで大人もこどもも同じ体験を共有したわけです。産業革命以降、音楽や芸能がプロフェッショナル化、職能化されすぎて、自由な即興音楽や、産業革命以前の大道芸的な音楽の風習には戻りにくくなりました。だからこそ、それらをもう一度取り戻して、音楽の場やお祭りなどを考えていくと、もっとおもしろくなるんじゃないかなと思っています。 [じゃれお] ここ数年の、高齢者や障害のある人との協働を振り返ると、僕は結構相手が嫌がること、介護者が「やらないこと」をあえてやったりします。それは、さきほどの松本さんの「こどもだから」と決めつけない、ということに近い。ケアでは、マニュアルをもとに相手と自分の間でパターンを決めておくと、安全が担保されますよね。でも、その範囲にとどまると「ケアする/される」という上下勾配のなかで、安全ではあるけれど閉じたものになる可能性もある。とはいえ、そこからはみ出すと嫌がられるかもしれない。そういうことを、いかに愛情をもって真剣にやれるかだと思うんです。  たとえば、香港のある施設で、ある女性の自閉症の方とダンスワークショップをしていたのですが、途中からその人は僕が来るだけで嫌がって、叩くわ怒るわ……という状況になりました。嫌がられてもそのときは2時間ほど、その人にしつこくかかわっていたら、職員からも呆れられ、一緒にいたミュージシャンからも「じゃれおさん、いい加減やめたら?」と言われ……。それでも引かずに、その人が僕を部屋から閉め出そうとすれば、ほかの窓から部屋へ入っていく、みたいなことまでしていました。  けれどその日、いざ帰ろうとすると、彼女がハートマークいっぱいの紙を持ってきてくれたんです。僕にはある種のフェティッシュがあって、嫌われているという実感を「相手のなかに自分が強く存在している証左」として受け取っている。僕は、そちらの側面を大事にしていきたいなと思うんです。 [齋藤]  みどり福祉ホームの記録映像で、じゃれおさんが「現場の職員の方々が、少し冒険のできる時間をつくりたい」と言っていたことにつながるような気がします。  職員の方は日々、メンバーさんとのかかわりのなかで安全に考慮して過ごしている。しかしその分、冒険や、人と人とが真剣にかかわる要素が薄れてしまうこともある。リスクを冒して人とかかわれない立場の職員さんに対して、外の目線からじゃれおさんが非日常な時間をつくろうとした。そのことが端的に表されている言葉だと感じ、非常に感銘を受けました。 [じゃれお]  ありがとうございます。きっと松本さんも、即興的な演奏をするときに、ある程度は「感動してもらえる」と知りつつも、そこに居続けられない、ということがあるんじゃないですか? [松本]  実際は、構成された作品を演奏することの方が多いです。しかし聴衆の期待を裏切ることはたまにあります。聴き手が「そのようになるだろう」と考えていることをいったんリセットしてもらうために、即興的に音あそびをすることがあります。非常識を差し出すというか。ナンセンスから生まれる新しい現象を期待しながら。ちょうど、このセッションがはじまる前に、詩人・谷川俊太郎さんとの映像作品(「谷川俊太郎+ 谷川賢作+ロバの音楽座《ことばとあそぶ おととあそぶ》」)(101頁に掲載)が上映されましたが、俊太郎さんも、ある程度決まったスタイルの詩を詠みながらも、それをどんどん壊して冒険する方でした。遊びと言っていいかもしれない。言葉を遊ばせながら、言葉の本質をつかんでいく、そんな茶目っ気のある方でした。  それで、ちょっとじゃれおさんと何か一緒にセッションしたいのですが……わたしがドローンの楽器で即興演奏をするので、ぜひじゃれ合いましょう。ちなみにこれは「ハーディガーディ」という楽器です。 (松本さんと齋藤さんによる即興演奏のなか、じゃれおさんが会場を歩きまわり、語らい ながら、パフォーマンスを行う) [写真:演奏とパフォーマンスの様子] [齋藤]  じゃれおさんのパフォーマンスから、このセッションのテーマが「居場所の見つけ方」だったと思い出しました。最初の緊張感のある状態と〝いま〞では、ここにいる全員にとって、空間の感じ方が違うものになっていると思います。そこにも何かヒントがあるのかなと。言い換えれば、この場が居場所になってきている。 [じゃれお]  僕も、ここにいるみなさんとほんの少しでもかかわったことで、いまこの場が自分の居場所になったように感じます。僕が普段かかわっている障害のある方や高齢者の方との関係性は、より瞬間的に消えてしまう。消えてしまうけれど、そんな儚い居場所をつくり続けるということをしています。  この場においては、松本さんの音がなかったら、僕とみなさんとをつなぐ場所にならなかったかもしれません。もしかすると、僕がみなさんとの間に立ちながら、松本さんや齋藤さんに影響を与えていたのかもしれない。  パレスチナの土地では「自分の場」をめぐって激しい争いが起こっている。そういう状況のなかで、僕は、お互いが〝つくり合う場〞という可能性に賭けたい。永続的な場や関係性は、おそらくありません。でも、パフォーマンスやワークショップを通して、瞬間的にでもお互いの居場所を生んで、また消えてを繰り返すこと。僕は、これを一つの希望だと思いながら活動を続けています。 [松本]  音楽は争いや憎しみを沈めます。またその逆にもなり得る。やはり求めるところは、平和なんでしょうね。今日はそんなことを感じることができて、とてもうれしかったです。音楽と踊りはどちらが先に生まれたのでしょうね? [じゃれお] ほぼ同じ、でしょうね。 [松本]  そうですね。だからこそ、その営みはずっと未来にもつながりますし、それを絶やさないことだと思います。 [セッション4のページ終了] [126ページ、セッション5のページ開始] [タイトル] 自らの「居場所」を見出すこと [リード文開始] 伝える、表すという行為の根本には、「こうしたい」と希求する意思と、ものごとに呼応しようとする身体がある。先天性盲聾者の息子をもつ田畑真由美さんと、聾者でコミュニケーターとして活動する和田令子さん、身体性に着目した美術教育を専門とする郡司明子さんは、それぞれ、わが子との触れ合い、自身の人生の歩み、こどもとの学びのなかで、そのありようを模索してきた。自身の感覚を通して世界を認識していくこと。その過程のなかに自らの居場所を見出すことについて、個々の経験をたどりながら言葉を交わす̶。(セッション5 世界と対話するための身体) [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 田畑真由美(読み:たばた まゆみ) 当事者支援、手話通訳士、社会福祉士 大学卒業後、証券会社勤務。こどもが難病に起因する盲ろう障害を負って生まれてきたのを機に退職。命をつなぐことに必死だった時期を経て、盲ろうの子の言語獲 得に試行錯誤、手話を学びはじめる。難病や先天性盲ろう児の当事者団体の運営にかかわる。多様な人々が集まる居場所、醸成される文化、その豊かさを子育てを通して知る。現在は盲ろう児相談支援員、手話通訳者、盲ろう通訳介助員、大学非常勤講師などを担う。 [写真:たばたまゆみの顔写真] 和田令子(読み:わだ れいこ) コミュニケーター、調布市聴覚障害者協会 理事 手話による絵本の読み聞かせや手話講師として30年すごし、自らの家を手話で語らい世界中から集う場所として、自分たちの言語や身体を起点にかたちづくる。聾者としての誇りを大切に、手話を日常に、の考えのもとフリースクールやコミュニティ活動を行う。現在は、どこでも・いつでも手話通訳を頼める社会の実現をめざす「プラスヴォイス」にて、情報バリアフリーの推進に取り組んでいる。2024年より東京家政大学非常勤講師。 郡司明子(読み:ぐんじ あきこ) 群馬大学 共同教育学部 教授 専門である美術教育において、身体性を重視した実践・理論研究を展開。小学校教員として日々の暮らしに基づき衣食住をリソースとしたアートの教育実践を行ってきた。近年は、インクルーシブアート教育の観点から学校教育のあり方や社会的な課題に関心を向けている。親子を対象にしたアートワークショップや保育者・教員向け学習会も開催。群馬県特別支援学校文化連盟顧問、教育美術振興会評議員なども務める。 [写真:ぐんじあきこの顔写真] [登壇者プロフィール終了] [本文開始] [小見出し] 身体がひらく、世界の豊かさ [郡司]  わたしは美術教育の表現の源となる「からだ」に着目して、小学校の教員として身体性を重視する教育の可能性を探ってきました。現在は群馬大学共同教育学部で、やわらかな学校教育のあり方に美術がどう貢献できるかを模索中です。  これまでに出会った言葉のなかで、自分の美術教育の大きな礎になっているものがあります。それは、鷲田清一さんの「対象にナイフの切れ味を押しつけるのではなく、対象がナイフの研ぎ方を示唆してくるその声を聴くべきなのだ」(『「聴く」ことの力 臨床哲学試論』、TBSブリタニカ、1999年)というものです。自分が「こうしたい」と表す以前に、対象の方が呼びかけてくれる。ものに向かうときにそのものが言っていることを聴く。そんな身体を楽しむのも、図工美術にできることだと思っています。  電動ノコギリで木を切る男の子の様子を見てみましょう。木を切る感触を通じて、こどもたちは「ものが嫌がっている」と言うことがあるんです。すると「もうちょっと力を抜いてみよう」と、ものとの関係から自分の身体の調整をする。このような呼びかけ、応答、修正の関係性が、図工の造形活動のなかにはあります。また、ものだけでなく出来事や人、場所との関係の中核に自分自身の「からだ」があり、こどもは世界を探索していきます。想像と創造は、そのなかで「からだ」を通じて生まれていく。こどもたちとは「身体性を活性化する視点」として、描く、つくるといった行為以前の自分の「からだ」を「ひらく」こと、「感じる」こと、対象に「問う―聴く」こと、美術作品に「なりきる」こと、「見る―表す」こと、自分の体で「味わう」ことも授業のなかで大切にしてきました。  それらがもとになって、現在大学の授業では、教員志望の学生たちに図画工作科指導法の学びとして「からだワークショップ」を行っています。ここには、ダンサーの方に来ていただいて、他者の身体と触れ合い、交わり、イメージを働かせ、ほぐし、お互いに支え合い、委ね、受け止め、みんなで一つの空間をつくり出すことで、ものごとの成り立ちを自分の身体で実感する。そんな試みも行っています。 [写真:「からだワークショップ」の実施風景]  また、「コミュニティ学習ワークショップ」という美術系の学生を対象にした授業では、これまでさまざまなアーティストの方とともに、特別支援学校の多様な身体性をもつ人たちと活動してきました。学生に多様なこどものあり方や、アーティストとともにつくり出す空間を感じて、教育現場に出てほしいという願いを込めています。セッション4にも登壇されたダンサーのじゃれお理さんや、全盲の文化人類学者である広瀬浩二郎さん、肢体不自由でダンサー・女優の森田かずよさん、そしてハンドルズという、ハンディキャップという言葉が由来のダンスチームにも講師になっていただき、一緒にダンスを楽しむこともしました。  そういった取り組みを行うなか、2023年に開催されたクリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョーの「だれもが文化でつながるサマーセッション」での作品展示で、TOUCH PARKとの出会いがありました。これは触覚で楽しむ遊具をデザインするプロジェクトで、盲聾者のアイデアが具現化されたものです。わたしも目を閉じて手すりをたどりましたが、空間のおもしろさが印象的でした。こちらをつくったのが、田畑さんの息子さんである田畑はやとさんや、和田さんの娘さんである和田夏実さんがメ ンバーのコミュニケーションデザインコレクティブ・ MAGNET。ものに触れたり、人とかかわったりすることからこんな魅力的なものが生まれるんだと、非常に触発されました。 [写真:「だれもが文化でつながるサマーセッション2023」におけるTOUCH PARKの展示photo: Masayoshi Waku]  わたし自身も大学の学生と一緒に、地域と響き合う「場」としての身体を模索するため、2023年の中之条ビエンナーレに中之条芸術大学@グンダイビジュツとして参加しました。「CONTON_meeting」という、一般社団法人メノキを立ち上げた全盲で彫刻家の三輪 途道さんたちとの共同企画展示です。香り、音、触覚など多感覚で世界を楽しむというものですが、そこでわたしたちは「感覚の時間くつぬぐ?」という足裏の感覚で遊んでみる活動をしました。こういった実践も行っています。 [写真:「感覚の時間 くつぬぐ?」の活動] [和田]  では、わたしも自己紹介を。わたしは二人姉弟で、弟も聾者、両親は聞こえる人です。なので、聞こえる人が二人、聞こえない人が二人という家庭で育ちました。わたしには娘が一人おり、いまイタリアのミラノ工科大学で研究を行っています。姪も娘と同じコーダ(聞こえない親をもつ聞こえるこども)で、インドネシアで仕事をしています。二人とも両親の手話を見る環境で育ち、物怖じせずに海外で働いているんです。  世界は広いなと感じるきっかけとなった経験があります。1990年、当時はバブル期で経済がとても豊かでした。そのとき読んでいた雑誌で、国際文化協会主催のフランス国際親善ツーリングの募集があると知り、応募して何度かのテストで25人のメンバーに選ばれ、憧れのフランスに行ったんです。凱旋門からスタートして、フランスの北側半分を1周するコースで、最後はル・マンを回るという1800kmほどのツーリングでした。 [写真4枚:フランス国際親善ツーリングに参加した当時の様子] 左上の写真に写っている3人は全員聾者。25人のメンバーのなかに聾者は3人です。右下の写真は、着物に着替えて、ナンシー、レンヌなどの各市庁舎を訪問したときのもの。フランスのガストン・ライエ・レーシングチームと合同でツーリングしたのですが、日本とフランスの文化の違いもあり、いろいろと対応し合って感動する旅でした。これが初めての異文化との触れ合いです。  次の世界との触れ合いは、1991年7月に開催された「世界聾者会議」。日本で初めて世界中の聾者、通訳者が一堂に会する機会で、参加してものすごく衝撃を受けました。 会場に集った人は、日本語、英語に沿った手話ではなく、視覚的にわかりやすいCL(Classifier/ものの形状や位置、大きさ、動作などを手のかたちや動きで置き換えて表現する)、NMM(Non-Manual Markers/表情や身体の動きで感情や程度を表現する)という文法を取り入れた手話で話していたんです。アメリカの通訳者の質の高さにも驚きました。  そして、先日ダイアン・キートンというアメリカの俳優がお亡くなりになりました(2025年10月11日逝去)。わたしはとてもファンだったんです。彼女が出演した映画『幸せのポートレート』(トーマス・ベズーチャ監督、2005年)にカルチャーショックを受けて。アメリカでは聞こえないこどもが生まれたら、家族みんなで手話を覚えるのが当たり前なんですよね。これはそういうことが描かれている作品です。残念ながら日本では、学校から社会に出たときに迷惑をかけないよう、口の動きを読んだり、声で話せるようにしたりする教育を行っています。家のなかでもそのようにされるので、こども時代に楽しい思い出がないという人も多いんです。みんなが手話で話せるようにしたいという想いは、わたし自身の居場所となる家づくりにもつながっていきました。 [郡司]  今回のセッションを行うにあたり、わたしたちは打ち合わせを兼ねて、長野県にある和田さんのお宅へお邪魔しました。手話での視線の動きも含め、視覚を中心にしたやりとりがスムーズにかなうお宅で、常に空気が動いているような爽やかな空間です。あとで詳しくご紹介いただきましょう。 [田畑]  わたしは手話通訳士・社会福祉士の資格を得て活動していますが、すべてに共通しているのは、人と言葉にかかわる仕事だということです。また、個人的な子育てのなかで培われた専門性をいかした仕事でもあります。ここで、わたしのこどものことを紹介したいと思います。息子、田畑はやとは難病に起因する先天性盲ろう障害があり、第一言語は手話です。コミュニケーション方法は、触手話、指点字、デバイスを使っての筆談だったり、いまは国際手話も勉強していたり。何が言いたいかというと、わたし以上にコミュニケーションモードの種類をもっているんです。また、触覚デザイナーとしてさまざまな活動をしていて、令子さんのお嬢さんの夏実さんと一緒に、さきほど郡司さんのお話にもありましたMAGNETというチームを組んで、ユニークで豊かな取り組みをしています。  みなさん、盲聾者と会ったこと、話したことはありますか ?盲聾者は、障害の経緯や状態、程度によって、コミュニケーション手段もさまざまです。多くは第一言語を獲得したあとに盲ろうになったという人で、第一言語を獲得する前に障害を負った、いわゆる先天性盲ろう児者は少ないです。  盲聾者には、非常に豊かな文化があります。みなさんもヘレン・ケラーをご存じかと思いますが、生まれつき盲ろうのこどもが言語を獲得するのは大変なんです。それは、この世界に言葉があることを伝えるのが、非常に難しいからです。生まれつき盲ろうの多くのこどもたちは、実体験を積み重ねて概念形成します。そして、その概念に「名前」をつけて言葉を獲得していきます。 先天性盲ろう児とその家族を対象とした相談支援の仕事で、多くのこどもとかかわるなか、非常に重要なポイントがわかりました。それはわたしたちの言語をこどもに教え込もうとするのではなく、逆にこどもからわたしたちが学ぶ姿勢が絶対に必要だということです。人は心が動く経験があれば、自分で言葉をつくるんです。こどもたちがつくった言葉をわたしが使うことによって、「あなたが言おうとしていることをわたしはわかっているよ」と、フィードバックしてあげるんです。その双方向のやりとりを繰り返すなかで、こどもは言語やコミュニケーションを構築していきます。まずは実体験から豊かな概念形成をするということが何より大事なんです。  わたしのこどもも幼稚園の頃は、言語をまだ獲得していませんでした。 横浜市港南区に宝島幼稚園[注1:宝島幼稚園1976年に横浜市港南区で開園。〝遊び〞を中心としたオリジナルのカリキュラムで、一人ひとりの個性をいかし、その資質が十分に伸ばされることをめざす。「ファンタジーはこころの種」「バリア・フリーの空間」「自然と共に生きる空間」という三つの設計コンセプトをもち、園舎は階段状に並ぶ教室や吹き抜けのホール、二重螺旋のスロープなどの空間、また丘や森、畑のある園庭を有する。こどもの知性と感性を豊かに育む教育が特徴。注1終了] というすばらしい幼稚園があって、そこがわが子の内面を育ててくださいました。ハードの面でもソフトの面でも、心躍るような体験があふれている幼稚園です。園舎の教室はとてもユニーク。園庭にはイサム・ノグチによる作品もあり、こどもたちは遊具として日常的に遊んでいます。絵の具でその作品に色を塗ったりもして。いわゆる美術品としての触れ方ではなく〝気持ちのいいもの〞として、みんな自由に触れています。この幼稚園との出会いが、わたしたち親子にとって非常に大きかったです。 [写真2枚。1枚目:園舎の様子。2枚目:イサム・ノグチ《赤の遊具》]  かつてわたしは金融機関で働いていました。投資コンサルタントをしていたので、朝になると前日深夜のニューヨークの株式市場を必ず確認して、世界の経済動向を全部チェックして、東京マーケットが開くのを待つ、そんな生活をしていました。その頃、わたしは世界を相手に仕事をしていると思っていたんです。生まれたこどもに障害があったので仕事を辞めましたが、自宅の小さな部屋でわが子と二人きりで対峙するのは、狭いところに閉じ込められた感じがあって、すごく苦しかった。なおかつ、目と耳両方の障害のためにコミュニケーションができなかったので、深海に落とされたような気持ちでした。でも、とにかくいろんな経験をすることによってこの世界を知っていくことが、わが子にとっては何より大事なんだとわかっていきました。  些細なことでも実体験が重要。毎日必ず外出する。そうすると、季節によって空気感が全然違うわけです。石に触らせ、土に触らせ、葉っぱに触らせ、お花に触らせる。スーパーに行ったときにも、そこに並んでいる品物のことをちゃんと伝えないと、自然に湧き出て並ぶと勘違いします。だから、これはどこにどうあったのか、一つずつ全部教えなきゃと思い、畑に連れて行ったり、地引網を経験させたり、一緒に造幣局に行ったりして、とにかく身体で理解する経験を積み重ねていきました。  そうすると、わたしにとっても大きな気づきがありました。自分の身体で触れて、感じて、ひらいていったものこそが世界だと気がついたんです。子育ての時間は、わたし自身が世界を知り直す時間でした。視聴覚に頼らないコミュニケーションだったり、言葉による表現では限界があるような世界の豊かさだったり。わが子に寄り添うなかで、人として大事なことを知ることができたなと思っています。  わたしは、盲ろうのこどもの相談支援の仕事をしていますが、「盲ろうのこどもには価値がない」とか、「普通でないことは不幸に違いない」とか、そういった固定観念が家族をとても苦しめているんです。かつて、わたしのこどもと同じ病気の子に医療過誤があって、病院に対して裁判を起こそうとした方がいます。でもそのとき、弁護士の先生からは「やめた方がいい」と言われたそうです。なぜかといえば、逸失利益がゼロ円だからということでした。  もしかしたら、わたしのこどもも社会経済的には価値はゼロかもしれません。けれども、わたしは自分のこどもがひらいていく世界はすばらしく、大きな価値があると思っています。わたしのこどもに限らず、ユニークな身体性の人たちがひらいていく世界というのは、新たな気づきにあふれています。この豊かさを多くの人と共有したいと強く思っているんです。障害者や外国人といった、自分の世界とは違うところにいる人とかかわるときに、ストレスを感じることもあるとは思いますが、同じ場を共有して対話をすることで、宝物のような発見があるはずです。 [小見出し] 自らを解放し、世界と向き合う術 [郡司]  わたしも美術教育での身体性を考えてきましたが、お二人の話から身体についての深い気づきや、世界とのかかわりが見えてくるような、そんな想いを抱きました。この話をもう少し深めていくために、わたしから三つの話題提供をさせていただきます。  まず一つ目は、「自由学園と映画『絵を描く子どもたち』」です。羽仁もと子・羽仁吉一ご夫妻は、こどもたちのあり方、学びのありようを「自由」という言葉で表し、1921年に自由学園を創立されました。そしてその孫の羽仁進さんという映画監督が、『絵を描く子どもたち』というドキュメンタリー映画を1956年に制作された。これは美術教育を学ぶ学生たちにとってのバイブルで、いまも見続けられている作品です。それまでの臨画といった、お手本を写す教育から解放されて、自分でテーマを決めて描くことができるようになった創造主義の時代。戦後日本の復興のなかで、美術教育が非常に注目されていた頃に撮られたもので、こどもたちが絵を描くことで、社会的な抑圧、心理的な抑圧から解放されていく1年間をつづっています。  自由学園の最初の美術教育の指導者には、洋画家の山本かなえが選ばれました。この方が創立から20年以上にわたり展開した「自由画教育運動」は、対象を自分の目で見て、自分の手で表現することを推奨したものです。田畑さんがお話ししてくださった、自分の感覚、行為で世界を広げていくという考え方の大元が、ここ自由学園で生まれたと言っても過言ではありません。ここは美術教育の聖地なんです。生活をつくり上げていくなかで社会を変えていこうというメッセージが、教育に埋め込まれているんですね。 和田 田畑さんの息子さん、はやとさんとお会いしたことがありますが、とても明るくて個性的。手話で育てられたということも関係しているのかなと思います。田畑さんのお話でヘレン・ケラーが出ましたが、彼女を題材にした映画は、聾者からはあまり評判のいいものではありません。「水」という概念を、水をかぶって体で覚えさせるのは、虐待のような描写ですよね。昔はそういう手法だったんです。わたしの両親は手話ができなかったので、聴者の首に触ることで、声の出し方を教えようとしました。でも、わたしはどういう意味なのかがわからず、よく怒られて。とにかく体で言葉を覚えるという方法はわたしの時代にもありましたが、いい記憶として残ってはいないんです。でも田畑さんは、お子さんのために手話を覚えて、自由な幼稚園に通わせた。サポートがあったからこそ、いまの息子さんがあるのだと思います。  ひとつお話ししていいでしょうか。10年くらい前にカンボジアに行ったんです。そのときに、ろうのこどものための学校が二つあって、一方は聴者の牧師さんが建て、もう一方はアメリカから来た聾者が建てました。わたしはいま64歳ですが、カンボジアにはこの世代の聾者がいないんです。ポル・ポト政権時代に、わたしと同世代の聾者はみんな処刑されてしまい、ろう教育も崩壊してしまいました。それにより、アメリカから来た聾者が、手話を教えるワークショップを行う学校ができたんです。自由学園の話を聞いて、カンボジアのことを思い出しました。 [田畑]  確かに和田さんのお話を伺って、「そうよね……」と思いました。わたしのこどもは中学生のときに初めてヘレン・ケラーの本を読み、「三重苦」という言葉に出会いました。びっくりした顔で、わたしに向かって「僕は三重苦なの?」と聞いてきたんです。それで、「自分ではどう思う?」と聞くと、「三つも苦しみが重なっているなんて思ったことはない」と。「そうなんだ。それはいいね。あなたは幸せだね。でも、あなたの周りの人はほとんどみんな、あなたを三重苦だと、気の毒に思っているんだよ」と言いました。すると、すごくびっくりしていたんです。わたしのこどもは自由学園にあるような、その子ならではのよさを解放していくような環境に恵まれてきました。それが「僕は三重苦だとは思わない」という言葉につながっているなと思います。 [郡司]  ありがとうございます。これからお伝えする二つ目の話題も、感覚を広げていくことにつながると思います。わたしが美術教育の先行研究として学んでいるのが、北イタリアのレッジョ・エミリア市における「100の言葉の考え方」というものです[注2:レッジョ・アプローチ。北イタリアの都市レッジョ・エミリア市で行われている幼児教育。「こどもを有能で創造的な存在」と捉え、環境や対話を重視した探究的でユニークな教育法は、「最も革新的な幼児教育(『ニューズウィーク』誌、1991年)」で紹介され、世界中の注目を集めた。レッジョ・アプローチは、その礎を築いた教育者ローリス・マラグッツィの「100の言葉」の考え方を基にしている。こどもは「100の言葉」をもつとし、無数の方法で世界を理解し表現する力をもっており、その可能性を奪わず育むというものである。注2終了] レッジョの教育はこどもへの眼差しが非常に際立っていて、こどもの権利、こどもの尊厳を誰もが大事にしている文化があります。レッジョにおけるこども観は、「こどもは生まれながらにして市民であり、有能な学び手」というもの。確かにこどもたちの聞き、触り、見て吸収する力は、われわれ大人よりも長けています。  レッジョの幼児教育を牽引したローリス・マラグッツィは、喋ったり書いたりしている言語を超えて、こどもの声、表情、身体の動き、そして描くこと、奏でること、踊ること、つくること、それらすべてが言語なのだという考え方を示しています。言語があるということは、やりとりが可能ということですよね。言語を受け止め、それにフィードバックできる。こどもは100の言葉をもっている、だけど学校文化がその99を奪っていると、マラグッツィは警鐘を鳴らしました。  そう思うと、手話や触手話の微細な表現には本当に豊かな文法があると言えます。いまは世界各国を駆け回っているはやとさんも、小さい頃には触覚過敏があったと伺いました。そこから、どのようにご自身の世界を展開されてきたのか、お聞きしたいです。 [田畑]  小さい頃は手だけではなく、身体全体でものに触れることを怖がっていました。それは当然だと思います。見える人、聞こえる人であれば、母親が「楽しいよ、気持ちいいよ」と話す言葉や表情、聴覚と視覚の両方から情報が入って、触れることの怖さが自然に取り除かれると思うんです。だから本当に少しずつ少しずつ、薄い紙を重ねていくような経験を経て、息子はものにちゃんと触れるようになりました。「こうやって世界を知ることができるんだ!」という気づきを得てからは、積極的に触るようになり、ともに言葉をつくっていくことができました。  盲ろう児教育において、その子の微細な身体の動きを見ることは、基本中の基本です。心が動いてから身体が動くので、その子は何を感じ、何を伝えようとしているのか、かすかな動きを見逃さないことが必須です。 [和田]  ちょっと話が逸れてしまうかもしれませんが、みなさんチャップリンはご存じですよね。チャップリンは映画を制作するときに、必ず聾者のスタッフに協力依頼をしていたそうです。顔の表情はこれで本当に伝わっているのか、眉の動きはこれでいいのか、口の使い方は合ってるのか、そういった確認を聾者にしてもらっていた。当時は、聴者が聾者の力を借りることがあまりなかった時代ですよね。でも、実は昔からそういうことは行われていた。見えないけれど、もっている才能がある。聾者だからできること、聴者だからできることをお互いにうまく持ち寄って、いいものをつくっていく社会に全体的に変わっていったらいいなと思います。 [小見出し] 居心地のよい、生きるための場所 [郡司]  三つ目の話題提供は「居場所としての洞窟―洞窟壁画―」です。今回のオータムセッションは「居場所とわたし」がテーマですので、こちらを取り上げました。建築の根源は洞窟だという考え方があります。やはり、雨風や嵐から自分の身を守るために洞窟のなかで暮らし、対話をしていたんだと思うんですね。  フランスの南部、ショーヴェというまちにある約3万2000年前の洞窟には壁画が描かれ、それはアニメーションの原点とも言われています。言葉以前に、人々は描くことを通じてやりとりをしていた。洞窟は生命維持の場所であり、呪術的、神聖な場所であり、祈りを描く場所でもありました。ショーヴェの洞窟はそうした、人々の居場所であった痕跡をいまに伝えるものだなと思います。さて、居場所の話題が出たところで、和田さんが自らの身体感覚をいかしてつくり上げてきた居心地のよいご自宅を、みなさんと一緒に拝見したいと思います。 [和田]  まず、わが家の入り口です[写真:入り口の外観]。二つ目の写真[写真:ガラス張りのひさし]は2階から見下ろした様子。一般的なひさしの材質と異なり、この家はガラス張りのひさしなので、誰が来たか2階から見てわかるようになっています。そして玄関[写真:玄関からリビングをのぞいた様子]。家のなかに入ると、「部屋に誰かがいるな」とわかります。透明なガラスだと、開けたときに着替えていたりするとよくありませんから、半透明のガラスにしました。玄関のかまちにも工夫があって、少しカーブがかかっています。人と隣り合わせて何かを見て話すときなどに、直線だと相手の顔が見えないので、表情と手話が見えるように丸くしました。  そして、室内には9mの吹き抜けがあります。パソコン室が2階にあり、1階の奥がキッチン。わたしはキッチンに立っている時間が長いので、そこから家族がどこにいるのか見渡せるような設計にしています。お手洗いはドアの上部にガラス窓があり、使用中かどうかを電気がついているか消えているかで判断できるようになっています。引き戸なので、使っていないときは少し開けておくようにもしています。この家には開き戸が2か所だけで、あとは全部引き戸。聾者は開き戸だと、急にドアが開いて人とぶつかることもあるんですね。また、洗面所は、さきほど郡司先生からもお話がありましたが、洞窟をイメージしています。歯磨きや洗顔をしているときに丸見えなのはよくないなと、入り口の輪郭にカーブをかけました。  最後にリビングです。テーブルは二つあり、お互いに顔を見合わせて喋れるよう丸いかたちを選びました。階段にも座れるので、15人ぐらいでも話ができるようなつくりになっています。今年初めてフランスの聾者がこの家に遊びに来て、撮ってくれた動画をInstagramに載せたところ、25万人の方々が見てくれました。聾者だけではなく、聴者からもこの家は参考になるとコメントをいただいたんです。  土地を見つけたのが約30年前、家を建てたのは23年ほど前のこと。当時はろうの建築士がいなかったので、自分の想いを建築会社にどうやって伝えたらいいんだろうと、写真や記事を切り抜いてスケッチブック2冊に貼りつけ、仕様を決めていきました。大変でしたが、いま見ると懐かしい思い出です。 [田畑]  和田さんのお宅に入った瞬間、「うわ!」と声を上げそうになりました。血が通った、ぬくもりのあるお宅だなと思ったんです。ドアの取っ手が動物のかたちをしていたのもすてきでした。伺うと海外のアンティークとのことでしたが、「なぜあそこは鳥なんですか?なぜこちらは猿なんですか?」と尋ねると、家族の干支だとおっしゃったんです。愛がお家のなかにちりばめられているんですね。  聾者にとって心地のいい家は、盲聾者にとっても心地がいいだろうと感じました。なぜかというと、家のなかのもの一つひとつのかたちがユニークで、触感が非常に馴染むんです。家という基本的な居場所が気持ちよく感じられるということは、あらためて人が生きる上ですごく大事なんだと、和田さんのご家族に教えていただきました。 [小見出し] 一人ひとりに目を凝らし、世界を見渡す [田畑]  和田家のみなさんに、わたしはものすごく感謝しているんですよ。いわゆる福祉障害という枠組みではないフィールドで、わたしのこどもが触覚デザイナーとして活動できているのは、夏実さんのおかげなんです。夏実さんは、これまで出会ってきた人とは違った見方で、はやとに価値を見つけてくれた人です。  わたしはこどもが小さい頃から、この子はすごくおもしろい、いいものをもっていると思っていましたが、親が言ってもただの親バカ。ましてや障害のある子なので、「お母さん偉いですね」と言われてしまうわけです。  でも、夏実さんははやとが放つ光を受け取って、それを世界につないでくれた。その夏実さんを育てたのが令子さんなんです。だから夏実さんのご両親を本当にすばらしいと思っていますし、夏実さんの感性が、どのように生まれてきたか興味があります。 [和田]  わたしが20代の頃、両親とイタリア、フランスを旅行したことがあったのですが、両親はそこで初めて、現地の方が聾者に対して大変わかりやすいジェスチャーで話したり、通じるまでしっかり向き合ってコミュニケーションを取ろうとしたりする様子を目の当たりにしたんですね。それから、わたしに対する態度が一変したんです。  海外の聾者たちが子育てするときは、基本的に手話で話しかけて育てます。わたしもこどもが小さいときから、手話で話しかけて育ててきました。そうして夏実が手話を好きになって、はやとくんとつながって。不思議なご縁を感じています。 [田畑]  郡司先生に一つお伺いしたいことがあります。表現を行う以前の身体を大事にされるというあり方に感銘を受けたのですが、そのような考えをもたれるきっかけは、なんだったのでしょうか? [郡司]  美術教育というと、完成度が高い作品をつくらねばならないと思われがちです。もちろん、集中力や粘り強さを身につけるために、そうした目標意識をもつことも必要ですが、それ以前に発露する表現もありますよね。何か人に伝えたい、分かち合いたいという、身体のなかで生まれる根源的な想い。それを小さい頃から耕し続けることが大事だと思っています。  こどもたちはいろいろなことを知っていますが、実際には経験をしていない。そのために頭でっかちになってしまうことが、いまの学校教育では往々にしてあると思うんです。なので、あらためて自分の身体に聞く、自分の身体で知るところからはじめたいと考えています。  さて、あっという間に時間が来てしまいました。最後にメッセージをいただいて、この場を閉じたいと思います。 [和田]  以前は旧優生保護法があり、もしそれがいまも続いていれば娘はいなかったかもしれませんし、家をつくるときにも銀行からお金を借りられなかったでしょう。障害者基本法ができ、社会の理解も少しずつ広まってきたおかげで、いまがあると感じます。 [田畑]  個人の体験の積み重ねが今日、この日につながっていると思うと、非常に感慨深いものがあります。やはりそれぞれの生き方、日々を感じる心が、大きな世界に羽ばたいていく。一人ひとりを大事にしながら、広く社会を見据えていく視点をもっていきたいと思いました。 [引用・参考文献] 注1:宝島幼稚園、 宝島幼稚園「教育方針・特色」「宝島幼稚園について」 2026年2月19日取得 https://tkj.boy.jp/wp/ 注2:レッジョ・アプローチ、 レッジョ・チルドレン、ワタリウム美術館編、2012年『子どもたちの100の言葉』田辺敬子他訳、日東書院本社。 ワタリウム美術館編、 2011年『驚くべき学びの世界―レッジョ・エミリアの幼児教育』佐藤学監修、東京カレンダー [セッション5のページ終了] [154ページ、テーブルトークのページ開始] [タイトル] 盲ろうの世界に触れる 世界を知る方法としての触覚 [リード文開始] 視覚と聴覚の両方に障害がある盲聾者は、どのように言葉や世界を認識し、いま生きる社会を捉えているのだろう。当事者として触覚を通じたコミュニケーション・情報伝達を研究する田畑はやとさんと森敦史さんが、自身の経験をもとに語り合った [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 田畑快仁(読み:たばた はやと) 京都芸術大学大学院芸術研究科芸術環境専攻 先天性盲聾者。第一言語は手話で、接近手話、触手話、指点字、筆談などを駆使。触覚サインシステムを研究しながら幅広いプロジェクトに取り組む。「Sky さくら」という名前でデザイナーとしても活動中。触覚デザイナー、アーティスト、 [写真:たばたはやとの顔写真] 森 敦史(読み:もり あつし) 筑波技術大学障害者高等教育研究支援センター研究員 先天性盲聾者として日本で初めて一般大学に進学。筑波技術大学大学院修了後、盲ろうに関する研究活動に従事。「クリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョー」の都立文化施設の環境整備に関する検証・分析にも参画。 [写真:もりあつしの顔写真] [登壇者プロフィール終了] 「こんにちは。筑波技術大学から来ました、森敦史です。研究員をしております。わたしは生まれつきの盲聾者です」 「わかりました。こんにちは。僕は田畑はやとといいます。触覚デザイナーをしています。そのときに使う名前は、〝Skyさくら〞と名乗っています。僕もあなたと同じように、生まれたときから盲ろうです」 「今日は二人で、いろいろなお話をしたいと思います。よろしくお願いします」 「よろしくお願いします。楽しくディスカッションしましょう〜!」   はじめに交わされたのは、こんなふうに和やかな自己紹介だった。これらは声でやりとりされたのではない。田畑さんと森さんは向かい合って、手話をする相手の手に自分の手を重ね、言葉を読み取っていく。 [写真:もりあつしとたばたはやとがお互いの方へ体を向けて触手話でコミュニケーションをとる様子] そして、その触手話のやりとりを、手話通訳者が手話と音声に訳すことで、参加者も対話の内容を認識する。言葉が会場の前方に立つ二人の手指の動きにあること、意思を伝え合う営みがそこにあることに、会場一帯が目を引きつけられた。拍手の代わりに響くのは、参加者による足踏み。その振動が、リアクションとして田畑さんと森さんの身体に伝わる。 [写真:もりあつしとたばたはやとがそれぞれ手話通訳者と触手話で話す様子。] 手話を用いる二人だが、言葉の体得には、こども時代からの〝ものを触る〞積み重ねが あった。田畑さんは、幼い頃を「耳の聞こえない、目の見えない狭い世界に閉ざされていた」と振り返る。しかし、こわごわとしながらも、積極的に多様な経験がしたいと、あら ゆる場に出向くことで、場の状況を把握しながらものごとを知っていったという。森さんも同様に、海水浴や山登り、スキーにキャンプ、庭や公園での遊び、畑の収穫などさまざまな経験をした。 「印象に残っているのは、祖母の家で栗拾いをしたこと。そのときに、イガがとても痛くてびっくりしたんです。〝これがイガなんだ〞と感じることで、言葉を覚えていきました」と森さんは語った。 二人は、一人で移動したり、あらゆる場所へ赴くこともある。田畑さんは、「電車に乗る体験について、お話しいただけますか?」と森さんへ投げかけた。ここで話されたのは、視聴覚によらずどのように到着駅にたどり着くのかということ。森さんは点字ディスプレイ(文字情報を点字で表示する機械。インターネットに接続し、森さんはスマートフォンのように活用している)により位置情報を確認することもできるが、体感的な方法として「めざす駅が何駅目なのか、何分かかるのかを事前に調べておくこと。あとは、たとえばつくば駅のような終着駅だと、線路が分岐する際に揺れを感じるポイントがあります」と話した。 一方の田畑さんは、「僕は新宿や渋谷に行っても混乱しません。不思議でしょう?」と会場へ語りかける。確かに、どうやって複雑な駅構内を把握しているのだろう。その方法は「頭のなかで地図を思い描く」ことにある。それをもとに動線を決め、風の向きや空気感などから自らの位置を認識していくのだ。 [写真:外から窓越しにテーブルトークの様子を除く構図。もりあつしが手話で話し、たばたはやとが手話通訳者と触手話で話している。]  二人の足取りは海外にもおよぶ。田畑さんは2024年にヨーロッパ各国を訪れ、美術鑑賞や現地の盲ろうのこどもとのワークショップなどを行った。そして、その際に印象的だったコミュニケーションの仕方について、このように語った。「あいさつをするときにハグをしたり、頬に軽くキスをしたり。盲聾者は、触れ合わないと相手のことがよくわかりません。お互いの想いを伝えるために、日本でも親しい人の間で、こうしたコミュニケーションができるといいなと思いました」 森さんも、アジアや欧米を訪れた体験を振り返る。「アジアは道路が細くでこぼこして、バイクの往来が激しく歩くのが大変な場所もありましたが、欧米は道が広く平坦。現地で入ったレストランの椅子やテーブルの置かれ方、食べた料理の素材や味などからも、ローカルイメージをつかむことができました」   田畑さんと森さんの対話から感じるのは、二人がいかに「触覚」を通して文化を、ひいては世界を捉えているかということだ。そこには、目が見える・耳が聞こえる人々が体感し得ない、ものごとを享受する豊かさがあるのかもしれない̶̶触手話と手話を行う手の動きを見つめながら、そんな想いが湧いた。  田畑さんは自身の体験を触覚を通して感じることのできるシステムを研究し、2026年春からは、触覚デザイナーの活動を社会人として展開する。森さんは触覚をいかし美術鑑賞を行う環境整備に取り組んでいる。二人の取り組みから、わたしたちの世界の捉え方も変わるかもしれない。 [写真:もりあつしとたばたはやとがそれぞれ手話通訳者と触手話で話す様子。] [テーブルトークのページ終了] [160ページ、クロージングセッションのページ開始] [タイトル] 未来のあたりまえを〝いま〞つくり考えるために [リード文開始] 芸術家という立場からさまざまな社会課題に向き合ってきたこやまだとおるさんと、幼い頃から障害のあるこどもたちと触れ合い、のちに教育者を志した石原保志さん。二人は、これからを歩んでいく世代と「生きるための術」を思考し、実践する学びの場の担い手でもある。共生社会とは何か。その実現に向けて文化芸術が発揮できる創造性とは何か。 「ウェルビーイング」のありようを追求し、「だれもが文化でつながる会議」を企画するもりつかささんは、両者へ問いを投げかけた。これらへの応答を導く対話は、わたしたち自身が未来を思い描くことと交差する̶。 (クロージングセッション わたしの居場所│未来のあたりまえを考える) [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 石原保志(読み:いしはら やすし) 筑波技術大学 学長 国内唯一の障害者のための大学である筑波技術大学で35年にわたり教鞭を執り、障害者支援に関する研究を行ってきた。障害学生らと交わるなかで、学生たちが充実した人生を歩んでいくために、自ら環境にはたらきかけるテクニックが必要であることを実感。さらに社会モデルとしての障害の軽減が、ライフキャリア(人生の歩み方)において、すべての人々に共通した課題であるという思いに至る。専門は心身障害学(博士)。 [写真:いしはらやすしの顔写真] 小山田徹(読み:こやまだ とおる) 芸術家、京都市立芸術大学 学長 1987年に京都市立芸術大学美術学部日本画専攻卒業。在学中にパフォーマンスグループ「ダムタイプ」を結成。創設メンバーとして作品を国内外に発信。「共有空間の獲得」をキーワードに、人々が集いかかわる場を生み出し、空間そのものを体験させる独自のアート手法や「共有空間」がもつ新たな可能性を探究。2005年に第2回アサヒビール芸術賞受賞。2010~2024年に京都市立芸術大学美術学部教員。2025年より現職。 [写真:こやまだとおるの顔写真] 森司(読み:もりつかさ) アーツカウンシル東京 事業調整課長 2009年よりNPOと協働する「東京アートポイント計画」をディレクションし、現在は、東京都・区市町村連携事業を所管する。東京2020公認文化オリンピアード事業「東京キャラバン」「TURN(ターン)」を担当。聾者と聴者が遭遇する舞台作品《黙るな 動け 呼吸しろ》の推進役を担う。「クリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョー」事業の一環として開催する本会議の企画、統括を務める。女子美術大学特別招聘教授、多摩美術大学非常勤講師。 [写真:もりつかさの顔写真] [登壇者プロフィール終了] [本文開始] [小見出し] 親密な親子関係を生み出すお弁当 [森]  対話をはじめる前に。まずは石原先生に、こやまださんの作品《お父ちゃん弁当》をご覧いただいた感想をお聞きしてもいいですか。 [石原]  まず「どういうご家庭なんだろう?」と思いました。きっとこどもやお母さんにとって、お父さんがとても大切なんだろうなと伝わってきました。しかも、初めてつくったお弁当と最後につくったお弁当のリクエストは「お父ちゃんの顔」。小山田先生のキャラクターが伝わるエピソードで、とても感銘を受けました。 [こやまだ]  お恥ずかしい。朝の家事はわたしの担当で、毎日お弁当をつくらなきゃいけないんですね。そのモチベーションを上げるために、はじまったのが《お父ちゃん弁当》でした。幼稚園に進学する3人兄弟の末っ子のために、真んなかのお姉ちゃんがスケッチを描いて、わたしが弁当で再現する。お弁当の蓋をひらいたときに、弟は「お父ちゃん、すごい!」と喜んでくれるんですね。それを日々の記録としてFacebookに投稿していたら、たまたま学芸員の方々が見ていて、展示になり、美術作品になっちゃった。わたしたち家族にとっては、日々をネガティブなものにしないための取り組みでした。「もしキャラ弁のお題が来たらどうしよう?」と心配したこともありましたが、そんなことはまったくなかったですね。娘は毎朝7時半に起きて、寝ぼけまなこのまま10分足らずでお題を描いてくれるんです。そのお題があまりにもユニークで、一生懸命応じてみたというはじまりでした。  たとえば、ある日のお題は「しまうまのおしり」。なぜ朝一番に、このお題を思いつくのかわかりませんが(笑)、お父ちゃんは頑張ってつくります。栄養バランスも大切なので、いろんな具材も入れています。ただ、この日はさすがに、弟も何がモチーフなのかわからなかったようで。帰ってきて「シマウマのお尻や」と教えたら、「お尻は嫌だ」と言いました(笑)。  こんなふうに、お弁当は家族のコミュニケーションツールとなり、こどもたちとの対話を生んでくれました。弟は、最初から最後まで毎回完食。内容がどうというよりは、楽しかったんでしょうね。次第に幼稚園の先生の間でも噂が広がり、「今日は何?」と覗きに来たこともうれしかったようです。  いまもお弁当は、わたしがつくっています。でも、娘も朝が弱いので、最近は孤独な戦い。ただ、お弁当を一緒につくる経験をともにしてきたからか、もう高校2年生になる思春期の娘とも難なく対話ができ、穏やかな関係でいられるのはよかったなと。 [写真:《お父ちゃん弁当》2017 年 9 月 19 日「しまうまのおしり」] [森]  最初のお弁当は、「何をつくろうか」と台所に立っていたら、娘さんに「つくるなら、顔やろ!」と言われたのがきっかけなんでしたっけ。 [こやまだ]  そう、娘が「たぶん幼稚園児は、顔があった方が喜ぶで」と言うので、「どんな顔?」と聞いたら、お父ちゃんの顔を描いてくれて。それが、はじまりです。登園最後のお弁当でも、「最後は、お父ちゃんの顔やろ!」と言って、描いてくれました。 [森]  当時、僕もこやまださんのFacebookを毎日楽しみに見ていました。親子の関係はもちろん、季節の移ろいや自然との関係など、小さな気づきも投稿されていたことをよく覚えています。 [小見出し] 「教える」ことのおもしろさ [森]  事前の打ち合わせのために、石原先生のもとを訪ねて大学へ伺った際、何気ない様子でふわっと自然に手話を使っていらっしゃったことが印象に残っています。 [石原]  「なぜ手話が自然と出てくるのか」については、幼少期の影響が大きいですね。わたしの父はろう学校の教員で、わたしは3歳までその学校の宿舎で過ごしました。国民みんなが貧しい時代でしたが、なかでも学校の先生はさらに厳しく貧乏でした。  その後、宿舎を出て近所に引っ越してからも、わたしは運動会をはじめ、ろう学校の行事にたびたび参加していて、家庭訪問について行くこともありました。公私混同が甚だしい父だったんですね(笑)。ただ、家庭訪問と言っても公式的なものではなく、ふらっとお宅を訪ねて親御さんとお話ししたり、こどもを交えて勉強したりするものです。そんな環境でしたから、初めての友達は、耳の聞こえないこどもたちでした。  手話と呼んでいいのかわからないのですが、そこでジェスチャーや手話の原型が身についていきました。最初に覚えたのは、からかい言葉のような動きでした。いまの標準手話では使わないと思いますし、どうやって訳していいかもわからないもの。僕が当時使えたのは、そういう簡単なものだけで、あとは身振り手振り。それでも、小学校低学年までは一緒に楽しく遊べました。  暮らしていた家も、学校だか家だかわからない環境でしたね。休日には聞こえないこどもと親御さんがやってきて、勉強したり相談ごとをしたり。中学年になると「うちは普通じゃないんだな」と気づきはじめ、「教員になるのだけはやめよう」と思っていました。が、結果として、教育の世界に入ってしまったという。 [森]  遊ぶなかで自然と身につけられたんですね。さて、少し話題は変わりますが、石原先生は、国内唯一の障害者のための大学である筑波技術大学の学長として、新学科の設立に取り組まれ、国との交渉をはじめ大変な苦労をなさったとお聞きしました。そのモチベーション・原動力は、大義や衝動よりもっと深い部分にあるのではないかと想像します。物心ついたときから、ろうの世界が身近にあったこと、その世界の感覚をもっていたことにもつながっているのかなと思いましたが、いかがでしょうか? [石原]  必ずしも、そうではありません。実は、わたしは高校から水泳をやっていて、その世界で食べていこうと決意して、何年かスイミングスクールの正規職員としてコーチをしたんです。でもそこで、わたしの興味は、水泳そのものではなく、「教えること」なんじゃないかと気づいて。そこから方向転換して、教員採用試験のための勉強をはじめ、小さなろう学校の幼稚部で教えることになりました。  当時の幼稚部は、正直言って修羅場でした。毎日、親御さんたちがこどもを学校に連れてきて、教室の後ろで見学している。わたしはこどもたちとやりとりしながら、かれらが考えていることを言語化しようとするのですが、新米教員で当然うまくできない。  そんなふうに、こどもとのコミュニケーションがうまくいかないとき、正確に言えば、先生であるわたしがこどもの気持ちをうまく言葉にできないとき、親御さんがつかつかと前に出てきて、こどもをひっぱたくこともありました。本当は先生であるわたしをひっぱたきたかったでしょう。でも、それはできないから、自分のこどもを叩いて「そのやり方じゃダメだ」と訴えるんです。  親御さんたちは、こどもが0歳のときからずっと様子を見てきている。上手な先生の指導の仕方も知っているし、経験値としては、わたしよりよほどベテランでした。先ほど森さんから「小さい頃からろうの世界を覗いてきたことが、いまの仕事とつながっているのではないか」と言っていただきましたが、当時のわたしは、そのことと「教える」という行為は別ものだと感じていました。  ただ、年月が経つにつれて、教えることがすごくおもしろくなってきたんです。言葉を教えることで、その言葉を使ってこどもが考える力をどんどん広げて、深めていく。目の前で成長が見える。それがおもしろくなってきたちょうどそのとき、恩師から「新しい大学ができるから、教えに来ないか」と声をかけられました。その誘い方がまた普通じゃなくて、毎日のように職場に電話がかかってくるんです。校内放送で「石原先生、お電話です」と呼ばれて、もう根負けしました(笑)。  普通の大学だったら、そこに自分の居場所があるとは思えなかった。でも、その大学は、聞こえない人や見えない人のための新しい大学だというんです。わたしがこどもに対してやってきたことを、今度は青年期の学生たちに対してもいかしながら、新しい試みができるのではないか。そう感じたことが、大きな決め手になりました。 [小見出し] 「アート」が権威とならない、よい加減 [森]  ありがとうございます。続いてこやまださん、お話しいただいてもよいでしょうか。 [こやまだ]  4月に、京都市立芸術大学の学長兼理事長に着任しました。それまでも、そしていまも、表現者として「共有空間の獲得」をテーマに広く活動しています。あらゆる関係性はどのように紡がれ、どんなシチュエーションで何が起こるのか。そのなかで、共有空間が果たす役割に関心があります。  現代の共有空間の多くは、誰かがあらかじめ用意したものです。たとえば、利用者としてそこにいる限り、「掃除しよう」とは思わない。場や時間に対する愛が芽生えていない以上、能動的な動きは生まれにくいんです。では、自分でも手を入れ たくなる空間との関係は、どうすれば生まれるのか。重要なのは、その場に「獲得感」をもてるかです。セッション2で紹介された「バザールカフェ」は、よい例かもしれません。立ち上げの際、毎日20〜30人のボランティアの方々と建物を手づくりしました。全員が素人です。プロなら数日で終わる作業を、あえて2か月かけてやる。失敗も多いですが、その痕跡が愛着に変わる。作業の途中から、参加者は自然とその場の「スタッフ」になっていきます。そうして「わたしの空間」という感覚が立ち上がっていきました。 [写真:建設中のバザールカフェ]  共有空間をつくる際、まったく新しい場所を開発するよりも、人類の過去の営みを読み直すことが効果的な場合があります。たとえば、屋台。なんとなく入りやすく、隣の人と自然に会話がはじまる。現代では屋外の屋台は認可が難しいですが、「アート」を言い訳にすると許可が出る(笑)。そこで、アートプロジェクトのもとで、せっせと屋台をつくり、人が集まる場所を生み出しました。  屋台は、大きくすると小屋になります。東日本大震災のボランティアに向かう学生の基地となる小屋をつくったときは、事務局とかなり揉めました。違法建築だったんですね。でも「ユニークな授業」として大学のウェブサイトに掲載されると、既成事実が力をもち、作品として扱われるようになる。そこから、大学に小屋が増えていきました。  さまざまな共有空間の獲得を試みましたが、もっとも効果があったのは焚き火でした。焚き火があるだけで人が集まり、自己紹介もなく話し、満足して帰っていく。考えてみると、焚き火は、人類が最古に獲得した共有空間の一つなんですよね。人は毎晩、ともに火を囲んできたはずです。それが、この70年ほどで断ち切られた。何かよくないことが起こりそうですよね。 [写真3枚。1枚目:「ならまちワンダリング」期間中に、奈良市ならまちセンター前の芝生広場に設置された小屋。2枚目:小屋が設置された京都市立芸術大学のキャンパス。3枚目:ロームシアター京都の広場で開催された、ちっちゃい焚き火(薪ストーブ)を囲んで語らう会。]  移転したばかりの京都市立芸術大学のキャンパスには、まだまだ触れがたい空気があります。早く汚したい一方で、管理者側の事情もある。現在も小屋をめぐってせめぎ合いの最中です。焚き火は難しいので、代わりに「犬場」をやっています。ただ、そこに犬がいるだけなんですが。 [森]  こやまださんの犬も参加しているんですか? [こやまだ]  はい。このワンちゃんは、盲導犬のリタイア犬で、これまで人のために生きてきたので、いまは「犬になる訓練」をしています。かねてからわたしのところにいる保護犬が、元盲導犬の先生役をしてくれています。  最初に大学へ連れてきたら、職員にめちゃくちゃ怒られました(笑)。あまりに怒られたので、「犬場」というプロジェクトにしました。人が集まる実験です。もう10回以上続いていて、大人気なんですよ。いろんな動物がいる大学って、悪くないですよね。 楽しみながら工夫して、ねじこんでいます。 [写真:《犬場》の様子] [森]  最初に石原先生のところへ伺ったとき、こやまださんのことを「焚き火している人です」と紹介しましたね(笑)。かなり粗い説明ですが、この「アート」という言葉の使い方のいい加減さには、権威性がない。まるでマジックワードのようです。 [石原]  すごいパワーですよね。わたしは学長に就いて7年目ですが、ここまで個性を出すことはできていません。火を使ったり、犬を連れてきたり。 [こやまだ]  正攻法が苦手なんです。書類を書いて、会議をして、説得するということが難しい。でも変化球を投げてみると、ものごとがおもしろく動くことがあります。 [石原]  本当に変化球です。正式な手順を踏むほど常識を打ち破ることは難しい。事務局は大変だと思いますが、それでも成立しているのは、こやまだ先生のお人柄でしょうね。 [こやまだ]  ただ、変化球といっても、まったく新しいものじゃないところがミソじゃないかと思っているんです。過去を参照しながら投げています。次は、大学のなかに銭湯があってもいいなと。裸の付き合いとか、やりたいですよね。 [森]  一般的に見れば、焚き火は焚き火だし、犬場も犬が大学を歩いて撫でられているだけ。「それをアートと言うのか?」という見方もある。でも、芸術大学の学長は、アートと呼んでいる。そのズレこそが大切で、きちんと捉える必要があると思います。 [小見出し] 分離的な場/溶け込んだ場 [森]  石原先生は正統派ですね(笑)。ここからは、筑波技術大学での活動や新学部についてお話しいただけますか? [石原]  「居場所」について、条件から考えてみました。くつろげる、楽しめる、自分のままでいられる、心が落ち着く対象がある、など。居場所とは、そうした要素の集合体だと思います。風景や風情そのものが、人の気持ちをやさしくしてくれることもある。  具体的な場として、「デフスペース」や「デフコミュニティ」があります。聴覚障害のある方々が過ごしやすい、視覚的に情報を得やすく、手話で自然にコミュニケーションができる空間や集団のことですね。この「コミュニティ」は、居場所を考える上でも大事なキーワードです。  共生社会というと、一般社会のなかに多様な人が溶け込むイメージが強いですが、それと同時に、特性をもつ人たちだけが集まるコミュニティも、重要な居場所だと考えています。本学の「共生社会創成学部」は、デフコミュニティを基盤に、学生が社会で力を発揮できる環境を育てたいという想いから生まれました。  40年近く教育の現場にいて感じるのは、大学にいる間は元気だった学生が、卒業後にさまざまな壁にぶつかるということです。特にコミュニケーションの壁は大きい。職場の雑談のなかには、仕事に必要な情報が自然と含まれていますが、聞こえない人にはそれが届かない。自分に向けて説明されていることすら、受け取りにくいこともあります。その壁を下げるために必要なのが、自分の特性を知り、周囲へ説明・主張する「セルフアドボカシー」です。「ろう」「難聴」といっても必要なニーズは、一人ひとり違います。筆談、UDトーク、手話通訳など、自分に合った方法を説明し、周囲を巻き込みながら環境をつくっていく。その力が、共生社会につながると考えています。  インクルーシブ教育の難しさは、困りごとを言い出せないことにあります。特別視されたくないから、見えるふり、聞こえるふりをする。高校まではなんとかなるけれど、大学では急につまずく。情報保障を受けて初めて、「これほどの情報が飛び交っていたのか」と気づく学生も少なくありません。だからこそ、自分に何が必要か知り、発信する力が重要になります。  新設した学部の学生たちからは、これまでとは違うマインドを感じます。あるとき、聴覚障害のある学生が、視覚障害のある学生に「目の見えない人って鼻がいいの?」と素直に尋ねたことがありました。普通なら躊躇する問いを、仲間だからこそ自然に投げかけられる。そのやりとりを見て、この学部をつくってよかったと感じました。  居場所について、もう一つ印象的な出来事がありました。アメリカにあるデフコミュニティの大学、ギャローデット大学を学生と訪れた際、現地の学生と日本の学生が、異なる手話にもかかわらず自然に通じ合っていたんです。一方で、わたし自身は疎外感を覚えました。視線や表情など、デフに共通する視覚的な情報で通じ合っていたのだと思います。その場では、わたしの方がマイノリティでした。  こうした特性をもつ人たちのコミュニティを、本学の教員は「分離的な場」と呼んでいます。「独立したコミュニティ」という意味ですね。わたしが考える居場所とは、一人のなかに複数の居場所がある状態。どれか一つに回収されるものではありません。 [こやまだ]  石原先生の言う「分離的な場」と「社会に溶け込んだ場」の両方が必要という考えは、わたしの焚き火とも重なります。わたしは「ちっさい焚き火」を大事にしています。6〜7人で囲む小さい焚き火を、あちこちにつくる。一つの場に疲れたら、上手に抜けてほかの焚き火に移れる。持ち込まれたものは、自然とシェアされる。小さい焚き火だからこそ、そうした関係性が生まれるんですよね。  大きな焚き火は高揚感がある一方で、集団幻想を生みやすい。使い方を間違えると、危うさもあります。組織や場のつくり方にしても、一つの場所がすべての機能を担うという発想自体が幻想です。実現できるはずがないのに、行政はしばしばそれをめざしてしまう。石原先生がお話しされたように、複数のコミュニティに属し、それぞれが連絡を取り合う関係性が重要なのだと思います。さらに、大きな集団では、多くの人が最後まで「お客さん」「消費者」のままになりがちです。それよりも、小さな場で、スペシャリストではなくても能動的にかかわれるほうがいい。 [石原]  行政は制度を整えますが、法令を守るだけで、DE&I(ダイバーシティ=多様性、エクイティ=公平性、インクルージョン=包摂性)が実現するわけではありません。共生社会は社会全体でつくるものですが、同時に、障害のある人自身が中心になってかたちづくるコミュニティも、等しく尊重されるべきだと考えています。  障害に関する意識啓発の場面で、よく耳にする会話があります。「ご近所の〇〇さんのお子さんは耳が不自由で、ご家族も大変でしょうね」というものです。一見すると理解や同情があるように聞こえますが、そうではない。近所にいるあなた自身も、すでにその社会の当事者なのだ、という視点が欠けているわけです。でも、この意識をもつことは、なかなか難しい。こどもの頃に、聞こえない人や見えない人、身体や発語に困難を抱える人と、日常的に接する機会があるかどうかで、大人になってからの感覚は大きく変わります。一般の学校に障害のあるこどもが通うことは、当事者にとって良い面と難しい面の両方がありますが、周囲の人にとっては、どのようなケアや配慮が必要なのかを、自然と学ぶ機会にもなる。そうした経験は、社会に出てからともに働き、コミュニティをつくる際に、確実にいきています。  そしてマジョリティと向き合うときには、セルフアドボカシーの力が不可欠です。わたし自身、ギャローデット大学で少数派の立場に置かれた経験が、大きな気づきになりました。共生社会創成学部の発足は、こうした発想が結びついた結果でもあります。 [小見出し] 未来のあたりまえをつくる人を育てる [森]  20数年前、東京藝術大学で先端芸術表現科や音楽環境創造科など、従来の枠におさまらない表現領域での教育がはじまり、その卒業生たちが、いま新たな活動の主な担い手になっています。石原先生がつくられた学部からも、10年、15年後に、静かに社会を変えていく人材が育っていくのだろうと、大きな期待を感じています。 [こやまだ]  言い方は難しいのですが、いま僕は「うれしい敗北感」を感じています。それは、先に行われたセッション5「世界と対話するための身体」をお聞きしながら体感したことでもあるのですが、自分の知らない世界に出会って打ちのめされる。でも、それがうれしい。これから何を学ばなければならないのか、何に向き合うべきなのかを気づかされるような感覚です。  一方で、芸術大学は、いったい何をしている教育機関なのか̶と常に問われてもいる。産業界や行政からは、すぐに効果が出る成果やエビデンス、数値目標を求められます。年々、成果主義の圧力が強まっているように感じています。 [石原]  本当によくわかります。思わず「この国はこれでいいのか!」と憤ってしまう。 [こやまだ]  ただ、わたしたちが肝に銘じているのは、アートとは「未来のあたりまえ」を〝いま〞つくる営みだということです。芸術大学は、それをはじめてしまった人たちの集まりです。すぐに評価されることが前提ではありません。アートは、誰もまだ課題だとすら気づかないところから生まれるものなので。一方で、デザインは比較的、時間軸が短い。近い将来の課題解決が求められ、経済とも強く結びつく。すると、世のなかは勘違いして、「アートが社会を変える」なんてフレーズを使って、早い結果を求めてくる。でも、わたしたちがいま享受している価値観、たとえば音楽や料理、文化といったものを誰がつくったのかは、ほとんどわからない。詠み人知らずです。価値観が定着するためには、途方もない時間がかかる。  大学の4年間で何者かになるわけではない。卒業後、60年、80年と生き抜くなかで、何かを獲得していくんですね。もしかしたら、評価は死んだあとかもしれない。わたしたちの役割は、溺れないための技術や泳ぎ続ける体力を育てることだと思っています。 [石原]  社会に出て活動を続けるには、身体的にも精神的にも体力が必要ですから 。 [こやまだ]  来たるべき試練とうまく付き合う方法、上手にネガティブからポジティブに変換する方法を発明するのが、表現やサイエンスの役割なんじゃないかと考えています。新しい評価軸を発明し、提示しなければ、わたしたちの首は締められていく。学生たちは急かされ、泳ぎ方もわからないまま、ポートフォリオを持って就職活動に向かう。 そんな社会に誰がしたんだ、と本当に思います。美大や芸大、そして石原先生の大学は、ある意味で社会に問いを投げ続ける「最後の砦」なのかもしれません。 [石原]  うわぁ、ここで初めてものすごく共感できました。こやまだ先生は、やはりお弁当をつくるだけの人じゃなかった(笑)。  成果主義があまりに強すぎるんですよね。経済に直結する分野ばかりが優先され、自由な発想や想像力を育てる土壌が失われつつある。それでも、学生にはアート的な思考で、自分のアクティビティを高めてほしい。アートとは何か、わたしにも明確にはわかりません。でも、いまこそ創造性を解放するような自由な空気が大切だし、つくっていかなければいけない。そういう空気が、筑波技術大学にもあると信じています。 [こやまだ]  学長就任時、アートについての二つの考えを示しました。一つは、アートは「未来のあたりまえをつくる」営みであること。もう一つは、アートが「わからなさと友達になるための技術」だということです。理解しきろうとしない。わからないまま、ともに生きる。そういう感覚が、芸術の世界には重要です。わたしたちのスローガンは、「わからなさと友達になる大学」です。 [森]  よく知るアーティストが、しばしば「モヤモヤ」という言葉を使います。自分でうまく言葉にできない感覚を、ひとまとめにそう呼んでいるのかもしれません。でも、そのモヤモヤを抱え切るには、相当な胆力が必要です。多くの人は、すぐに答えを求めてしまう。しかも、モヤモヤに正解があるわけではないんですよね。 [石原]  答えは一つではないし、世のなかには、そもそも答えがあるもの自体がきわめて少ない。付き合い続けるしかない、という点に強く共感します。 [森]  本日の議論から、居場所とは「自らつくり続けるもの」だというメッセージを受け取りました。最後に、これから社会に出ていく学生たちへの想いを聞かせてください。 [石原]  「幸福になってほしい」。それに尽きますね。幸福のかたちは人それぞれですが、何かを成し遂げたとき、誰かや何かの役に立っていると感じられるとき、人は幸福を感じる。その経験を大学を通して、育んでいきたいと思っています。 [こやまだ]  わたしたちの立場は、教育者と呼ばれます。でも、教育を「施す」側という意識はまったくない。むしろ「学び方を一緒に考えている」という方が近い感覚です。いまのNPOや行政からはよく「教育普及」という言葉が使われますが、それを言うなら「学習普及」じゃないかと思います。学び合い、世界の捉え方を探り続ける。結果のない世界を、ともに歩みながら悩む̶それが学びの場で行われることだと思っています。だけど、それには、本当に時間がかかることなんです。  いつ、誰が、何を社会にもたらすかは、誰にもわからない。ただ、静かな革命は確かに起きている。じわじわと浸透し、気づかれないまま社会を変えていく。その変化に気づく感性を育てることこそ、わたしたちの役割なのだと思っています。 [森]  ありがとうございます。最後に、オープニングスピーチでアーツカウンシル東京機構長の青柳正規が話した、画家ポール・ゴーギャンの作品について触れさせてください。そのタイトルには「我々はどこから来たのか」「我々はどこへ行くのか」というフレーズがあり、その間には「我々は何者か」という問いが挟まれている、と。そして青柳は、こう続けました。「〝わたし〞と〝居場所〞は相互に規定し、干渉し合う。人は居場所を必要とする存在であり、居場所をつくり出す存在でもある」  今回のセッションは、この言葉を反芻し、あらためて確かめる時間だったと思います。ただ、これは終わらない議論です。それぞれが何かを持ち帰り、モヤモヤを抱えたまま次の行動へとつないでいく。そして、その動きを各々のネットワークにつないでいく。そうした営みを静かに続けていくことこそが、目指すべきクリエイティブであり、居場所をつくることではないか。これを最後の言葉として締めくくりたいと思います。 [クロージングセッションのページ終了] [写真:クロージングセッションの様子] [写真:クロージングセッションの様子。] [187ページ、インサイトのページ開始] [タイトル]わからなさと友達になる 芸術家、京都市立芸術大学 学長 こやまだ とおる  わたしは芸術教育にかかわっている。そしていつも学生たちと芸術の存在意義について考え続けている。社会は芸術にさまざまな期待を寄せている。癒し、にぎわいの創出、コミュニティの再生、経済効果、まちの活性化、環境問題やさまざまな社会課題の解決など。どれも短いスパンで結果が期待されており、国家も大学などの教育の現場に同様の期待(圧力?)をかけている。確かに、芸術のなかにはそれらに応えられるもの(デザインなど)もあるが、実は多くの芸術はもっと長尺の時間のなかにある。いまの価値観や状況 に違和感や疑義をもった人間が、違う思考や未来において当たり前になるであろう価値観を誰にも頼まれずに、いまモゾモゾと創りはじめているのが芸術のほとんどだと思う。だから、その価値観が共有されるまでには時間がかかるのだ。 10年、20年は当たり前で、場合によっては100年かかることもあるだろう。し かし、わたしたちは急がされている。資本主義経済は急ぐ。どんどん価値を更新して拡大再生産を社会に持ち込む。この急がされる社会は、そのシステムに対応、順応する人々以外の存在を置き去りにしていく。スピードについていけない人々。じっくりとした時間 をかけなければ成熟しない森などの自然、こどもの成長も。このはざまで障害という言葉も生まれる。これは置き去りにしていく社会の方が生み出した言葉だ。芸術家の多くは、自然や人間とじっくり向き合い、この現代社会の構造に違和感と異議をもっている(と、 信じている)。その意味において、世のマイノリティと親和性があるのだ。マジョリティとは現状の社会構造に問題を感じない人々だと思う。違和感を感じる人々はマイノリティなのだ。芸術は「未来のあたりまえを創る」行為なのだ。そして、今回のこの企画に参集された方々も同様に「未来のあたりまえを創る」仲間なのだ。 もうひとつ、芸術には重要な特徴がある。それは世界のなかの「わからなさ」と向き合う方法をたっぷりともっているということである。芸術家はいまの社会のわかりやすさだけと向き合うのではなく、未知の世界、価値観と向き合うことの方が多い。いまだ人々が 気がついていない自然の摂理や現象、心の世界、技術などと向き合い、そしてなんとか捕まえたと思った価値観を他者と共有できるものに「翻訳」する。それが表現なのだ。しかし、わかったと思ったらその向こうに新たな未知が見えてくる。「うれしい敗北」を経験 し、謙虚さをもつ。その繰り返しを永遠と続けているのが表現者なのだ。未知とは同化できない。同様に他者とも同化できない。しかし未知(わからなさ)と長く付き合うことはできる。「わからなさと友達になる」というのは、探究の世界の編み出した世界と付き合う方法の技術なのだ。芸術はその方法を、たくさんの種類もっている。そのことが社会に対する芸術の存在意義なのではないかと思う。「友達になる」というのは 非常に曖昧な言葉であり、どうしたらできるというメソッドがあるものでもない、自ら試してみるしかない、能動的で好奇心と謙虚さがベースにないとうまくいかないものなのだ。 人々が社会で豊かに生きていくためには、さまざまな世界と多様な関係を結び、さまざまな時間軸で生きていくことを容認される社会でなければならない。現在の資本主義の流れのなかでの、右肩上がりの成長を過剰に助長する社会構造は、効率的な均質化を生み出 し、適合者だけが享受できる社会システムをつくりがちである。そこには人類の本当の豊かさはないのではなかろうか。わたしたちは存在した瞬間から凸凹なのだ。多様な存在が、多様な環境で生きているのだ。均質化を押しつけないでほしい。そして、この過剰さという足し算の社会に対して「美しい引き算」を提案しなければならないのだ。建物を造らず森を創るとか、待つということを基本にするとか、静けさや穏やかさという引いた価値観を見直すとか、こどもを急がさないとか、無駄を愛するとか、さまざまな「美しい引き算」が社会を豊かにすると思うのだ。芸術はきっとそのことに深く関与できる。「わからなさと友達」になりつつ「美しい引き算」を編み出し、「未来のあたりまえ」をみなと創る。よき未来でありますように。 こやまだ とおる 1987年に京都市立芸術大学美術学部日本画専攻卒業。在学中にパフォーマンスグループ「ダムタイプ」を結成。創設メンバーとして作品を国内外に発信。「共有空間の獲得」をキーワードに、人々が集いかかわる場を生み出し、空間そのものを体験させる独自のアート手法や「共有空間」がもつ新たな可能性を探究。2005年に第2回アサヒビール芸術賞受賞。2010〜2024年に京都市立芸術大学美術学部教員。2025年より現職。[インサイト こやまだとおる 終了] [190ページ インサイトのページ開始] [タイトル]「うれしい敗北感」という希望 東京大学先端科学技術研究センターユーザーリサーチャー(学術専門職員) 牧野麻奈絵 「居場所とわたし」。このテーマを掲げた、だれもが文化でつながるオータムセッション2025は、単なるバリアフリー論を超え、わたしたちが異なる他者と、そして世界とどう向き合うべきかという根源的な問いを投げかけるものだった。 わたしが最も心を揺さぶられたのは、コミュニケーターの和田令子さんがつくり上げてきた「デフハウス(聾者の家)」と、クロージングセッション登壇者の一人で京都市立芸術大学学長であるこやまだとおるさんによって発せられた「うれしい敗北感」という言葉だ。 この言葉は、和田さんらのセッションを見たこやまださんの感想として語られた。そしてそれは、わたしのなかに、ダークセン・バウマン博士とジョセフ・マレー博士が提唱した「デフゲイン(Deaf Gain=聾者の利得)」、そしてある種の皮肉を込めた「聴者の損 失(Hearing Loss)」という概念を鮮烈に想起させた。 ろうコミュニティでは、聴こえる人たちのことを「聴者(Hearing)」と呼ぶ。聾者と出会ったことがない人は、まさか自分が「聴者」という特定のラベルで呼ばれる存在だとは想像もしないだろう。一般的に「Hearing Loss」といえば「聴覚障害(聴力の損失)」 を指す。しかし、自身も聴者であるバウマンによれば、デフゲインの理論的枠組みでのこの言葉は「聴者が聾者特有の視覚的・感覚的な豊かさにアクセスできないことによる損失」を意味する。いわば「聴者の敗北」である。 和田さんのデフハウスは、玄関のカーブ、視線が行き届く吹き抜け、家族の所在を感じる光など、まさにデフゲインのかけらが積み重なった集大成であった。同じ聾者当事者であるわたしでさえ、その創造力にはただただ圧倒されるほかなかった。和田さんの類稀なる感性と叡智の集合体であるその家は、写真や動画越しであっても、いかにデフスペースとして機能し、居心地がよいかが想像できてしまうのだ。 聴者である芸術家のこやまださんが、ろう文化の深淵に触れ、自分たちの尺度では測れない豊かさがあることを悟ったときに生まれたのが「うれしい敗北感」だったのだろう。また、クロージングセッションで語られた「わからなさと友達になること」というこやまださんのメッセージも、この文脈で響いてくる。資本主義に支配された現代社会は、成果や効率、わかりやすさを性急に求める。しかし、本来世界は「ノイズ」に満ちており、わからないことだらけだ。異なる他者の世界に出会い、その「敗北」を「うれしい」と感じられる感性こそが、わからなさと手を取り合う第一歩なのだと感じた。 さらに印象的だったのは「焚き火」のメタファーだ。大きな一つの焚き火(社会全体)だけでは、わたしたちは疲弊してしまう。時には、自分と同じ属性や言語をもつ人々と囲む「小さな焚き火(独立したコミュニティ)」が必要だ。そこは、社会的な緊張から 解放され、自分自身を取り戻すための安全地帯となる。デフハウスは、まさにその究極のかたちだ。 インクルーシブな社会とは、すべてを強引に混ぜ合わせることではない。「社会に溶け込んだ場所」と「分離的な場所」を行き来できる自由こそが、真の居場所をつくるのではないだろうか。  「未来のあたりまえを創る」。こやまださんがアートに臨む考え方として示したこの言葉を胸に、会場を後にした。わたしはこれまで、社会に対して居場所を探す側の人間だったかもしれない。しかし、今回のオータムセッションに参加して、デフゲインを誇り、新たな 価値の提供を通じて居場所をつくり出す側の人間でありたいと強く思う。あの会場で受け取った「うれしい敗北感」という希望を、わたし自身が属するさまざまな焚き火、そしてわからなさの森で広げていきたい。 まきの まなえ 生まれつきの聾者で、家族全員がろう・難聴者のデフファミリーで育つ。第一言語は手話。米国留学にて聾者学とアメリカ手話を学び、ろう教育資格を取得した。現在、日本手話・日本語・アメリカ手話・英語の4言語を用い、東京大学先端科学技術研究センター熊谷研究室にて、ろう・難聴者の研究活動におけるアクセス保障をテーマに研究するユーザーリサーチャーかつ博士後期課程学生である。 [インサイト 牧野麻奈絵 終了] [193ページ インサイトのページ開始] [タイトル]アートと障害の可能性と創造性 東京大学大学院総合文化研究科教授、 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)センター長 梶谷真司 アートと障害が交差するところは刺激的だ。そこは福祉とか人権とか配慮とか共生とか、いろいろ難しいことが言われるが、わたしには単純におもしろい。 2019年からTURN(注:2015年度から2021年度まで東京都事業として実施された、多様な人々の出会いによる相互作用を、表現として生み出すアートプロジェクト。交流プログラムや福祉施設・アーティストとの協働プロジェクトの実施、対話の場づくりや活動発信などを総合的に行う。注終了)の活動に参加し、また昨年2024年からクリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョーにも呼んでいただいている。それでわかったのは、この二つはどうも相性がいいらしいということだ。でも、なぜなのか。 アートの可能性 アートの役割・意義とはなんだろうか。絵画や彫刻、工芸や建築のような造形芸術は、特に言葉で伝えられないものを審美的(aesthetic)なものを通して伝えることだと言えるだろう。ヨーロッパでは、中世において、絵や彫刻は字が読めない人にもキリスト教の教えを伝えるもので、そこで重要なのは、真理の伝達であった。近代になると、新しい世界の見方や価値観を提示するものとなり、同時に芸術家の個性の表現になった。その延長線上で19世紀以降、戦争、差別、貧困、抑圧など社会の不条理の告発も、芸術の役割となっていった。 こうした歴史を顧みると、近年アートが社会課題への取り組みとして、さまざまな人たちと共創するのは、また新たな展開であることがわかる。そこでのアートは、個性の表現と社会への批判の側面はもちつつも、むしろ社会のなかに入って、他者、とりわけ障害者や高齢者、マイノリティなど、社会の周縁にいる人たちと共働するのである。 とはいえ、社会課題への取り組みは、アートに限らず学問も行政も行う。ではアートの独自性は何か。まず挙げるべきは、アートがもっている非言語的次元、感覚的・感性的次元であろう。これは、アートの普遍性に通じる。感覚や感性は通常、主観的で個人的な好 みによるところが多く、客観性や一般性に欠けるとされる。言語による活動のほうが、ものごとを客観的に正しく捉えられると思われがちである。ところが実際には、思想や価値観は、共有されず対立することも多い。他方、感覚的・感性的なものは、主観的で個人的 でありながらも、客観的で一般的なものをもっている。好き嫌いはあっても、美しいものは美しく、楽しいものは楽しい、心地よいものは心地よいのである。これらは事物の属性ではないが、わたしたちが生きる世界の属性なのである。 また何より言語を必要としないので、こどもも大人も、外国人も、知的能力や言語理解の多少にかかわらず、経験し享受することができる。そして感覚的・感性的であるがゆえに、光、色、形、音、匂い、味、感触など、五感のすべてに訴えられる。さらには、五感 を超えた場、空間、雰囲気の体験に訴えることもできる。このアプローチの多様さ、柔軟さが、より多くの人に可能性を広げ、関心を喚起する。 障害・マイノリティの可能性 障害は一般に、何かが足りない状態だと思われている。障害に限らず、LGBTQにせよ、外国人にせよ、マイノリティであるということは、マジョリティではなく、広く共有されている標準から外れているということである。だからマイノリティは社会の周縁に追いやられる。その人たちが求めることは、多くの人にとって必要とするものではないとされる。 だがそれは、裏を返せば、まだ発見されていない価値や需要、簡潔に言えば、潜在的な可能性がそこにあるということでもあろう。タイプライターもタッチパネルも音声認識も、もともとは障害のある人のために開発され、それがマジョリティにとっても便利なものとして普及した。エスカレーターもエレベーターも、歩くのに困難を抱えている人のためにつくられたが、いまでは誰もが当たり前に使うものになった。マイノリティのためにしたことが、社会をよりインクルーシブにする。そうすると、社会全体のためにもなる。 隠れた需要を掘り起こし、経済化していくのは、いかにも資本主義的だ。こういう、ある意味基本的なことが、世の中ではあまり理解されていない。だから、 障害のある人、LGBTQ、外国人など、マイノリティのためにすることは、社会の負担になる、お金の無駄だという話になるか、さもなければ人権に訴えてケアや支援をすべきだという話になる。しかしどちらの話も、一義的に何が正しいか決めるのが難しく、違 う立場の人には受け入れにくい。何よりいろんな立場が対立しやすい。 だがわたしが障害に興味をもつのは、先に述べたような可能性の側面である。いま何をすべきかではなく、将来何ができるかである。それは、多くの人にとって胸躍ることではないだろうか。このようなアートと障害の可能性を考えると、両者の相性がいいのが よくわかる。つまり、アートの柔軟性と障害の周縁性がかけ合わさることで、両者の新しい可能性がひらかれ、それが社会全体の可能性をひらくのだ。 居場所というテーマ  以上を踏まえた上で、「居場所」という「だれもが文化でつながる会議」のテーマについて考えたい。「居場所」とは、居心地がよく安心できて、繰り返し戻るところであろう。その裏には身の置きどころのなさ、孤立、違和感、馴染めなさがある。もちろん誰し もそのようなことを感じること、場所はある。しかし、日常生活のなかで比較的長く過ごすところ、家庭、学校、会社、地域や身近な人間関係など、本来は居場所であるはずの場所がそうでなくなるとき、居場所が〝問題〞として浮上する。 時期的には、1980年代くらいから社会問題化したように思う。大きくクローズアップされたのは、こども、若者、女性、高齢者など、もともと居場所があった、むしろマジョリティの側の人たちだった。既存の社会や価値観の変化によって、もともといた所属 先(学校、家庭、職場、地域コミュニティ)を失ったり、新たな場所を求めて行った先で、それまでなかった摩擦や軋轢が生じたりしていた。 他方、障害者をはじめとするマイノリティには、そもそもそういう居場所自体が当たり前ではなかっただろう。そうした人たちは、社会の周縁にいて見えない存在になっていた。だから、昨今いろんなところで話題になっている〝居場所〞と、マイノリティにとっての〝居場所〞は、問題としては重なりながらもずれているように思う。したがっていま、居場所を再定義し、より包括的な視点を見つけなければならなくなっているのではないだろうか。 会議に参加して思ったこと  「だれもが文化でつながる会議」のテーマは2024年が「文化と居場所」、2025年は「居場所とわたし」であった。社会的・一般的なレベルから個人的・個別的なレベルに重心が移動したと言える。実際の発表がすべてそうだったわけではないが、今年のセッションに参加して考えたことを述べていこう。 普段からわたし自身、場や組織の性格、人の役割を曖昧にするということに関心をもっている。その点から見て、ほっちのロッヂは興味深い。そこでは、ケアや支援が必要な人(患者や障害者)とケアをする人、医療者という役割を明確にせず、症状や状態、年齢 などで区別するのではなく、「好きなことする仲間として、出会おう」と、文化企画を担当する唐川恵美子さんは言う。しかもそれを考え方として表明しているだけでなく、そこにいるみんなが私服で、患者も医者も、実際に見た目ではわからないようにしているらしい。このような具体的工夫は、さりげないように見えて、実は非常に大事なことだと思う。 同様のことを、ダンサーのじゃれおおさむさんは、専門性のデメリットとして語っていた―専門性を高めると役割や立場が明確になり、それに応じた専門的なケアを行うようになる。それは責任ある態度であるし、それがあるから安全で安定している。しかしそこには上下の勾配ができて、ケアする者とされる者という固定した関係ができてしまう。それは、自分自身の可能性を閉じてしまうことでもある。 このように区別をしないこと、曖昧にすることは、場そのものへと拡張しうる。バザールカフェの松浦千恵さんによれば、支援が必要な人にフォーカスするとそうじゃない人は来にくくなる。障害や病気がある人だけでなく、大学生のなかにも生きるのがしんどい人はいる。そのような場所は、そこに来る人のためだけではない。何よりも、ソーシャルワーカーであると同時に子育てをする母でもある松浦さん自身にとって、この曖昧さは大切である。それは答えがなくていい、理解し合わなくていいというゆるさでもあり、それによってカフェが彼女自身の居場所になるのだという。 さらに、はじまりの美術館は、施設をまるごとそうした曖昧さの原理で運営している。学芸員の大政愛さんは、美術館をみんなの〝わたし〞にとっての居場所、そこに行けば顔を知っている〝誰か〞に会えるところ、何か新しいものがあって人との出会いがあって、特別な用事がなくても、「ちょっと天気がいいから」来るところ、「何かおもしろいものがあるところ」……そんな場所になるよう工夫をしている。スタッフは常に受付やカフェスペースにいるので、来館者と交流する機会が多く、来館者どうしをつなぐこともできる。そういう細かい何気ないことを積み重ねて、美術館が気軽にいろんな人がいられる空間となる。 アートによる排除をいかに乗り越えるか 最後に、2024年の国際会議のクロージングセッションで進行役を務めさせていただいた ときに、わたしが問題提起したことに触れておきたい。それは、アートがもつ包摂(inclusion)の可能性の半面で、アートゆえの排除(exclusion)の可能性とどのよう に向き合うかということである。 アートが多くの人に訴えかける力があることは、誰も否定しないだろう。けれども、 アートには関心がない、アートは難しそう、アートはおしゃれな人がやることで、自分にはそんなセンスはないなど、アートを避ける人もいる。そこでわたしが興味深いと思ったのは、「アートの気配」という言葉である。 バザールカフェについて松浦さんは、「完璧じゃなくてダサい、だから人がかかわれるようになっている」と言っていた。まさに、アートとは対極にありそうな「ダサさ」。完成されたものは余白がない。不完全さにこそ豊かな可能性がある。これがアートの気配である。このセッションに登壇した3人は、アートはなくても生きていけるが、アートの気配はないと生きていけないという点で共感していた。だから、社会福祉士でキュレーターでもある青木彬さんは言うのだろう―アートという作品以前の、アートと名づけられない 想像力、残り香、その気配、そこにこそクリエイティビティを感じるのだ、と。   わたしたちの社会は、目的を明確化し、効率性を追究し、役割や機能を分け、 プロセスもアウトプットもできる限りコントロールしようとする。組織もテクノロジーもそのためにある。ポストモダンと言われて久しく、ものごとの複雑さと曖昧さが増すばかりだ。にもかかわらず、わたしたちはいまだどっぷりと近代のなかにいる。そこにさらに深くはまり込み、現実の矛盾や不快さを感じながら、同じ道を突き進むしかない。 そのなかでむしろ積極的に曖昧さとゆるさを求め、不完全であろうとする。この態度を、京都市立芸術大学学長でバザールカフェの創設者でもあるこやまだとおるさんは、クロージングセッションで得意のユーモアとともにこう語った―「わからなさと友達になろう」  それは反近代なのか、超近代なのか。いずれにせよ、そこにはアート、もしくはアートの気配の創造性とともに、障害やマイノリティの創造性が宿っている。やはり新しいもの、革新的なものの可能性は、社会の中心ではなく周縁からひらけてくるのだ。 かじたに しんじ 京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。専門は哲学、医療史、比較文化。近著に『考えるとはどういうことか0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬舎、2018年)、『哲学対話の冒険日記 われら思う、ゆえにわれらあり』(あいり出版、2023年)、『思想としての育児 知識と身体の歴史哲学』(教育評論社、2026年)がある。 [インサイトかじたにしんじ 終了] [200ページ、カラー写真ページ(計5枚)開始] [1枚目:全面の写真。窓辺に展示されている宮永愛子の作品「くぼみに眠る海、水鳥」。窓の外には小さな青い花が咲いている。作品が置かれている木の台の手前にはフランク・ロイド・ライトデザインの六角椅子が置かれている。] [2枚目:見開きの写真。2階のミニミュージアムから1階のホールを俯瞰する構図。写真右から順に宮永愛子の作品「留め石」、ホールの壁画、3人の女学生が三角形を成した像、六角椅子、宮永愛子の作品「くぼみに眠る海、水鳥」が位置し、写真左半分は幾何学模様の木枠の大きな窓と外の風景が広がっている。] [3枚目。大きな縦向きの写真。大教室タリアセンにおけるこやまだとおるの作品お父ちゃん弁当の展示風景。壁沿いの什器と棚に、額縁におさめられた作品が並んでいる。] [4枚目。全面の写真。講堂のステージ上にあるなかざきとおるの作品「看板屋なかざき」の展示風景。ステージ中央に東京都やアーツカウンシル東京のロゴなどが施された看板、ステージしもてには、家をかたどった作品、かみてのステージしたには、船をかたどった作品が置かれている。] [5枚目。見開きの写真。講堂内銀杏の間におけるAKI INOMATA(アキイノマタ)の作品の展示風景。木の彫刻作品「彫刻のつくりかた」が3点展示されている。] [カラー写真ページ終了] [208ページ 展示作品の解説 開始] [タイトル] 言葉の隙間を埋める存在 「居場所とわたし」というテーマを掲げた本会議では、否応なく言葉と概念が先行します。そこでの対話の最終目的は、芸術文化活動が「わたしの居場所」をかたちづくるために不可欠であることを、あらためて定義し直すための「言葉」を獲得することにありました。  しかし、どれだけ精緻に言葉を尽くしても、そこからこぼれ落ちてしまう豊かなイメージや、名づけ得ない「何か」が必ず存在します。その確信から、不意に視界に飛び込み、偶然あるいは必然のように出会ってしまう存在として、4人のアーティストによる作品を会場に配置しました。  これらの造形物は、抽象的な概念だけでは捉えきれない「関係性の機微」を軽やかに可視化します。自分らしくあるために不可欠な「他者」とは、慈しむべきわが子、社会的な契約がもたらす「間柄」、あるいは地球をわかち合う動物たちかもしれません。それらとの結びつきを静かに提示する作品たちは、いま・ここから連なる過去や未来、そして広大な時空の広がりをわたしたちに想起させます。  作品の前に立ち止まり、解説を補助線として「造形と言葉」の間で対話することで、テーマと深く向き合う愉しみに出会える。わたしの居場所とは、決して孤立した「点」ではなく、多層的な「大切な関係」の網目のなかにこそ存在する。作品たちは、その事実をわたしたちに自覚させてくれるでしょう。 [展示作品の解説 終了] [209ページ、章扉] セミナー:「居場所」を育むための講義 [210ページ、セミナー1のページ開始] [タイトル] アクセシブルなウェブデザインとは何か 情報と出会う道筋を思い描く [リード文開始] 情報発信者・ユーザー・デバイスが急速に多様化する現在、障害の有無にかかわらず、誰にとっても利用しやすいアクセシブルなウェブデザインの重要性が高まっている。ともにインターネット黎明期からウェブサイト制作に携わるいしきまさひでさん、はぎわらしゅんやさんの対話から、日々の実践に落とし込めるアクセシビリティの視点を探った。 [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 伊敷政英(読み:いしき まさひで) アクセシビリティコンサルタント 2003年頃よりウェブアクセシビリティ分野での活動を開始し、診断やガイドライン作成支援、セミナー講師、執筆など多数従事。 2018年より障害者専門クラウドソーシングサービス「サニーバンク」アドバイザーも 務めている。 [写真:いしきまさひでの顔写真] 萩原俊矢(読み:はぎわら しゅんや) ウェブディレクター、デザイナー、プログラマー セミトランスペアレント・デザインを経て現在はスタジオ・オータム代表。文化芸術分野を中心にウェブサイト制作、アクセシビリティ向上、デジタルアーカイブ構築を担う。 第16回文化庁メディア芸術祭新人賞などを受賞。 [写真:はぎわらしゅんやの顔写真] [登壇者プロフィール終了] [小見出し] 時代の流れとともに多様化したウェブサイトのありよう  先天性の視覚障害による弱視から、2020年頃に全盲となった伊敷さん。ウェブにかかわりはじめたきっかけは、盲学校時代の友人たちによる音楽活動だった。かれらのメジャーデビューが決まり、視覚障害のあるメンバーやファンにも正確に情報が伝わる、そして、自分たち自身で管理できるウェブサイトが必要になったという。  初めてMacを購入したのは、1997年、大学2年生の頃。通常の画面表示では、サイズや照度の影響で文字を読むことができなかったため、文字拡大や色反転ができるフリーソフト「クロースビュー」を使用していた。伊敷さんは「当時はウェブサイトなんてつくったこともありませんでしたから、HTMLタグ辞典を参照しながら、コードを見よう見まねで打って。うまく反映されると、そのたびに『できた!』と感動したことを覚えています」と振り返る。  萩原さんも、工業高校時代に抱いたメディアアートへの関心を背景に、同じく90年代からネットアートやウェブサイト制作をはじめた。当時は個人がDIYでホームページをつくっていたインターネット黎明期。しかし現在は、社会の多様化に合わせ、さまざまな人と協業しながらウェブサイトを制作する時代へ変化していると語った。 「デザイナーにプログラマー、編集者やライター、クライアント。伊敷さんのようなアクセシビリティの専門家もそうですし、さらにはユーザー自身も、チームの一員としてウェブサイト制作にかかわっている。同時に、ユーザー層や利用環境も多様化してきているので、いま、ウェブデザインにはより柔軟性が求められていると思います」 [小見出し] ユーザーの特性によって異なるウェブサイトの体験 [写真:登壇者2人が話している様子。]  多様化するウェブ利用環境の一例として、伊敷さんは自身が普段から使用している、音声でウェブサイトの情報を読み上げるスクリーンリーダーを実演した。キーボードの矢印キーを下方向に押すと、選択箇所が1行ずつ下がり、音声はサイト内の文章を読み上げる。その速度は日常会話の2倍以上だ。音声はまるで早送りしているかのようで、認識が追いつかないほどのスピードで流れていく。  しかしそれでも、ウェブサイトを一から読み上げていくには、かなりの時間を要する。そこで紹介されたのが、見出しに読み上げ位置を移動させるジャンプ機能だ。効率的な閲覧をサポートするもので、ボタンや画像、表などにも適用できるという。ただ、この機能が利便よく使われるためには、〝スクリーンリーダーが明確に情報を認識できる〞ウェブサイトである必要がある。「これは大見出しだよ、その下は箇条書きだよ、表だよと、サイトの構造をHTMLとしてきちんとマークアップすることが大切なんです」と伊敷さんは言う。それは、コンピュータのプログラムやシステムが解読しやすい(=マシンリーダブル)なウェブサイトの構築が、ユーザーのアクセシビリティに寄与するということでもある。    これに対し、萩原さんは「目で見るのと音で聞くのとでは、ウェブサイトの体験がだいぶ異なる。閲覧のしやすさにもポイントがありますよね」と応じ、表の認識の違いを挙げた。  仮に、ウェブサイトに家電製品のスペック表が表示されているとする。このとき、共通項のセルが結合されていることは、目で見る人にとって視認しやすい情報整理かもしれない。しかし、音で聞く人にとっては、どの項目にひもづいた情報かがわかりにくくなることがある。だからこそ、認知特性にかかわらずアクセスしやすいコーディングをめざすことが必要なのだ。  そして、これまで伊敷さんと協働を重ねてきた萩原さんは、初めて伊敷さんのスクリーンリーダーを聞いたときの経験を振り返り、このように語った。「自分がつくってきたウェブサイトが、いかに視覚で情報を捉えるユーザーのみを対象とした一面的なものだったかを実感しました。メディアと人がどのようにかかわり合い、変化していくのかということにずっと興味をもってきたので、『メディアって多様なんだ』と、すごく驚いたんです」 [小見出し] アクセシビリティ向上は「特別対応」ではない  萩原さんは、続けてこう投げかけた。「いまとなってはソーシャルメディアが浸透し、 ウェブユーザーの利用環境もさらに変化しています。それでも、アクセシビリティ=障害のある人のためのもの、というマインドが、世の中にはまだどこかあるんじゃないかなとも思うんです」  すると伊敷さんは、「僕の周りでは、もうそういう感覚は、だいぶなくなってきているように感じますよ」と応答。そして、アクセシビリティの向上が、障害の有無、対象や使い方が特定されたユーザビリティの概念を超え、すべてのユーザーにとっての使いやすさを更新していく可能性を示唆した。「たとえば、通勤中に動画学習をしようと思っていたのに、イヤホンを忘れてしまった。そうした際、耳の聞こえる人にとっても、字幕が補助になるかもしれない。また、眼鏡が壊れてしまい、普段より視力が落ちた状態でウェブサイトを見るといったときに、スクリーンリーダーを活用できるかもしれないですよね」  萩原さんも、「いまはニーズやデバイスも多様。想定外の使い方をするユーザー(=エクストリームユーザー)の裾野は、これからも広がり続けると思います」と同意を示した。 [小見出し] 身近に実践できる三つのポイント  では、ウェブのアクセシビリティ向上を図るために、わたしたちはどのような行動が取れるだろうか。伊敷さんと萩原さんは、実践のための三つのポイントを、具体例を交えながら紹介した。  まず一つ目は、「バリアフリー情報を一か所にまとめること」だ。ウェブサイト内の複数のページに、バリアフリー設備やアクセシビリティのサービスに関する情報、資料が点在していると、ユーザーは知りたい内容にたどり着きにくい。情報を集約することで、アクセスが円滑になる。 東京国立近代美術館 幅広い来館者層を見据えたアクセシビリティの取り組みをトップページに一覧化。 サービス内容や館内図がまとめて紹介されている。 https://www.momat.go.jp/  二つ目は、「言葉による道案内をつくること」。視覚障害のある人にとって、地図や 「徒歩何分[諒成1.1]」という時間の目安のみでは、目的地に行き着くための情報が少ない。経路を文章で説明し、途中にある店や特徴的な匂い、点字ブロックの有無といった視覚以外の手がかりを具体的に盛り込むことが、外出や移動の不安を払拭する手立てになる。 ことばの道案内「ことナビ」 主に視覚障害のある人や視力の低下した高齢者に向け、言葉による道案内や駅構内の情報提供などを行う。 https://www.kotonavi.jp/ 江戸東京たてもの園 ウェブサイトで日本手話による施設紹介動画(音声ガイド・日本語字幕付き)を公開している。 https://www.tatemonoen.jp/  三つ目は、「アクセシビリティ関連イベントに参加し、仲間と出会うこと」だ。伊敷さんは、クリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョーが主催する「だれもが文化でつながる会議」をはじめ、「アリートーキョーミートアップ」や視覚障害者向け総合イベント「サイトワールド」など、初心者でも気軽に参加できるイベントを紹介。「知識がなくても参加できる場はたくさんあります。セミナーやワークショップを通じて、多様な人がどのように情報を得ているか知るきっかけにしてほしい」と語った。 だれもが文化でつながる会議 東京都とアーツカウンシル東京が主催。文化芸術による共生社会の実現に向け、国内外から多分野のアクセシビリティ実践者が集い議論と交流を図る。 https://creativewell.rekibun.or.jp/creativewell-conference/ アリートーキョーミートアップ 「アクセシビリティ」をテーマに、マンスリーでイベントを開催。リアルタイム字幕・機械翻訳による字幕も提供。 https://a11ytyo.connpass.com/ [小見出し] ウェブで情報を発信することが、 アクセシビリティ向上への第一歩 最後に、「アクセシブルなウェブデザインとは何か」というテーマに立ち返り、伊敷さんと萩原さんは、〝必要なときに、必要な情報を取り出せること〞が本質だと提示した。  その上で、自社でデジタルアーカイブにも力を入れる萩原さんは、「現在のユーザーが情報にアクセスできることも大切ですが、5年後、10年後にもその情報を必要とする誰かがいるかもしれない。そのときのために、未来のユーザーに向けてアーカイブを残していくことも、アクセシビリティ向上への取り組みの一つだと捉えています」と語った。  そして、この言葉に続け、伊敷さんは参加者の背中を押すようにこう述べた。「もちろんアクセシブルなコンテンツが増えるのはありがたいですが、一方で、アクセシブルではないから掲載を控えるといった状況は避けたいと思っています。ウェブそのものが本来アクセシブルなメディアなので、まずは、求める人がアクセスできるよう〝ウェブ上に情報を置く〞ことを大切にしてほしいですね」。HTMLのマークアップが適切でなくても、代替テキスト(画像や図の内容を説明する文章で、音声の読み上げに対応する)が不十分だったとしても、模索することから改善を図ることはできる。画像認識をサポートするAI支援アプリなどの活用も、アイデアとして提案された。 「アクセシビリティの取り組みに終わりはありません。毎日少しずつ、積み重ねていきましょう」。二人はそう語り、笑顔で場を締めくくった。 [セミナー1のページ終了] [217ページ、セミナー2のページ開始] [タイトル] バリアフリー活弁士による鑑賞体験 視覚の外側にある鑑賞の可能性 [リード文開始] 情報保障としての音声ガイドにとどまらず、多様な表現技術を取り入れた「バリアフリー活弁」。20年以上にわたり活動を続ける檀鼓太郎さんによる実演と、ブラインド・コミュニケーターの石井健介さん、全盲の俳優の関場理生さんを交えたトークを行った。実演と対話を通して、見える、見えないを超えた「鑑賞」という行為のあり方、その可能性を探る。[リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 檀鼓太郎(読み:だん こたろう) 俳優、演出、ナレーター、バリアフリー活弁士 舞台俳優として全国を巡演するほか、クラシック音楽劇の語り・演出を担当。2003年 より視覚障害者向けに映画の実況解説を行うバリアフリー活弁士としても活動中。 [写真:だんこたろうの顔写真] 石井健介(いしい けんすけ) ブラインド・コミュニケーター 2016年、ほぼすべての視力を失うも社会復帰。見える世界と見えない世界をポップ につなぐブラインド・コミュニケーターとして、ワークショップ・講演活動を行う。 [写真:いしいけんすけの顔写真] 関場理生(せきば りお) 俳優、ナレーター 2歳で失明し全盲となり、自ら舞台に立つほか、視覚障害者向けの観劇サポートにも携わる。「ePARA Voice」や「みみよみ」に所属し、ナレーターとしても活動中。 [写真:せきばりおの顔写真] [登壇者プロフィール終了] [小見出し] 音声ガイドと映画業界のいま  障害の有無にかかわらず、誰もが必要な情報を受け取れる状態を目指す「情報保障」。美術館や博物館、映画やドラマなどの映像作品においては、視覚に障害のある人が芸術文化を十分に享受できるよう、音声ガイドの提供が進められてきた。  なかでも映画における音声ガイドでは、場面の説明や登場人物の動き、表情、しぐさといった視覚情報が、セリフの合間にナレーションとして挿入される。また洋画の場合には字幕によるセリフ文も読み上げられている。  しかし、ブラインド・コミュニケーターの石井さんは、映画業界における現状を次のように語る。「一般社団法人 Japanese Film Projectが実施した〝日本映画業界におけるユニバーサル上映実態調査〞によると、国内でバリアフリー上映に対応した洋画は、2020年には公開本数511本のうちわずか2本!2023年でも556本のうち8本にとどまっています。だからアカデミー賞受賞のニュースを聞いても、どうせ僕たちは観られないでしょって、取り残されちゃったような気持ちになるんです」  洋画では、制作側に承認を取る際のハードルの高さなどから、音声ガイドが普及しにくいという構造的な課題がある。こうした状況のなか、2016年に病気によって突然視力を失った石井さんは、当初、音声ガイドに違和感を覚えていたという。 「目が見えていた頃は映画館によく通っていたし、正直に言えば、音声ガイドは鑑賞を邪魔するものとも思っていました。でも、優れたディスクライバーやナレーターによる音声ガイドに出会い、それ自体が作品として素晴らしいと感じるように。それからは、音声 ガイド付きで観る機会も増えました」  石井さんは、檀さんが行う「バリアフリー活弁」について、いい意味で「音声ガイドのスタンダードからはみ出している」と表現する。情報保障として求められてきた枠組みを踏まえながらも、それを更新する試みとしての「バリアフリー活弁」とは、一体どのようなものなのだろうか。 [小見出し] ライブで行う音声ガイド「バリアフリー活弁」 [写真:登壇者3人が話している様子。]  バリアフリー活弁士として、映画やプロレスなどの場面解説から、忘年会などのパーティーに至るまで、台本を用いない実況型音声ガイドを手がけてきた檀さん。その活動の原点には、一人の視覚障害者の声があったという。  きっかけは、映画『ロード・オブ・ザ・リング』。原作の大ファンから、吹き替えでかかわっていたバリアフリー映画鑑賞推進団体「シティ・ライツ」に、「どうしても〝観たい〞」という相談が届いたのだ。  「相談を受けた方から『戦闘シーンも多く、ファンタジー作品をどうガイドすればいいかわからない。檀さん、どうしよう』と。それならスポーツ中継みたいに実況したらいいんじゃないか、と思ったんです。実際に〝観たい〞と言ってくれた方をモニターにして、僕が即興でしゃべったものを元にして台本をつくることになりました」  檀さんの語りを聴きながら映画を鑑賞したその人は、上映後、涙を流していたという。「『檀さん、練習で泣かしちゃいましたよ。もう自分でやってください』と言われて。そこから急遽、ライブでデビューすることになっちゃいました」と、檀さんは笑う。  より正確な音声ガイドにするため、1作品につき3度は劇場に足を運ぶという檀さん。1度目は前方の席で映画に没入して、2度目は後方の席で客観的に見る。鑑賞後にわからない言葉を徹底的に調べたら、もう1度、前方の席で見る。たった一言の音声ガイドを考えるために、映画に登場した場所を、Googleストリートビューで探すこともあるという。その徹底したリサーチも、バリアフリー活弁を支える重要な要素だ。  登壇者の一人である全盲の俳優・関場さんは、檀さんのバリアフリー活弁をきっかけに、音声ガイドに親しむようになったと語る。 「こどもの頃から、音声ガイドなしで映画を観ることが当たり前だったので、檀さんのようにライブで付けてもらう機会がなければ、音声ガイドを聴くこと自体なかったと思います。檀さんの実況は、ライブ感もありつつ、土地の名前や具体的な知識も盛り込まれている。信頼感があるんですよね」  こうした実践の延長線上で、洋画の音声ガイドがなかなか普及しない現状を受けて檀さんが考案したのが、セリフとナレーションを一人で話し分ける「ハイブリッド音声ガイド」だった。 [小見出し] 音声ガイドに耳をすませる [写真:登壇者3人が話している様子。]  当日は、通常の音声ガイドと、檀さんがライブで行う「ハイブリッド音声ガイド」の両方を体験する時間が設けられた。  最初に紹介されたのは、矢野ほなみ監督によるアニメーション作品『骨嚙み』。 TBSアナウンサーの日比麻音子さんが檀さんからの声がけで、音声ガイドに初めて取り組んだ作品だ。1度目は音声のみ、2度目は音声ガイド付き・映像なし、3度目は音声ガイド付き・映像ありという3段階で、約1分間の映像が上映された。回数を重ねるにつれ、最初は捉えきれなかった像が、少しずつ立ち上がってくる。 「どんな音が聞こえましたか?」「どんな画を思い浮かべましたか?」というブラインド・コミュニケーターの石井さんの問いかけに促され、参加者は「音」から提供される情報にあらためて意識を向け、さらに耳をすませる。  関場さんは、この体験を次のように振り返る。 「もちろん、音声ガイドなしで音だけ聴いても気づくことはあります。 でも、ガイドが入ることで『あ、これはこの音だったんだ』と結びつく。 その瞬間、音がより鮮明に聞こえてくるんです。たとえば〝覗き込む姉妹〞と ガイドが入ったとき、そう言えば、手を叩く音が二つあったな、と気づいたりして」  参加者とともに体験を共有しながら、音声ガイドがもたらす「聴くこと」の深まりが、静かに浮かび上がっていった。 [小見出し] 檀さんオリジナル 「ハイブリッド音声ガイド」の実演  続いて、今関あきよし監督の映画『カリーナの林檎〜チェルノブイリの森〜』を題材に、数分間が抜粋上映され、ハイブリッド音声ガイドの実演が行われた。チェルノブイリ原子力発電所のあるウクライナの隣国ベラルーシの村に暮らす八歳の少女・カリーナとその祖母、荷馬車に乗った男が登場する。  セリフの間合いや呼吸を読みながら、情景描写が小気味いいリズムで差し込まれていく。映像が次々と言葉になる、そんななめらかな疾走感は、ライブ音声ガイドならではだ。  さらに「ハイブリッド音声ガイド」として、檀さんは人物ごとに次々と声色を変えながら、ボイスオーバーでセリフを話し分けていく。俳優としても活動する檀さんならではの豊かな演じ分けは、演劇や朗読劇にも通じる。高音と低音を自在に行き来する声の使い分けには、若い頃アカペラの合唱団に所属していた経験も生かされているという。  関場さんは、その印象を次のように語る。 「俳優さんの吹き替えを聴いているようで、表情や体格まで自然と想像できる。すべて檀さんの声がベースになっているから、描写とセリフにも調和があって、なめらかに耳に入ってきますね」  参加者からも、「映像を観ながら聴いていると、最初は情報量が多くて忙しく感じましたが、途中から目を閉じると、すっと檀さんの声が入ってきて、不思議な体験でした」と、初めて触れるハイブリッド音声ガイドへの率直な感想が寄せられた。  音声ガイドへのこだわりを熱く語る檀さんは、最後にこう話してくれた。 「好きな映画を、目の見えない人とも一緒に楽しみたくて。何より自分が楽しくてやっているんです」 [小見出し] 作品や好みによって、選択肢を広げる   檀さんが独自に開発してきたハイブリッド音声ガイド。石井さんは、「檀さんの音声ガイドは、エンターテインメントに位置づけられるものですよね。情報保障やアクセシビリティとは、少し異なるレイヤーにあると思います」と評する。一方、同じ当事者として多様な鑑賞体験を重ねてきた関場さんは、一般的な音声ガイドにも、檀さんの音声ガイドにも、それぞれ異なるよさがあると語る。 「フラットな音声ガイドは、ある意味で〝作品そのものを鑑賞できた〞という感覚が強いんです。だから、ガイドは最小限がいいという気持ちもよくわかります。同時に、檀さんの主観を通したガイドによって、映画の世界観や視点をより深く楽しむという鑑賞の仕方もある。人や作品に応じて選択できることが、本当はベストですよね」  音声ガイドが広がっていけば、「アクション映画ならこの人のガイドで」「ラブストーリーはあの人のガイドで」と、作品や気分に応じて選択できる未来もあるかもしれない。聴く人の心を動かす音声ガイドに挑戦し続けるバリアフリー活弁の実践は、他者とともにある豊かな鑑賞の可能性を広げている。 [セミナー2のページ終了] [224ページ、インサイトのページ開始] [タイトル]いつかの明日とわたしの居場所 ブラインド・コミュニケーター 石井健介 「病めるときも健やかなるときも、富めるときも貧しきときも、敬い愛し続けることを誓いますか?」  この誓いの言葉をこの場所で聞いたのは12年前だったろうか。窓から差し込む光が、友人である新郎新婦の足元を照らし、穏やかな空気がこのみょうにちかんの講堂を満たしていた。  僕の白杖が床板の上で心地よい音を鳴らす。9年と少し前に視力を失い、その代わりに手に入れたこの杖が、12年前にはあまり気にすることのなかった空間の音の響きのよさを教えてくれた。 歴史を感じさせるこの場所で開催された「だれもが文化でつながるオータムセッション2025」はタイトルに「居場所とわたし」という言葉が添えられていた。この言葉の響きはとても心地よい。これが「わたしの居場所」だったら少し意味合いが違ってくるだろう。居場所がわたしにとって必ずしも肯定的ではなかった場合、肯定できない部分も含めて「ここがわたしの居場所なのだ」と自分自身を言いくるめ、本心を飲み込んでしまうきっかけの言葉になりかねない。それに比べて「居場所とわたし」は、その二つの関係性がとてもフラットだ。 僕は突然視力のほとんどを失ってしまったときに、「わたしの居場所」を見失い、「居場所とわたし」の関係性が崩れてしまう経験をした。そこから9年の間、流れる雲がかたちを変えていくのを眺めるように、居場所とわたしの関係性がかたちを変えるのを眺めてきた。ファッション業界に身を置いていた1990年代後半から2000年代前半はミニシアター全盛期。どこの映画館に何を観にいくのかが重要で、レンタルショップでもミニシアター系の作品を好んで選んできては、小さなブラウン管テレビの前に座り、いくつもの夜を過ごしてきた。映画の前という居場所は居心地がよかったはずなのに、視力を失ってからは自分とは関係のない場所に変わってしまった。  映画の視覚情報を言葉で描写する「オーディオディスクリプション(AD)/音声ガイド」というものがあると知ったのは、居場所との関係が冷え切ってから5年後のことだった。正確に言えば、その存在は知っていたのだが、映画を映像なしで楽しめるはずがないという思い込みから、なかなか食指が動かなかったのだ。その考えをあらためさせてくれたのが、東京の田端駅近くにあるミニシアターのCINEMA Chupki TABATAだった。この映画館は上映するすべての映画に、聴覚障害者のために話者名や音楽の情報が入った字幕を、視覚障害者のためにADをつけている。20席しかないこの映画館の座席に座って『素晴らしき哉、人生!』を5年ぶりに観賞したときに、涙とともに居心地のよい場所へまた帰ってきたんだなという実感があふれてきた。そして僕はADつきの映画と恋に落ちた。  今回一緒に登壇した檀鼓太郎さんは現在のようにアプリでADを聴けるようになる遥か前から、映画をリアルタイムで描写していくバリアフリー活弁スタイルを築き上げ、長年にわたりその技に磨きをかけてきた方だ。今回もその名人芸をみょうにちかんで披露し、その場に居合わせた人の多くは目を丸くし、口をポカンと開けていただろう。  僕もADと恋に落ちてから4年が経ち、いまではADを制作する側の端っこに立っている。立っている場所が変わると見えてくる景色も、居場所と自分との関係性も変化してくる。  ほかのセッションをいくつか聴講したが、登壇された方々も常にそれぞれの「居場所」と「わたし」の関係性に目を向け、絶えず変化し続けてきたのだろうと思う。だからこそ、その活動のなかで「居場所」と「誰か」の新たな関係が生まれているのだと思う。  病めるときも健やかなるときも、富めるときも貧しきときも、芸術文化を敬い愛し続けられる「居場所」と「わたし」の関係性でありますように。そしてその足元を光が照らしますように。 [プロフィール開始] いしい けんすけ アパレル・インテリア業界を経てフリーランスの営業・PRとして活動。2016年の4月、一夜にしてほぼすべての視力を失うも、軽やかにしなやかに社会復帰。2021年よりブラインド・コミュニケーターとしての活動をスタート。見える世界と見えない世界をポップにつなぐためのワークショップ・講演活動をしている。 TBS Podcast「見えないわたしの、聞けば見えてくるラジオ」パーソナリティ。 著書に『見えない世界で見えてきたこと』(光文社、2025年)。 [プロフィール終了] [インサイトのページ終了] [227ページ、セミナー3のページ開始] [見出し] 手話通訳の基本と理論の重要性 社会をひらくための「ことば」 [リード文開始] 聴者で手話通訳士の飯泉菜穂子さんと、聾者で手話を第一言語とする那須映里さん。個々の手話通訳における経験を共有しながら、「言語」としての手話のあり方、ニーズが 高まる手話ネイティブによる手話通訳者の可能性、そして情報保障を支えるコーディネーターの役割まで、手話通訳の現在を網羅的に解説した。 [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 飯泉菜穂子(読み:いいずみ なおこ) 手話通訳士、手話通訳技能研修講師 登録手話通訳、NHK手話ニュースキャスター、民間初の手話通訳養成校(世田谷福祉専門学校)手話通訳学科学科長、国立民族学博物館手話言語学研究部門特任教授、聴力障害者情報文化センター公益支援部門部長などを経験。 [写真:いいずみなおこの顔写真] 那須映里(読み:なす えり) 役者、手話エンターテイナー 日本大学法学部新聞学科卒業。デンマークのフロントランナーズで聾者によるリーダーシップを学び、帰国後は役者、エンターテイナー、国際手話通訳などとして活動。テレビや舞台出演のほか、近年は脚本も手がける。 [写真:なすえりの顔写真] [見出し] 手話は一つの「言語」  最初に話されたのは「手話とは何か」だ。手話の基本概要を説明する前に、那須さんはこのように話した。「手話は〝言語〞です。これは世界的には当たり前の考え方なのですが、日本では、手話を音声言語と対等な一つの言語として位置づける手話言語法が制定されていません。この2025年に手話施策推進法が施行され、認識は変わりつつあるものの、手話言語法として成立することが重要。いま、聾者たちは制定に向けて運動しています」。  日本で使われている手話には、日本手話と日本語対応手話の二つがある。日本手話は独自の文法をもち、眉や肩、視線など身体の動きを使って意味を補う「NMM(Non-Manual Markers)」や、話者の立場や視点を身体の向きで切り替える「ロールシフト」といった表現を含む。聾者が第一言語として日常的に用いるのは、この日本手話だ。対して、日本語対応手話は、日本語の語順に手話単語を対応させて表現する。これは、聴者や中途失聴者が理解しやすい一方で、聾者に意味が伝わりにくい側面もあるという。  たとえば、「今日も猛暑日ですが、ここまで足を運んでくださりありがとうございます」という文を、日本語対応手話と日本手話に置き換えてみる。まず那須さんは、この文を日本語対応手話で表現した。このとき、「足を運ぶ」は「足/を/運ぶ/もらう」という手話単語で示される。聾者にとって、これは「足を持ってくる」といったニュアンスに受け取れるのだという。一方の日本手話は、日本語の順番通りに表現するのではなく、独自の語順と単語があり、暑さの度合いや感謝の想いなどを伝える、表情や身体の動きが文法になる構造だ。それにより、要点をつかみやすい自然な語調となることがうかがえた。 [資料:投影されたスライド資料より。日本語文、日本語対応手話、日本手話の比較。]  また、世界中で用いられる共通のコミュニケーション手段には、国際手話がある。海外では美術館や博物館における鑑賞時の情報保障として導入が進み、デフリンピックなどの大規模な国際イベントにおいても国際手話通訳者の配置がスタンダードだ。しかし、日本ではまだ浸透していないのが現状でもある。那須さんは「国際手話通訳者の育成を一生懸命進めているところなんです。でも少しずつ、聴者の手話通訳者との協働の機会も増えてきています」と話した。 [小見出し] 手話通訳者と手話表現者  それから、話題は手話通訳者の役割へ。飯泉さんは、「そもそも手話通訳とは、 〝誰のため〞の仕事なのでしょうか?」と問いかけた。会場には二人の手話通訳者が配置されているが、これは飯泉さんの音声を手話に翻訳する「聞き取り通訳」と、那須さんの手話を音声に翻訳する「読み取り通訳」を行うためだ。つまり、聴者と聾者双方が、互いの発言や考えを理解するためだ。「手話通訳は〝聴覚障害のある人のサポートをする仕事〞と思われがちですが、実は世の中にいるすべての人へ、情報保障をする仕事なんですね」と飯泉さんは語る。  手話通訳が担うのは、音声言語と手話言語間の通訳にとどまらない。日本手話と同様に、海外にもさまざまな文化圏で自然発生的に生まれた手話があり、世界共通の国際手話も浸透している。そうした、異なる手話言語間も含め、二つの異なる言語間の通訳を行うことが、手話通訳の役割と言えるのだ。  また、飯泉さんは、聴者として手話通訳を行う自身の立場から、手話ネイティブ(聾者)による手話通訳の可能性についても言及する。「手話を第一言語として獲得している人は、自然な手話文法が身についています。話者の意図やニュアンスをより確かに手話で通訳できるのです。メッセージを受け取る聾者にとっても、メッセージを伝えたい聴者にとっても、意義のあることだと思います」  那須さんも、手話ネイティブの通訳者として活動する一人だ。ただ、依頼内容によっては「手話表現者」として引き受けることもあるという。  たとえば、すでに開催されたイベントの動画字幕を手話で表現する場合。通常、手話通訳は、話者の発言をリアルタイムで通訳していくため、誤訳や抜け落ちる情報もある。リテイクを行う際は、同時通訳ではなく情報が端的に整理されたテキストを手話に翻訳する方が、正確性が高くなる。  また、聾者は第一言語である手話を読み取る方が理解はスムーズだ。そこで手話表現者に求められるのは、文意や動画制作者の意図を把握し、情報が不足している箇所には、聾者がわかるように字幕では表れにくい情報を付加するという文化的な調整―いわば「表現」。那須さんは「間違いがあったり、伝わらなかったりすることが情報格差になるので、正確にわかりやすく伝える工夫が大切なんです」と語る。その背景には、日本手話を第一言語とする人が、母語で情報を受け取る権利に応えようとする姿勢がうかがえる。 [写真:登壇者2人の様子]  さらに那須さんは、手話通訳者と手話表現者の違いを、国際手話通訳のNG例を交えて解説した。それは、ある会議で海外の話者がオーディエンスに向けて質問をしたときのこと。手話通訳者は日本の文化背景も踏まえて、「オーディエンスがわからないのではないか」と考え、その質問をわかりやすく伝えようと日本にあるものを例に付加して訳したという。話者はそのあとに「日本の場合はどうかな?」と質問をしたが、オーディエンスはすでに通訳から日本の例を聞いていたため、あまり考えずに答えることができた。本来ならば、話者はオーディエンスに考えてもらう時間をつくりたかったはずだが、手話通訳者の機転が、かえってその機会を奪ってしまうかたちとなった。こうした対応に正解はなく、難しい例と言える。  そして、「手話表現者の場合はある程度、演技など自分の色を出すことができますが、手話通訳の場合は話者を尊重しなければいけない。超えてはいけないラインがあるんですね。そこに、手話通訳と手話表現者の違いがあると思います」と続けた。 [小見出し] 現場と手話通訳者をつなぐコーディネーターの役割  聾者のイベント参加や作品鑑賞を楽しむための環境整備が進み、聾者自身が作品の手話演者・監修などを担う機会も増えている昨今。それらの活動に並走する手話通訳者のニーズも多岐にわたる。これから手話通訳による情報保障を実践しようとする芸術文化事業担当者などは、どのように手話通訳者とコンタクトを取ればいいのだろうか。その方法とポイントを、飯泉さんは次のように挙げた。  まずは依頼先。都道府県単位で設置されている公的派遣の窓口に登録通訳者の紹介・斡旋や相談をするとよい。またエージェントを活用するほか、協働するろう当事者による指名や通訳者同士による推薦も、習熟した手話通訳者を選出する手立てとなる。  そして、必要人数について。今回のセミナーは、二人の手話通訳者が配置されている。しかし、それは「(聴者と聾者の)二人が登壇するから」ではない。長時間のプログラムの場合は、手話通訳者の負担軽減と精度維持のため、複数人の派遣が必須だ。  映像や画像、音声収録を行う際にも、注意すべきことがある。手話通訳は、一回性の同時通訳である場合が多い。許可なく動画や写真を撮影し、ウェブサイトやSNSで公開することは控えるのがルールだ。  さらに、より質の高い手話通訳を行う上では、事前に関連資料を提供することも重要だ。イベントの場合は、当日のスケジュールはもちろん、登壇者の選出意図や活動背景、テーマにまつわる資料などが通訳準備の大きな参考となる。登壇者がスライドを使用する場合、それも共有しておく必要がある。  このほかにも、通訳現場における照明や音響などの環境整備、今回活用されたUDトークのような文字情報の提供有無など、必要な配慮や準備はさまざまある。こうした点から認識させられるのは、手話通訳者を派遣するにも、経験と知識による采配が求められるということ。「だからこそ〝手話通訳コーディネーター〞を活用してほしいんです」と飯泉さんは語る。  手話通訳コーディネーターとは何かを一口に語れば、現場に応じて手話通訳者を選択・依頼し、関係者と円滑なコミュニケーションを調整する存在と言えるかもしれない。那須さんは、自身の体感も込めて、その役割を「折衝役」と言い表す。「通訳の内容や現場環境、手話通訳者の経験値や質、ろう当事者の話者との相性……そうした機微を織り込んで適任者を探すこと。そして、手話通訳者の要望や意見を、主催者や会場オペレーター、ろう当事者の話者とすり合わせて調整すること。手話通訳コーディネーターは、適材適所の人員配置とデマンドコントロール(あらゆる課題へ、臨機応変に対処すること)ができる人なんです」 最後に会場へ伝えられたのは、「情報保障とは、『わたしはここにいていいんだ』と、誰もが安心して感じられる場をつくるための最初の一歩」という二人の想い。手話通訳の意義と、その背後にある緻密な仕事を実感する時間となった。 [セミナー3のページ終了] [234ページ、テーブルトークのページ開始] [タイトル] 動画における情報保障 芸術文化に触れるコンテンツをすべての人に届けるために [リード文開始] 会議やイベントの模様を記録し、振り返ることのできるアーカイブ動画。 「だれもが文化でつながる国際会議2024」のアーカイブ動画制作に携わった二瓶剛さん と平塚千穂子さんが、動画視聴にまつわる情報保障の取り組みについて語った。 [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 二瓶剛(読み:にへい ごう) ディレクター 映像ディレクター、プロデューサー、構成作家、編集者。ドキュメンタリー、美術番組など文化芸術にかかわる多様な映像制作に携わる。最新作はNHK総合「全身芸術家 横尾忠 則88歳」。2024年にアクセシビリティに注力した映像制作を行うため、「ONDO Lab」設立。 [写真:にへいごうの顔写真] 平塚千穂子(読み:ひらつか ちほこ) CINEMA Chupki TABATA 代表 早稲田大学教育学部教育学科卒業後、2001年に「City Lights」設立。視覚障害者の映画鑑賞環境づくりに取り組む。2016年にユニバーサルシアター「CINEMA Chupki TABATA」設立。著書に『夢のユニバーサルシアター』(読書工房、2019年)。 [写真:ひらつかちほこの顔写真] 二瓶さんは最初に、自身がディレクションを担った「だれもが文化でつながる国際会議2024」の手話通訳付きアーカイブ動画の制作手法について解説した。  このとき収録に臨んだのは、字幕を手話通訳する聾者の手話表現者と手話監修者、映像ディレクター、内容や用語の監修を担うアーツカウンシル東京担当者、手話表現者と制作陣の通訳を行う聴者の手話通訳者というチームだ。撮影時は手話表現者を囲むように制作陣を配置し、本番映像をイメージした字幕表示モニターと台本表示モニター、カメラの位置などを手話表現者が通訳を行いやすい位置に合わせるという工夫も凝らした。そうした現場を築き、チーム内で相談を重ねながら進行した撮影を振り返りながら、二瓶さんは「体制づくりに決まりはありません。動画の内容やコスト、制作期間を考慮し、手話表現者が安心して不便なく翻訳にあたれる環境を、コミュニケーションをとりながらつくっていくことが重要です」と話す。 [写真2枚:1枚目は字幕と手話通訳を付与した動画のキャプチャ。2枚目は収録時の様子。] 国際会議のアーカイブ動画では、聾者の登壇者が手話で話す場面もあった。しかし、視覚障害のある人は、手話や字幕を見ることができない。そこで協力を仰がれたのが、日頃から音声ガイドなどの映画鑑賞サポートを行う平塚さんだ。 ここで平塚さんは、映像に読み上げ音声を重ねるボイスオーバーという方法を取り入れた。映画ではアクションや表情などセリフ以外の情景描写を音声ガイドと して解説するが、国際会議の映像は視覚的な変化が少なく、何より重要なのは〝登壇者が何を話しているかがわかること〞だ。だからこそ、それぞれの人柄や雰囲気に合う声優が、発言内容を感情などのニュアンスも含めて表現することが適していると考えたという。  加えて、平塚さんは通常行われる音声ガイドのデモンストレーションとして、TURN LANDプログラムで制作された施設紹介動画の一部を、映像なし、映像なしの音声ガイド付き、映像ありの音声ガイド付きという3パターンで上映。視覚情報や解説の有無に よって、理解の仕方が変化することを参加者も体感した。平塚さんは締めくくりの言葉として、「さまざまな感性、身体、価値観があると知ることから、映像を大切に楽しむ環境が生まれる。そして、それを実現しようという想いが、誰もが一緒に生きられる社会を築 いていくのだと思います」と意思を示した。 [235ページ、テーブルトークのページ終了] [235ページ、下段、エキシビションのページ開始] [タイトル] アクセシビリティ整備に活用できるデバイス ロジャー 出展 フォナック補聴器(ソノヴァ・ジャパン) 騒音下や離れた距離での会話をサポートする補聴援助システム。送信機で集音した音声を 補聴器や人工内耳へ直接届け、背景雑音下の会話を補助。複数台の送信機への接続によ り、複数話者の声もクリアに聞くことができる。 [写真:出展者によるデバイス紹介の様子。] VUEVO(ビューボ) 出展 ピクシーダストテクノロジーズ 独自の高精度ワイヤレスマイクと話の方向・発言内容が把握しやすいインターフェースで、聴覚障害のある人と聴者の円滑なコミュニケーションを実現。リアルタイムで字幕・翻訳を表示するディスプレイも展開している。 [写真:出展者によるデバイス紹介の様子。] [エキシビションのページ終了] [237ページ、セミナー4のページ開始] [タイトル] 学習障害と支援教材 学びの多様な入り口 [リード文開始] 五感やそれを介した認知、日常生活のなかの小さな行動から、好き嫌いの判断まで、異なる特性をもつこどもたち。かれらにとって、学びを支える環境や教材の存在は欠かせない。こどもたちの居場所づくりを自身のスタジオで行う写真家の加藤甫さんと、教育現場における書体のあり方を探るデザイナーの高田裕美さん。その対話から、現場でこどもたちと向き合う際に必要な視点を探った。 [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 高田裕美(読み:たかた ゆみ) 書体デザイナー 「UDデジタル教科書体」「BIZ UD」などユニバーサルデザイン書体の開発を担当。ロービジョン(弱視)研究者や現場の教師と連携し視覚に特性のあるこどもの読みやすさを追求。現在は、UD書体の普及をはじめ、講演や執筆など幅広く活動。 [写真:たかたゆみの顔写真] 加藤甫(読み:かとう はじめ) 写真家、Studio oowa(読み:すたじおおーわ) 主宰 記録・ドキュメント・アーカイブの考え方をベースに、アーティストや企業・福祉施設などと協働。2022年には、横浜市に写真スタジオ「Studio oowa」を開設し地域のこどもや保護者、特別支援学校の先生が集う“支援の周りの居場所”づくりに取り組む。 [写真:かとうはじめの顔写真] [小見出し] こどもの「わからない」を見る  写真家の加藤さんが、障害のある人やアーティストが協働するプロジェクトにつくり手としてかかわるようになったのは、ダウン症の長男の誕生がきっかけだったという。現在ライフワークとして取り組んでいる、知的障害のあるこどもたちやその家族の居場所づくりを行う「Studio oowa」の活動も、その延長線上にある。「うちは支援をする場所ではなく、支援の〝周り〞にある場所なんです」と、加藤さんはスタジオの役割を表現する。  その言葉の通り、スタジオでは特別支援学校の教師や地域の家族など、支援にかかわる人たちが集まり、〝特別支援教材〞を手づくりする会がひらかれている。特別支援教材とは、こどもたち一人ひとりの発達特性に合わせて用いられる学習教材のこと。その多様さゆえ、多くの教材はホームセンターや100円ショップの材料、既存の玩具などを活用し、教員の手でつくられている。「親にとっても、教材を介すことで、こどもが『どこがわからなくなっているのか』『なぜつまずいているのか』が見えてくるんです。問題行動とされがちな行動の理由も、少しずつ理解できるようになってきます」と加藤さんは語る。  支援教材づくりでは、市販の知育玩具のように、さまざまな機能を盛り込みたくなる。しかし実は、シンプルであることが重要だという。「機能を入れすぎると、〝攻略法〞を覚えるだけになってしまって、学んでほしい概念の理解にはつながらないんです」と加藤さん。押したら動き、離せば止まる。ただそれだけの教材でも、行動と結果の関係を理解するための大切な手がかりになる。 [写真:特別支援教材「ゴルフボール入れ」。手の平いっぱいの大きさ、重みのあるボールを、高さの異なる透明の筒へ「ゴトッ」と落とす感覚を味わう装置。筒にボールを落とし入れる快感をその場にいる人と共有し、ある種の協働関係を生み出す。そのほかの教材については、Studio oowaのnoteを参照https://note.com/studio_oowa/n/n52e04d257851] [小見出し] 書体が学びを左右する ̶UDデジタル教科書体の誕生  一方、高田さんが取り組んでいるのは、視覚障害や識字に困難を抱えたこどもたちの学習を支えるユニバーサルデザインフォントの開発だ。学習の現場では、筆をもとにした楷書の教科書体、プリントに印刷されたゴシック体、教員の手書きの文字など、さまざまな書体が混在している。 「弱視の子は細い線が見えず、黒みのたまった太い部分に視線がフォーカスしてしまい、線のつながりがわからなくなるんです」と高田さんは説明する。さらに、視覚過敏のこどもにとっては、線の強弱や鋭いはね・はらいが〝突き刺さって見える〞など、感覚への負担になることもあるという。  手書き文字と印刷文字の形状の違いも、特性の有無にかかわらず、学習初期の混乱を招いてきた。もともとUDフォントは、駅や電車などの公共空間で、お年寄りや弱視の人を想定して開発されたもの。そこから学習用書体の開発へとつながる転機となったのが、ロービジョン研究者である中野泰志さんとの出会いだった。「開発に行き詰まって、中野先生に意見を伺いに行ったんです。そのときに〝高田さん、ロービジョンの人を思ってつくってくれるのはありがたいけれど、そもそも当事者の意見を聞いていますか?〞と言われて、ハッとしました。クライアントの声しか聞いていなかったと気づかされたんです」  中野さんの紹介で訪れた盲学校では、弱視のこどもたちが、先生の手づくりした教材を使い、文字に顔を近づけて学ぶ姿があった。その光景が、書体開発の第一歩になったという。そこから、現場のこどもたち、教員、保護者の声を丁寧に反映しながら、線の強弱を抑え、学習指導要領の字体に沿った「UDデジタル教科書体」や「UD学参丸ゴシック」が誕生した。 [写真:UDデジタル教科書体の特徴(高田さんのプレゼンテーション資料より)] UDデジタル教科書体 https://www.morisawa.co.jp/topic/upg201802/ UD学参丸ゴシック https://www.morisawa.co.jp/topic/udgakusanrgo/ [小見出し] 読み書きと多様な特性  加藤さんは、高田さんの取り組みを受けて、「文字を書くことや読むことって、かなり複合的な機能を使って行われているんですよね」と、長男の姿を思い起こしながら話す。ダウン症の加藤さんのこどもの場合、言葉を「モーラ(拍)」で記憶する過程でつまずき、  「トマト」が「アト」や「マト」になることもある。さらに、手先の弱さから、線を引くこと自体が難しい場合も少なくない。 「同じ〝読めない〞〝書けない〞でも背景はまったく違います。どこでつまずいているかによって、学び方や教材を変える必要があって、そこの見極めが難しいんですよね」と高田さんも応じる。  ディスレクシアのこどもは、「見えているのに音に変換できない」という特性をもつため、文字が密集していると読みにくい。同じこどもでも、「文字を覚える段階」「問題文を読む段階」など、学習フェーズによって適した書体は異なる。覚える段階では筆順に忠実なUDデジタル教科書体、読む段階では、文章で示した際に大きく表示できるUD学参丸ゴシックが合う場合もあるという。  こどもたちの困りごとに向き合って生まれた教材や書体は、学びの選択肢を増やし、学びをあきらめないための重要な取り組みなのだ。 [小見出し] 学びの多様性を支える、柔軟な支援のあり方  質疑応答では、「施設のアクセシビリティを高めるため、まずは来館者の声に耳を傾けたいが、どこからヒアリングをはじめていいかわからない」という悩みが寄せられた。  高田さんは「何をつくるにせよ、やって無駄なことはないと思います。今日は収穫がなかったなと感じても、それがあとからつながることもある。人に聞いて試して、わかることもある。フォントづくりも、そうした積み重ねでした」と答える。加藤さんも「支援の方法に完成形や正解はないんですよね。だからこそ、問題があれば変える、対応する。その柔軟さがあるだけで、付き添う側としてはすごくありがたいんです」と続けた。ヒアリングによって集まった声と、それに応答する実践が重なることで、より柔軟で豊かな支援の場が育まれていくのではないだろうか。  二人の対話から浮かび上がったのは、「こどもの感じ方に寄り添い、多様な支援の選択肢をつくる」という共通の姿勢。Studio oowaでの特別支援教材づくりと、UDフォント開発という異なるアプローチを通じて、二人はこどもの「わかる」を支える環境づくりの重要性を語った。  学びをめぐる課題は決して小さくない。しかし、目の前のこどもの声に耳を澄まし、環境や道具を工夫し続けることで、その子にとっての「学び」はひらけていくのではないだろうか。 [写真:登壇者2人が話している様子。] [セミナー4のページ終了] [243ページ ワークショップのページ開始][タイトル] 伝わるフォントと文字組を知る 講師 高田裕美(書体デザイナー) [写真:ワークショップの様子] UDフォントを活用し文字組を工夫することで、視覚障害のある人や、識字に困難を抱える人たちの文章読解は円滑になる可能性がある。この実習では、前半にUDフォントの開発経緯からその思想を学び、後半はデザイン専用のソフトだけでなくテキスト編集ソフトなどを用いることを前提に、講師が手がけたチラシを参考にしながら文字組のポイントを確認。「ディスレクシアのこどもは文字サイズに対して2 倍かそれ以上の行間を好むことが多い」といった実体験から導き出された知識も共有された。 文字組・レイアウトのポイント 1 テキストボックス、画像や図版の位置を、版面に合わせるようにし、凸凹させない 2 読みやすさを担保する場合、書体はなるべく加工せずに使う 3 色数・書体数はなるべく絞り、読み手が、その違いの意味を迷わないようにする [ワークショップのページ終了] [244ページ、セミナー5のページ開始] [タイトル] カームダウンスペースをつくる 感覚に寄り添う空間 [リード文開始] 感覚過敏のある人が安心して過ごすことのできる環境づくりを行う「センサリーフレン ドリー」の取り組みが、国内外で広がっている。当事者の視点をもつ綿貫愛子さんと、建築計画を専門とする佐藤慎也さんは、自由学園みょうにちかんでのカームダウンスペースの設置を実践。その過程を振り返りながら、手応えと展望を語り合った。 [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 綿貫愛子(読み:わたぬき あいこ) 東京都自閉症協会役員 大学時代に自閉スペクトラム症など発達障害があることがわかる。現在は教育や福祉の現場で、発達障害のある人々が自分らしく生きることを支援し啓発する活動を行う。東京国立博物館のセンサリーマップ制作にも協力した。 [写真:わたぬきあいこの顔写真] 佐藤慎也(読み:さとう しんや) 日本大学理工学部建築学科 教授、八戸市美術館 館長 専門は芸術文化施設(美術館、劇場・ホール)の建築計画・設計。そのほかアートプロジェクトの構造設計、ツアー型作品の制作協力、まちなか演劇作品のドラマトゥルクなど、建築にとどまらず美術、演劇作品制作にも参加。 [写真:さとうしんやの顔写真] [小見出し] 誰もが安心して暮らせる社会をめざして  生活環境には、光や音、匂い、触感といった感覚刺激がある。多くの人はそれらを自然に受け流せるが、なかには苦痛を覚える人もいる。照明の種類や明るさによって頭痛が起こる、苦手な物音に疲労してしまう̶そうした、身のまわりの刺激へ過度に反応してしまう状態が「感覚過敏」だ。これは自閉スペクトラム症などの発達障害のある人によく見られ、反応の出方には個人差がある。また、同じ環境下でも、その時々の体調によって過敏の強度は変化するという。 [資料:当日のスライド資料より、2001年にWHOが採択した国際生活機能分類 (ICF=International Classification of Functioning, Disability and Health)の図説。 綿貫さんは「個人が永続的に障害による状況をもっているものではなく、環境との相互作用のなかで状況が変化しうる」と話した。]  発達障害の当事者で、感覚過敏のある綿貫さんは、それが起こる背景をこう語る。 「感覚過敏は、脳の感覚処理の特性や、身体特性によって生じるもので、自分の意思や努力でコントロールできるものではないんです」。普段からカラーレンズやノイズキャンセリングイヤホンなどを持ち歩き、個人で感覚刺激を遮断する工夫をしているが、生活全般におよぶ影響すべてに対処するのは難しい。そうした状況に着目して生まれた「センサリーフレンドリー」は、周囲の理解と環境づくりから、当事者の負担軽減を図るアプローチだ。  文化施設において、たとえばどんな取り組みがあるかというと、一つには照明や音を抑え、一時的に休むことのできる「カームダウンスペース」の設置がある。また、施設内の刺激を受ける場所を地図で示す「センサリーマップ」の提供、カラーレンズや耳栓、フィジェットトイ(不安や緊張を和らげ、集中を助ける玩具)など「センサリーキット」と呼ばれるアイテムを貸し出すサービスもある。  綿貫さんはこれらの意義を次のように話した。「センサリーフレンドリーは、感覚過敏のある人のための〝特別支援〞ではないんです。こどもや高齢者にも効果がありますし、疾患や健康状態によって、感覚に難しさが現れる経験はどんな人にも起こり得る。感覚の多様性を理解して尊重し、誰もが安心して参加できる社会をデザインしていくことが、社会の包摂性を高めることにつながるのではないかと考えています」 [小見出し] カームダウンスペースができるまで  今回のオータムセッションに際し、佐藤さんとその教え子である日本大学理工学部建築学科の学生チームは、綿貫さんの協力を得て自由学園みょうにちかんにカームダウンスペースをつくる実践に臨んだ。しかし、センサリーフレンドリーを実現するには、場の整備だけではなく、センサリーマップやセンサリーキットの活用もあわせて、アクセシブルな環境を構想する必要があると考えたという。  そこでまず着手したのは、センサリーキットの分析。既存アイテムの調査を通じて見えてきたのは、アイテムの特性がおおむね「刺激を遮断するもの」「眺めて落ち着くもの」「触って落ち着くもの」の三つに分類できるということだ。また、近年は美術館などの文化施設で、アイテムを入れて持ち運べるセンサリーバッグの貸し出しが導入されている。これらを着想源に、キットのなかから代表的なアイテムを選定し、独自のセンサリーバッグを準備。会期中はその貸し出しも行うことにした。  次に取り組んだのは、自由学園みょうにちかんにおけるセンサリーマップの作成だ。ここでは綿貫さんの視点から当事者による質的調査(定性的評価)を行うとともに、建築音響の研究者である日本大学理工学部建築学科教授の橋本修さんにも協力を仰ぎ、光と音の環境計測(定量的評価)を実施。その二つの評価をもとにマップを試作し、来場者が事前に確認できるよう、オータムセッションのウェブサイトにも掲載した。  そして、カームダウンスペースづくりへ。この過程では、最初にさまざまな施設に導入されているカームダウンスペースの構造を調査した。しかし、ここで壁が立ちはだかった。佐藤さんは「一口に〝刺激〞と言っても、人によって受け止め方は異なる。なかなか一つの正解を導き出すのが難しいなと思ったんです」と話す。そこで、空間の囲み方を可変できる既成のパーティションを用い、刺激から距離をとるために望ましい配置を検証。さらに光を遮断する布、音を抑える吸音材を取り付けることで空間をつくり上げた。 [写真:さとうしんやが話している様子。]  佐藤さんは、実験的な試みから得られた所感をこのように語った。「使う人が自分にあわせてカスタマイズできる要素が、これからのカームダウンスペースづくりにあるといいのかなと思いました。また、もし建築内に常設的な小部屋をつくるとなれば、消防法など防災面にも考慮しなければなりません。この実践を通し、そうした課題が新たに見 えてきました」 [資料:完成したセンサリーマップ] [小見出し] 感覚の違いから、社会を思い描く  それから、綿貫さんと佐藤さんは、カームダウンスペースをつくる過程を振り返り、意見を交わした。  もともとセンサリーキットには、どのアイテムを組み合わせる、どれを必ず選択するといったルールはない。今回も任意で数点を選びセンサリーバッグとしたが、綿貫さんは「人によってリラックスにつながる感覚刺激は異なるので、本人やご家族に選んでもらうという渡し方もいいのかなと思います」と話した。  また、センサリーマップについては、佐藤さんがこう語った。「今日のように人が集まって、誰かがマイクで喋るようなイベントを見越したマップだったら、本来はその状態で環境計測をしないといけないんですね。でも、実際は来場者がいない、閉館後の静かな状態での計測でした。いつを想定したマップなのかという点が悩ましかった」。空間がどれほど音を反響・吸収するかは、建築物が物理的にもつ性質だけでなく、人が加わった状態によっても大きく変わる。どのような基準で環境評価をしていくのかも今後の検討におけるポイントとなるだろう。  そして、利用者にとって使いやすいものとするためには、簡潔な情報整理が欠かせない。綿貫さんは、マップに記すアイコンやゾーン分けが複雑化しないよう、共通項を欄外にまとめる、詳細な補足をコラムとして掲載するなどのアイデアを挙げるとともに、「事前に休む場所や避けるべき場所の見当がつけられると、自分の状態に応じて対策をとることができ、アクセシビリティは向上できるんですね」とマップ活用の 意義を示した。  カームダウンスペースづくりでは、資材の化学的な強い匂いや、左右非対称に吸音材を設置することによる音の偏りにより不快感が生じるなど、試作して初めて気づく着眼点もあった。佐藤さんは「資材選びでも綿貫さんと協議を重ねましたね。また、さきほどお話ししたカスタマイズという視点で言うと、吸音材や布をマジックテープにして、使う人が貼り替えられるようにするなども、考える余地がまだまだありそうだなと思っています」と語る。綿貫さんも、「枕の高さを合わせるようなものですよね」と表現しながら、配慮の柔軟性に同意した。 [写真2枚:佐藤さんと学生チームが大学の研究室に仮設置したカームダウンスペース。仕切りによって広さの異なる二つのエリアを設け、利用者が居たい方を選べるように工夫した。右の写真は上部を布で覆い、照度を落としている。]  最後に綿貫さんは、会場のみょうにちかん食堂の空間について、「建築的に素敵だなと思ったのですが、実はわたしには、音が四方に拡散して聞き取りにくい環境だったんです」と打ち明けた。眺めてみると、天井や壁面には複雑で躍動的な段差がある。みょうにちかん職員の方から「リズミカルな空間になること」が意図された場だったと聞いた綿貫さんは、刺激に対し「自身なりのこの場の感じ取り方だったんだな」と腑に落ちたと話す。そして、このように続けた。「感じ方の違いを話題にすると、他者や社会を考えるきっかけにもなります。みなさんも日常のなかで、感じたことを身近な方と話してみていただけたらうれしいなと思います」  センサリーフレンドリーな空間をつくる明確なガイドラインはまだない。一人ひとりの感じ方を共有し、互いが居やすい環境を模索する試行錯誤は、ますます重要になっていくはずだ。 [写真:セミナー5が行われている様子。] [セミナー5のページ終了] [252ページ エキシビションのページ開始] [タイトル] カームダウンスペースの試み 自由学園みょうにちかんへカームダウンスペースを設置する構想と制作過程、環境計測の定性・定量評価など研究リサーチ結果をあわせて展示。施設への恒久設置ではない、空間や感覚特性に応じたカームダウンスペースの多様なあり方を検証した。また、会場で貸し出しを行ったセンサリーキットも紹介した。 制作 日本大学 理工学部建築学科 佐藤慎也研究室 [図1~図3:カームダウンスペースにおけるパーティションの設置案を示す平面図。] カームダウンスペースづくりの実践では、パーティションの組み合わせによって複数の設置パターンを検証した。図1は今回試作した空間の俯瞰図。吸音材や屋根面の布を付与することで刺激を遮断した。また、図2は車椅子での通行や回転を想定し、ゆとりのあるスペースを確保したパターン。図3は入り口をL字にすることで外部の視線を遮り、距離感を担保した空間になっている。 [図4:「食堂(喧噪音あり)」という見出しの棒グラフと表。提供:日本大学理工学部建築学科 橋本研究室] 環境計測で食堂の音を測定したグラフ(図4)。扉のない空間で周辺の音が入りやすいため、騒音レベルがやや高いことがわかった。 [エキシビションのページ終了] [253ページ、セミナー6のページ開始] [タイトル] 日常をアートでデザインする 自らの場所、生き方をつくる営み [リード文開始] 東村山市を拠点に、自治体や企業、市民と連携しながらメディア制作とまちづくりに取り組んできたハチコク社。地域に根差した文化事業を展開・支援する佐藤李青さんを聞き手に、日常を起点としたクリエイティブな実践が、どのように人やまちとの関係性を編み 直し、自らの場所や生き方をつくっていくのかについて語り合った。 [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 仲幸蔵(読み:なか こうぞう) 編集者、ディレクター 旅行雑誌『るるぶ』の記者として活動し、2013年に『るるぶ特別編集 東村山』を企画。2017年に「ハチコク社」を設立し、地域に根ざした編集・デザイン業務を展開。 [写真:なかこうぞうの顔写真] 福田忍(読み:ふくだ しのぶ) 12歳で東村山市に移住。創形美術学校卒業後、伊藤桂司に師事しイラストレーター/グラフィックデザイナーとして活動。ハチコク社のデザイナーに。 [写真:ふくだしのぶの顔写真] 佐藤李青(読み:さとう りせい) アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー 多様な主体の連携により、地域での文化事業を実践する「東京アートポイント計画」や「Tokyo Art Research Lab」「東京都・区市町村連携事業」などを担当。 [写真:さとうりせいの顔写真] [小見出し] まちと人とのかかわりを編む  自らの暮らす場所、働く場所でより豊かに生きていくために、アートやデザインの視点、プロセスを、いかに地域へひらいていけるのか。東村山市を拠点に、編集とデザインで地域を盛り上げてきた「ハチコク社」の実践には、そのヒントが散りばめられている。  東京都多摩エリアに位置する東村山市は、都心へのアクセスもよい自然豊かな郊外のまちだ。この地に生まれ育った仲さんは、かつて旅行雑誌『るるぶ』の取材記者として全国を駆け回り、地元を平凡なベッドタウンと捉えていたという。しかしあるとき、同級生から「地域におもしろいお祭りの取り組みがある」と聞き、あらためて東村山を歩くなかで、まだ見ぬまちの表情に出会った。そして、そこに「いつかは地元のるるぶをつくりたい」と密かに抱き続けてきた想いも重なり、仲さんは『るるぶ特別編集 東村山』を企画。 商工会青年部に自らが飛び込み立ち上げた本誌は、5年間で5冊を刊行し、のべ1200人の市民が登場する類を見ない情報誌へと発展した。 [写真:『るるぶ特別編集 東村山』。「普通」のまちの小さな魅力が、誰かにとっての「旅」になる̶そんな可能性を探すべく2013年に刊行。「出る人もつくる人もオール東 村山」の、ハチコク社の原点と言える情報誌。発行:東村山市商工会、東村山市。 制作:株式会社JTBパブリッシング]  この頃に仲さんと出会い、同じく東村山を拠点とするクリエイターとして制作に伴走したデザイナーの福田さんは、当時をこう振り返る。「『るるぶ』が出ると、登場してくれた人自身が「載ったよ!」と、身の回りに広報活動をしてくれるんです。制作にかかわった実感を市民の方々も感じてくれて、みんながまちに興味をもってくれる。年々、関係性も広がっていきました」。しかし、地域に盛り上がりが生まれる一方で、仲さんと福田さんのなかには、自分たちがつくりたい雑誌の意匠のために「〝市民の姿〞をその人の生きた文脈と関係なく、素材として扱ってしまっているのではないか」という複雑な感覚も湧き起こった。  そこで、人々の想いや営みを届けるべく独自のメディアとしてつくり出したのが、冊子『むらのわ』だ。当初は、情報誌の要素にまちのストーリーを加えた構成ではじまったが、現在は東村山市がひらく地域ライター養成講座「東村山編集室」と連携し、参加メンバーとともに企画・制作を行っている。「地域への愛がある人たちなので、そのフレッシュな熱量を誌面に発揮してほしいと思ったんです。本当に、協働によって育っていった冊子ですね。いまも発行を目的とするよりも、つくる過程そのものを重視して、大事に取り組んでいます」と仲さんは語った。 [写真:『むらのわ』。東村山の「わ」をつなぐ冊子として2019年から発行。 「東村山編集室」のメンバーとともに、観光情報誌にとどまらない、まちや地域に暮らす人の魅力に焦点をあてたメディアづくりを行う。 発行:東村山市・東村山市商工会。企画制作:合同会社ハチコク社] [小見出し] 「ももとせ」に流れる時間  ハチコク社の活動は、紙媒体の編集・デザインにとどまらない。古民家を活用した文化複合施設「ももとせ」の運営も、その柱となっている。母屋と離れの築年数を合わせて100年。長く愛される場所になるよう名づけられたももとせには、ブックラウンジやコーヒースタンド、シェアキッチン、アトリエが備えられている。福田さんは「まちで誰かが何かをはじめようと思ったときに、好きなように挑戦できる場所として、この場をひらいています」と話す。  これまでにも、若い夫婦がコーヒースタンドで間借り営業を行ったり、地元の保育士たちが「いつかみんなで観たい」と思い続けてきた映画を自主上映したり。マルシェやミュージシャンのライブ、地域のクリーンアップやコミュニティガーデンづくりを行うイベントなども多く開催されてきた。「こういうことがやりたい」という相談が市民から持ち込まれ、にぎわいが生まれていくのだ。  また、ももとせには、プロジェクトをともにすることを通して縁ができた行政職員も訪れるという。仲さんは「休日に、こどもを連れてきてくれるんですよ。みなさん、お父さんお母さんの顔をしていて。ここは肩書きという名の上着を自然と脱げる、不思議な場所なんです。仕事と暮らしが溶け合うような時間が流れているんですね」と語る。  ここで佐藤さんは、「場をひらいたことで、まちの雰囲気や人とのつながり、あるいは仕事の仕方などにおいて、〝これは変わったな〞と実感したことはありますか?」と投げかけた。これに対する福田さんの応答は、次のような体感だ。「最初は『何ページの冊子をつくりたい』というような、制作したいものが具体的に決まっている依頼が多かったんです。でもだんだんと、『こういう予算でこういうことがしたいんだけど、どうしたらいい?』『一緒に考えてくれませんか?』という相談に変化してきました」。ももとせに流れるゆるやかな時間が、地域を考える個対個の関係性の密度を育んできたことがうかがえる。佐藤さんは「〝場〞があることで対話が生まれ、そこに集う人それぞれの考えや取り組みも含めた〝人〞として出会える。それが、まちや人とのかかわりを築く上で重要なんだと思いました」と加えた。 [写真4枚。1枚目:コミュニティーラウンジ「OFF/DO BOOK LOUNGE」。 2枚目:コーヒースタンド「OFF/DO COFFEE」。 3枚目:大うたのわえんがわLIVEプロジェクト(アーツカウンシル東京 地域芸術文化活動応援助成採択事業)。 4枚目:地元の保育士による自主上映会『夢見る校長先生』] [小見出し] 「自分たちらしく」まちの課題を解決する  近年ハチコク社は、まちづくりへの取り組みを実に多様に派生させている。ユニークな例には、東村山市のごみ収集委託事業を担う、株式会社東光の創立 60周年記念企画として手がけたごみ出しの啓蒙絵本『シューシューとパッカー』がある。制作は東村山在住の絵本作家・すぎはらけいたろうさんに依頼。その過程ですぎはらさんから受けた、「絵本にするだけでは、物語が本の世界に閉じてしまうのではないか」という言葉をもとに、キャラクター化したごみ収集車が実際にまちを走るというプロジェクトへ展開させた。 [写真2枚。1枚目:絵本『シューシューとパッカー』。 2枚目:キャラクター化したごみ収集車のお披露目]  また、公民連携の取り組みも進行中だ。連続立体交差事業とあわせて東村山駅周辺を一体的で調和のとれた居心地のよい空間とするためのエリアデザイン指針策定業務において、市民意見の集約や、かかわりしろを育む仕組みづくり、まちづくりプロセスの発信を担当している。ほかにも、東村山市と西武鉄道株式会社、ハチコク社が官・民・民で取り組む「むらの芽プロジェクト」は、地域に暮らす人や特徴的な活動などに焦点を当て、東村山の新たな魅力創出をめざすもの。今後ローカルメディアも立ち上げ、市のシティプロモーションと連動させながら、市民主導の発信に注力していくという。いずれにも共通しているのは、正解を外から持ち込むのではなく、地域の声や関係性のなかから「自分たちらしいかたち」を探る姿勢だ。 [写真2枚。1枚目:東村山駅東口駅前広場再整備に向けた実証実験。2枚目:哲学者・永井玲衣さんを招き開催した、「まちに関わるとは」をテーマにした哲学対話]  子育てを通して、こどもの原風景となるまちに関心をもつようになったという福田さんは、その背景にある想いをこう語る。「日本が成長から成熟へと変化していくいま、どうやって自分たちらしく生き残っていくか、課題は山ほどあります。でも、たとえば公共施設の統廃合を目前にしたとき、それをネガティブに捉えるのではなく、既存の概念を超えた新しい空間としてどうおもしろくできるかを考えると、ワクワクします。そこにはクリエイティブを発揮できる可能性があふれている。地域で協力し合うことで、魅力的な環境をつくっていけると思うんです」  また仲さんも、「日常をアートでデザインする」というテーマに立ち返り、次のように語った。「デザインがみんなの動ける道をつくることだったとしたら、アートは日常で気づかないことを提示すること。その両方を、僕たちはメディアづくりやももとせ、まちづくりを通して実践しているのかもしれません」  そうした視点がまちや人へ共有され、いきいきとしたコミュニティが育まれていく。自分らしくまちとかかわるためのヒントが、参加者一人ひとりに手渡される対話となった。 [セミナー6のページ終了] [260ページ、セミナー7のページ開始] [タイトル] 文化事業と評価 価値を外へ引き出す、「評価」のあり方 [リード文開始] 事業やプロジェクトを続けるなかで、「評価」をどう捉えるかは重要な課題の一つ。編集者としてアートプロジェクトや文化事業のアーカイブ制作を手がける渡辺龍彦さんと、中間支援組織の現場から多様な事業や活動の「評価」に伴走してきた清水潤子さんの対話から、報告書に記載する「評価」だけではないプロジェクトの現場にフィードバック可能な多様な「評価」のあり方をひもとく。 [リード文終了] [登壇者プロフィール開始] 清水潤子(読み:しみず じゅんこ) 武蔵野大学人間科学部社会福祉学科講師 ケース・ウエスタン・リザーブ大学にてソーシャルワーク修士、非営利組織経営管理修士を取得。現在はセクターを超えた多様な主体による社会価値創造や課題解決のための協働事業の評価伴走支援や研究を行っている。 [写真:しみずじゅんこの顔写真] 渡辺龍彦(読み:わたなべ たつひこ) 編集者 2010年にLITALICOへ入社、障害者福祉施設の運営責任者や子育てメディアの編集長を務める。2019年独立後、東京藝術大学大学院先端芸術表現専攻進学。2024年より東京藝術大学芸術未来研究場のインパクト評価担当マネージャーを務める。 [写真:わたなべたつひこの顔写真] [小見出し] 「評価」のイメージを解きほぐす  事業やプロジェクトを推進し、その価値を社会へつなげていく上で欠かせない「評価」。一口に評価と言っても、助成を受けるための実施報告や次年度の方 向性を定めるための振り返りなど、その役割は多岐にわたる。また、売り上げや来場者数のように数値で測ることができる実績もある一方で、外部機関による客観的な視点を要する場合もあり、その測り方や表し方はさまざまだ。文化事業の意義や成果は、必ずしも数値化できるものばかりではない。では、数字にできない事柄をどのように評価し、その価値をどう届けていけばよいだろうか。  清水さんは「評価の肝は、価値判断をすること。意味や意義があったか、成果や変化があったかを、定性的・定量的なデータの両面から考えることが評価なんです」と語る。さらに、評価を表す英単語「Evaluation」の語源には、〝価値を外へ引き出す〞という意味があると続けた。つまり、プロジェクトに内在する「価値」を誰もが見えるかたちにする手法の一つが「評価」であると言える。 [小見出し] 文化事業における価値判断の軸づくり  こうした「評価」に関心を寄せ、探究してきた清水さんの背景には、現場で感じてきた評価に対するモヤモヤと煮え切らない部分があるという。「制度を設けると、そこに位置づけることができない人がどうしても生じてしまう。〝外〞というか〝狭間〞ができてしまうんですね。そういう人や、その支援コミュニティの人たちと一緒につくる、あるいはそういう活動をサポートすることができたらいいんじゃないか。その想いが、わたしの研究・実践のモチベーションにつながっています」  こうした経験を踏まえ、提起したいと語ったのが「内発的な評価によって自らの価値判断軸をもつこと」だ。たとえば、資金提供者の求める基準を満たすためだけに行う受動的な評価は、「外から評価されている」という息苦しさを生みやすい。しかし、見方や手法を変え、事業担当者や参加者、サービスを受ける人とともに評価を行えば、そのプロジェクトにおいて本当に果たしたいことや伝えたかったことが明確になる。評価を通して見えてきた意義や価値、改善点は、単なる報告にとどまらず、次の実践へとつながる学びとして内部に還元されていく。  誰のために、何のために評価を行うのか。まずその前提を問い直すことが、文化事業に有効な評価のあり方を見出す一歩となる。 [小見出し] 評価する人の立ち位置と役割を考える  同じく「評価」の視点をもって文化事業に伴走してきた渡辺さんは、自身がかかわってきた二つの実践から評価者の立ち位置や役割を問い直した。  一つ目は、聾者と聴者が遭遇する舞台作品『黙るな 動け 呼吸しろ』だ。 本プロジェクトでは、評価チームが第三者としてではなく、クリエーションチームの一員として参画した。内側からプロジェクトの制作に伴走し、参加者の気持ちの変化、体感などを初期・中期・事後のインタビューによって継続的に追いかけることで、興行成績だけではなく、プロセスのなかで生まれた価値を明らかにすることに注力したという。 [写真:『黙るな 動け 呼吸しろ』。美術家の日比野克彦が総合監修、演出家の牧原依里とダンサーの島地保武が演出を担う舞台作品。2025年秋に開催された世界陸上、デフリンピックの文化プログラムとして、2023年から聾者と聴者が協働しクリエーションを行った。https://duktokyoforward2025.jp/]  二つ目は、東京藝術大学と香川大学が協働で行う、科学とアートなど複数の文脈を交差させた、せとうち ART&SCIENCE「ぐんだらけ」での実践だ。このプロジェクトでは、評価を外部説明のためだけでなく、事業のあり方や方向性を組織内部で議論するための媒介装置として位置づけている。 [写真:ぐんだらけ。2024年度より、東かがわ市を舞台に始動した東京藝術大学と香川大学の連携によるまちづくりプロジェクト。歴史ある港町・引田に拠点「ぐんだらけ」を構え、アーティスト、研究者、学生、地域住民など多様な人々が交わり、それぞれの立場から主体的に地域とかかわる場を生み出している。https://setouchi.ac/project/gundarake/]  渡辺さんは、こうした場面での評価の役割について、次のように語った。「企画書や事業目的は文字として存在していても、それが物語として整理されていないことが少なくありません。芸術にかかわる人は『ひとまず手を動かしてみなきゃわからない』という姿勢に慣れていますが、そうした進め方に慣れていない組織文化のなかで仕事をする方もたくさんいます。そこで、事後評価としてかかわるだけではなく、プロジェクト進行中の〝セオリー評価(目的を達成するために適切な施策かを評価する)〞を通して、関係者がめざす価値と、そのための作戦を言葉にし、共有できる関係をつくろうとしています」 [小見出し] 事業にかかわるすべての人が、評価的思考をもつこと  事業やその関係者にとってよりよい評価のあり方を模索するなか、渡辺さんは「予算が少なく、専門家がいなくても実践できる評価の仕組みを探っていく必要性を感じている」と言う。「事業を推進していると、連絡調整や関係者への配慮に追われ、価値を問い直す時間を失いがちです。だからこそ、日々の企画会議や戦略会議のなかで、事業の価値について立ち止まって考える時間をつくることが大切。もっと身近な単位でいえば、朝礼や終礼、日報、週報などに評価の視点を少し溶け込ませて、事業を他者化して見てみる時間をもてるといいですね」  こうした取り組みは、特別な評価手法を導入することではなく、日常の業務のなかに「評価的思考」を組み込むことでも実現できる。  ここで清水さんは評価研究者の言葉を引用した。 組織やプログラムに関与する人のすべてが評価者である必要はないが、もしプログラムの計画や実践、評価に関わる全ての人が評価的思考を持ち得ていれば、そのプログラムや評価は成功裏に終わるだろう(Buckley et al. 2015) 「〝わたしたちが望む変化や価値を生むためにはこういうことが必要だ〞と、日々プログラムを考えていく行為は、結果として評価につながっていく、といったことが語られています。これは実は、特別な試みでもなんでもなく、文化事業を進めるなかで自然と行っていることの一つではないでしょうか」と問う清水さん。どう評価すればいいのかと身構えず、プロジェクトを振り返りながら自分たちの事業プロセスを見直すことは、評価的思考を取り入れるきっかけとなる。 [小見出し] 評価もアーカイブも、あとからはやってこない  補助金を得て実施された文化事業の報告書制作に数多く携わってきた渡辺さんは、事業計画の段階から「何を、どのように評価するのか」を議論しておくことの重要性を実感しているという。 「ちょうど12月頃になると『渡辺さん、1月から3月って忙しいですか?』と、報告書作成の相談を受けることが多いんです。でも、その時期には事業はほぼ終わっていて、誰かが撮っていた記録写真や、最後にまとめて書かれたテキストを、ガチャガチャっと組み合わせるしかない。でも、企画段階からどうアーカイブするかを考えていれば、まったく違うことができる。撮るべき写真も残すべき言葉も変わってくると思うんです」 評価やアーカイブをプロジェクトの活動と切り離して考えるのではなく、実践と並走させながら内在する価値を見つめ続けること。清水さんは、事業の内部にいながらも、客観的な視点でいま起きていることを記録し、その過程での気づきも含めて「ドキュメンタリーをつくるような手つき」で事業を評価していくことが大事だと語る。  その積み重ねこそが、評価の主体を現場へと引き戻し、文化事業をよりよいかたちで未来へとつないでいくのではないだろうか。 [セミナー7のページ終了] [266ページ、エキシビションのページ開始] [タイトル] 都立文化施設の社会共生の取り組み 異なる文化・感覚をもつ人たちがともにあるための実践 [リード文開始]  誰もが気軽に芸術文化にアクセスできる環境̶バリアフリーやユニバーサルデザインの実践は、すでに多くの施設で進められている。東京都歴史文化財団では2024年度、運営するすべての都立文化施設に「社会共生担当」を配備した。かれらが担うのは、立場や条件の異なる誰もが芸術文化に出会えるようにするための、幅広い取り組みである。  たとえば、美術館や博物館、劇場からの案内では、より多くの人に伝わるよう「やさしい日本語」や「触知図」の活用などが、アクセシビリティを高める実践の一例だ。ここでは、文化施設のアクセシビリティ向上に悩む人に向けて、東京都が提供するサポートの内容や、各文化施設で行っている具体的な実践、さらにそれらを学ぶために行われた実習の記録を紹介する。 [リード文終了] [小見出し] 芸術文化へのアクセシビリティカード 芸術文化におけるアクセシビリティを考えるきっかけをつくるカード。マニュアルやガイドブックとして完結するのではなく、自由に組み合わせながら、アクセシビリティ向上について考えたり、話したりするためのツールだ。イメージ・テキスト・アイコンを駆使した解説が、視野を広げてくれる。また、ステップ1からステップ3までと、「万が一の時の避難」という段階があり、異なる状況でどうあるべきか、考えをめぐらすことができる。 [写真:ステップ1のカードは、「動画による施設案内」「アクセシビリティ・デスク/スタッフ」「円滑なコミュニケーション」「紙やウェブサイトによる情報提供」など。都立文化施設が取り組むアクセシビリティ向上のための試行を知るツールとしても活用することができる。] [小見出し] 触る鑑賞 作品の複製や絵画の構図を理解するサポートツールなどを用いて、視覚に障害のある人の作品鑑賞の方法を広げることを目的とした取り組み。視覚に障害のある人が、音声ガイドなどの解説を聞くだけの受動的な鑑賞ではなく、あわせてツールを触りながら対話をすることで、能動的な鑑賞体験ができる。絵画や写真作品の線を凸凹で表現したり、半立体へと拡張したり、彫刻作品を手で触れられるよう整えることは、見えにくい人にも、そうでない人にも、作品のより深い理解を促すきっかけとなっている。 [写真:2025年5月に東京都美術館で開催された「ミロ展」における「障害のある方のための特別鑑賞会」では、作品を凹凸のある線や点で立体的に表した図版を用意し、鑑賞サポートを実施。アート・コミュニケータとの穏やかな対話を通した作品鑑賞が行われた。] [小見出し] 触る案内図 視覚に障害のある人や、見えにくさのある人が、美術館や劇場などの施設を安心して楽しめるよう、各館で「触知案内図」の導入が進んでいる。空間の情報を大きな文字や色分けされた図面、点字や凹凸のある線で示し、掲示・配布するこの取り組みは、建物だけではなく、企案内図があり、持ち運びやすさや広げたときの安定性、触り心地などにも工夫が凝らされている。 [写真:東京都庭園美術館の触知案内図では、建物の設備や情報を、墨字と点字、凹凸のある線で示している。加えて、色覚特性にも配慮したデザインに。また、Webサイトには、視覚障害者のための美術館までのルート案内も掲載。 撮影:大倉英揮(黒目写真館)] [小見出し] 東京芸術文化相談サポートセンター「アートノト」 東京都内で活動するアーティストやあらゆる芸術文化の担い手の活動を支援するためのプラットフォーム。弁護士や税理士といった専門家、外部の専門機関とも連携しながら、オンラインを中心に無料で総合的なサポートを実施。「相談窓口」「情報提供」「スクール」の3つの機能をもち、アクセシビリティなどの相談も受け付けている。 また、スクールではアクセシビリティ講座、社会保障・セルフケア講座など、創造環境の向上を目的とした講座も。 [写真:公式ウェブサイトでは、アクセシビリティに関する講座や記事も発信している。また、公式YouTubeでは「基礎知識:アクセシビリティを知る」「鑑賞サポート入門」といった入門者向けのアーカイブ動画を公開。 いずれも手話通訳・日本語字幕付き。https://artnoto.jp/] [269ページ、エキシビションのページのあいだに、ワークショップのページ] [タイトル] 触知図をつくる 講師 上野智義(欧文印刷 ドキュメント制作室 シニアチームリーダー) [写真:触知図を広げている様子] 触って知る図「触知図」は、施設案内図や防災マップ、マニュアルなど、さまざまな場面で活用されている。この実習では、触知図をつくるために必要な考え方や具体的な情報整理の方法について、実物に触れながら体感的に学んだ。制作の流れは、原稿と完成予想図となるラフを用意し、点訳者とともに制作、さらに障害のある人たちにも校正してもらい、完成原稿を印刷所へ入稿するのが一般的だ。利用者の立場を細やかに想像しながら、文章や図をつくることが何より重要となる。 制作時のポイント 1 色覚特性を考慮し、「触知図」の色にはカラーユニバーサルデザインの考え方を取り入れる 2 地図と同様に、図で表す情報とテキスト(点字)で伝える情報を分けて考える 3 「触知図」だけで完結させようとせず、会場スタッフのオペレーションで補う部分を設ける [ワークショップのページ終了] [270ページ、エキシビションのページ再開] [小見出し] 東京都つながり創生財団 多文化共生社会・共助社会づくりを通じて人と人とのつながりを生み出すことをめざす組織。近年の都内人口における外国人数の増加と多国籍化をふまえて事業を展開、その一つに「やさしい日本語」の普及・啓発がある。これは、簡単な文法や語彙を用いた、わかりやすい日本語のこと。日本において外国人が直面する三つの壁̶言葉・制度・心の壁を乗り越えるためのツールとして、また、こどもや高齢者、障害のある人など、多様なルーツや背景をもつ人とのコミュニケーションにも用いられている。 [写真:東京文化会館では、来場者に配布する「災害時の案内」にピクトグラムと組み合わせて、やさしい日本語を使用している。スタッフが携帯する避難誘導旗には、案内の紙面と同じ言葉・図が描かれ、緊急時にも情報が伝わりやすいよう工夫されている。] [小見出し] 東京都多文化共生ポータルサイト(TIPS) 本サイトでは、思いやりのコミュニケーションツールである「やさしい日本語」の活用事例を多数紹介している。美術館や劇場をはじめ、企業、放送局、病院、鉄道、劇団など、さまざまな分野において行っている大小さまざまな取り組みを集約。これからやさしい日本語を実装していく人にとっては、有益な事例が揃っている。また、多文化共生を掲げる同サイトには、外国人にとって役立つ情報と、受け入れる側にとって参考になるトピックが掲載されている。 [写真:ポータルサイトを運営する「東京都つながり創生財団」は、やさしい日本語の活用事例を集めた冊子も制作。オンライン上で、誰でもPDFを入手できる。] [URL:https://tabunka.tokyo-tsunagari.or.jp] [エキシビションのページ終了] [271ページ、ワークショップのページ開始] [タイトル] 「やさしい日本語」で話す 講師 戸嶋浩子、清水エド(ひらがなネット) [写真:ワークショップ参加者の様子] こどもや高齢者、外国人など、多様な人たちに向けたわかりやすさ、伝わりやすさを高める「やさしい日本語」の導入は、アクセシビリティの向上にもつながる。本実習では、「やさしい日本語」のポイントを学び、伝え方の練習を行った。グループワークのテー マは「災害」。たとえば、大きな地震が起こったとき、やさしい日本語を必要とする人に、どのように状況を伝えるべきか。正解は一つではないため、状況に応じながら相手を思いやり、一人ひとりに合わせて言葉を選ぶ必要性を学んだ。 話す時のポイント 1 伝えたいことを一度頭のなかで整理し、優先順位をつけてから、ゆっくり、文節を区切って話す 2 敬語や友人同士の言葉、オノマトペは聞き取りが難しいので、「です」「ます」を意識して話す 3 言葉だけで伝えようとせず、身振りを大きくするなど、積極的にジェスチャーを使う [ワークショップのページ終了] [カラー写真ページ(計8枚)開始] [1枚目:全面の写真。講堂を2階席から俯瞰する構図。セッションが行われており3人の登壇者が話している。] [2枚目:見開きの写真。講堂でクロージングセッションが行われている。登壇者の背にあるモニターは、左にこやまだとおるの作品「お父ちゃん弁当」の写真、右に手話通訳者の映像と字幕が表示されている。多くの参加者が着席し話を聴いている。] [3枚目:全面の写真。講堂内銀杏の間にアキイノマタの作品「彫刻のつくりかたYuzuⅣ」が展示されている。その向こう側にはスタッフとセッションを聞く参加者の後ろ姿がある。] [4枚目:中央下部に写真。薄く雲が広がる青空と様々な高さの住宅やビルなどを背景に自由学園みょうにちかんの外観正面とその前を横切る3人の人物。建物の前の庭には緑色の芝生が広がる。] [5枚目、6枚目:ページ上下に2枚配置されている。上の写真はワークショップの様子。講師が黄色の資料を手に持ちながらマイクで話している。下の写真は、建物の外から大教室としまを覗く構図。1人の男性が展示を見ている様子。] [7枚目:中央に写真。食堂でセミナーが行われている様子。写真の上半分以上を食堂の内観が占め、天井の高さが強調されている。天井付近には2つのひし形を組み合わせたような幾何学模様の大きな窓があり、側面の壁には縦長の細い窓がある。木製の幾何学的な装飾が施された大きな丸い照明が、空間を横切るように3つ並んでつるされている。] [8枚目:全面の写真。自由学園みょうにちかん東外廊下の柱の間に設置されたパネル。緑の地に、オレンジの下線付きの白文字で「Creative Well-being Tokyo Autumn Session on Open Access to Culture 2025『居場所とわたし』」と書いている。] [カラー写真ページ終了] [281ページ、「居場所とわたし」展示解説 開始] 「だれもが文化でつながるオータムセッション2025」で展示した4人のアーティストの作品を、社会学者・文化政策研究者の小泉元宏さんが解説した。 AKI INOMATA《彫刻のつくりかた》 〈他者〉の視座をかたちにする「翻訳の芸術」   AKI INOMATAの代表作の一つである《彫刻のつくりかた》は、ビーバーとの共作がベースとなっている。ビーバーの飼育場に木の角材を置き、かれらがもつ「木を食べたり、伸びた歯を削ったりする」という習性を利用して、彫刻のような「作品」を生み出してもらうという試みからはじまった。こうしてビーバーがかじった「作品」を原型に、タイや日本の彫刻家が約3倍のスケールで彫刻を制作する(3倍という比率は、ビーバーとINOMATAの体重比に由来する)。そこには彫刻した人間作者の解釈が加わった「第2」の作品が現れる。  さらに、第3のアプローチが―今回展示されているのが―ビーバーが齧った木を3Dスキャンし、そのデータをもとにCNCせっさくきで掘り上げた「作品」である。加えてINOMATAは、木材内部にカミキリムシが開けた穴を発見し、CTスキャンで解析して、かれらの視点をイメージしたCG映像作品もつくり上げた。ビーバー、人間、機械、そして虫たちの、同一なようで、少しずつ異なる「彫塑」。それらは社会における異なるアクターの関係性を示すかのようである。   INOMATAの作品は、これまで人間活動が地球に与える不可逆的な影響を問う「じんしんせい」概念や、人間中心主義を相対化するダナ・ハラウェイのサイボーグや伴侶種(伴侶動物)などに関する理論と関連づけて論じられてきた(たとえば金澤 2020, 岩崎 2020)。これらの視点の重要性を踏まえつつも、本稿では彼女の作品を、ブリュノ・ラトゥールが提唱するアクター・ネットワーク理論(ANT)の観点から捉え直したい。それは、主体/客体、人間/自然といった近代的二元論を超え、人間と非人間(モノ、概念、環境)が構成する動的な関係性の網の目として世界を記述する視座である。ラトゥールによれば、社会とは固定された構造や、一方が他方を生み出す因果律に基づく関係性によるものではない。社会、社会的領域、社会的結びつきといったものは存在せず、跡をたどることが可能な結びつきを生み出す媒介者間の翻訳活動が存在する、アクター間のネットワークである、と彼はいう(Latour 2005)。   INOMATAの実践は、この「翻訳の社会学」と呼ばれる視点と重なりつつも、とりわけ重要なのは、「わからない」各アクターの感覚を可視化することで、アクター間の違いや共有の可能性を実存的に想像するための情動を含んでいることである。ビーバーをはじめ、他者の「彫刻」作業の感情は本質的に不可知であり、機械に至ってはINOMATAが「もう彫刻と呼べるのかどうかわからなくなる」(AKI INOMATA 2024, 103)と述べるように、造形の意図は存在しないかもしれない。ここでANTが直面するのは、理念的には理解できても、結局のところ各アクターとのつながりを概念レベルでしか捉えられないという限界である。けれども各アクターの視座を造形化してみるとどうだろうか。そこには「他者」の情動を表現し、それを解すること=翻訳を試みようとする想像力が眼前に立ち上がる。それは、いわば「翻訳の芸術(art of translation)」と呼ぶのに相応しい、INOMATAのアートだからこそなしうる仕草だといえるだろう。  「彫刻の作者はビーバーや機械」とわたしたちが紹介を受けたとき、戸惑いを覚える感覚とともに内包されているのは、差異を確認しつつも他者との関係性を想像し直す、現代社会における共存の可能性の契機なのである。 [引用・参考文献] Latour, Bruno, 2005, Reassembling the Social: An Introductionto Actor-Network-Theory, Oxford, UK: Oxford University Press.(伊藤嘉高訳、『社会的なものを組み直す―アクターネットワーク理論入門』法政大学出版局) AKI INOMATA、2024年、「生きものと共につくるアート」桐光学園中学校・高等学校編、『高校生と考える人生の進路相談』左右社、96-107頁 岩崎秀雄、2020年、「生きとし生けるものたちとの共創への問いを巡って」美術出版社書籍編集部編、『AKI INOMATA: Significant Otherness生きものと私が出会うとき』美術出版社、148-149頁 金澤韻、2020年、「他者の視点で」美術出版社書籍編集部編、『AKI INOMATA:Significant Other生きものと私が出会うとき』美術出版社、18-23頁 こやまだとおる《お父ちゃん弁当》 「違い」を超えた共生のための技法  こやまだとおるの《お父ちゃん弁当》は、プロジェクト開始当初、幼稚園児だった息子をめぐってはじまったものである。息子の姉(こやまだの娘)であるこやまだ香月が、毎朝、即興でお弁当の絵を描き、それをとおるが冷蔵庫にある食材で再現する。香月の絵は、本作品に見られるように、「そら」「かざん」「マグマ」「プレート」など、さまざまなイメージにあふれている。なかには素材の指定がない絵も多く含まれている。  こうした即興的な寄せ集めと工夫によって何かをつくり上げるブリコラージュの仕草は、遊び心に満ちたプロジェクトであると同時に、家族の関係性を結ぶ役割も担っていることは明らかだ。しかし一方で、「娘の頭の中はわかりませんが、素敵な情景をよく朝一番で思いつくなー。素敵。」(2018年1月25日「海の夕焼け」)(山下樹里他 編 2021)といったとおるのことばが示すように、プロジェクトが、家族である娘の感性との「違い」を前提にしていることも重要である。確かに「社会の最小単位」としての家族には共有される感覚が存在することも多い。しかし、それは決して均質な共同体ではなく、本質的に他者同士の関係である以上、異質性が同時に前提にある。  そのようなお互いの「違い」を前提に、対等に向き合うことを可能とする「仕掛け」を設けるからこそ、異なる視点の組み合わせが生む創意工夫や関係構築の新たな希望が生まれるのだ。  家族社会に限らない、現代社会についても同じことがいえるだろう。わたしたちは主観性の違いをお互いに認めつつ、互いの共有点をおもしろがりながら探るような態度からこそ、新たな創造の可能性を共有していくことができる。こやまだはかつて、アメリカのニューメキシコの砂漠での経験をもとに、次のように書いている。 「私は他者にはなれない。でも、他者の視線は私に内在する可能性がある」(こやまだ 2005,10)  彼の《お父ちゃん弁当》は、この思想が生む相互作用の可能性を、最も身近な社会で実践した記録である。絵を通じて他者の視点を受け取り、日々の行為をもって―しかも即興とブリコラージュによって―応答を試みる。このささやかだが、かけがえのない実践は、他者性をいかにして架橋し、共生を築くことができるのか、その可能性をわたしたちに示している。 [引用・参考文献] 小山田徹、2005年、「眺めるというコト」荻原康子編『「小山田徹:しあわせのしわよせ」展―漫画家・滝田ゆうの視線とのコラボレーション』財団法人アサヒビール芸術文化財団、8-12頁 山下樹里・横山由季子・阿部優理恵編、2021年、『日常のあわい』金沢21世紀美術館監修、青幻舎 なかざきとおる《看板屋なかざき》 ありうるかもしれない世界のためのアート  なかざきとおるのアートの意味を考えることは、その表現としての特徴を理解するだけでなく、現代社会におけるアートとわたしたちの位置づけを問う問題でもある。今日、市民による文化生産の手段が急速に普及し、相互接続性が飛躍的に高まった一方で、わたしたちが声を上げるための権利やコミュニケーションの条件は決して平等なものではない。資本の多寡や社会的立場に起因する不平等のなかで、何を表現し、だれとつながることができるか、だれが発言力をもつのかが決定されているのだ。そして、このような状況は、過度に戦略的にデザインされた社会構造のなかでかたちづくられ、固定化されているようにも見える。しかしなかざきのアートは、平等を装う社会において見過ごされる生や、ありうる可能性を、デザイン風・物語風・演劇風に〈演じ返す〉ことで反転させるための試みである。  2001年頃からなかざきは、看板をモチーフとする《看板屋なかざき》シリーズを各地で展開してきた。このシリーズの特徴は、看板制作における依頼者と制作者の力関係を反転させるための、一連の制作過程を含めて作品化する点にある。まず、依頼主となかざきが契約書を取り交わし、提供された情報を看板に記載するが、最終的なデザインは制作者側に委ねられる。通常、依頼主が優位に立ち、指示や目的にしたがって制作が進む関係性を揺さぶり、両者を対等な立場に置くためである。本来、対等なコミュニケーションは、相互の考えの違いに根ざす解釈のねじれや誤解、すなわち意識的・無意識的なミス・コミュニケーションを伴う。このシリーズは、そのズレを許容する「余白」を制作過程に意図的に組み込み、制作者の主体性を保持する枠組みを構築している。いわば見えにくい力関係を、契約書や看板を通じて可視化するのだ。それは、ポストフォーディズム社会においてアウトソーシングされ、流動的かつ便宜的に使われるクリエイティブ労働の主体性を回復する所作ともいえるだろう。  しかしまた同時に、なかざきの「抵抗」は、社会運動などによる直截的な改革とは大きく異なり、看板群に見られるような心象風景や、都市の小さな物語を通じて展開することも重要である。都市の風景や物語の断片を結びつけながら、見覚えがあるようでどこにもない景色や、ときにはありえないような想像を介して「ありうるかもしれない」可能性を紡ぎ出すことで、現実社会に介入するのだ。そこには、民話や戯曲など、創作としての文芸や表現が政治的転換に大きく寄与してきた歴史と同様に、勘違いや空想を通じて新たな情動や活動が引き出される可能性が潜んでいる。だからこそ、彼の作品に触れるとき、わたしたちはその空間や時間が別の時空を指し示すような感覚を抱く。そこには、固定化されたように思える取り巻く環境が暫定的な状況であること、そしてわたしたち自身が、その状況を変える主体となる力をもちうることを自覚する契機が示されているのである。 [引用・参考文献] 竹久侑・嘉原妙編、2022年、『なかざきとおる―フィクション・トラベラー』なかざきとおる監修、水戸芸術館現代美術センター 堀切春水編、2025年、『Bluebird Sign/青い鳥のしるし』 なかざきとおる監修、混浴温泉世界実行委員会 宮永愛子《留め石》《くぼみに眠る海‒水鳥‒》見失われた存在と時間の物語を紡ぐために  わたしたちの社会は、「いま」の消費を絶えず促している。オンライン購入からメールの受信ボックスにいたるまで、いま何を買うべきか、何を観るべきかを誘うリストで溢れかえっている。時間は、いまや次々と絶え間なく消費するための資源へと変質してしまったのだ。ジョナサン・クレーリーは、現代の常時接続の社会においては、あらゆる瞬間が消費の対象となり、本来は生産しない時間であったはずの睡眠も含め、生活や知覚のための時間がすべて資本にとらわれていることを述べている(Crary 2014)。宮永愛子がガラスや石、ナフタリンなどを通じて提示するのは、このような時代に見失われがちな、過去・現在、そして未来へといたる時間をつなぎ直す物語、あるいは異なる場や視点が交差することで生まれる多層的・複眼的な物語の可能性である。たとえば《留め石》は、同じ時の流れにありながら、しかし異なる視点や物語をまたぐ作品である。福島第一原発周辺の帰還困難区域を会場とする「Don’t Follow the Wind」展を契機に制作された《留め石》を、宮永は区域の中と外、それぞれに展示した。留め石とは、本来、ある場に置くことによって、それ以上先の立ち入りを禁止することを示すものである。けれども彼女は2つの世界を区切るための石の意味を、むしろ別の場所にあっても同じく流れる時や、別の場所同士の視点の存在を相互に示し合うことで、それらの視点・物語の交差を促そうとする。宮永はいう。「あっちに行ってもこれがありますよ、私が作ったものはこれですってあえて発表することにしたんです」、と(アートライティングスクール 2021)。  さらにこの作品には、作家自身の呼気がガラスのなかに閉じ込められているのだが、当初の《留め石》制作の際、彼女は妊娠中であった。そのことについて宮永は、自身と胎児であった娘、「2人分の空気」が入っていると表現し、その後も、娘とともに呼気を込めた《留め石》を制作してきた。ここにも、異なる主観や時間の混在・併存を通じて、多層的に物語が交差する宮永作品の視点が示されている。  他方の《くぼみに眠る海‒水鳥‒》は、宮永の実家(曽祖父以来の陶房)の工場に積まれていた陶芸用の石膏型のなかの「くぼみ」(めがた部分)に眠り続けてきた100年前の「空気」に思いを馳せながら、雌型部分にガラスを注いで制作したものである。その際、宮永は、必ずガラスとともに気泡を入れる。そこには、以前から石膏像を満たしてきた空気を埋めたガラス像と、「いま」の空気が込められることによって、異なるときの移り変わりや関係性が示されてゆく。なお、今回の自由学園みょうにちかんでの展示にあたり、作家は会場の歴史や空間を考慮しながら、2羽の水鳥を配置した。それぞれの水鳥の関係性や空間との呼応にもぜひ注目してほしい。  宮永作品の重要性は、単に造形の美しさや時間の移ろいを表現する稀有な価値にとどまらない。それは、作品が置かれた場所や、別の場所との関係性が生み出す物語による、あるいは、歴史の盲点やつながりを拾い上げることによって示される視点による、社会的な示唆をも含んでいる。そして彼女の作品は、空間と時間を超えて複数の視点を交差させることで、わたしたちに「ここ」、そして「いま」の意味を問い直す契機をも与えてくれるのである。 [引用・参考文献] Crary, Jonathan, 2014, 24/7 : Late Capitalism and the Ends of Sleep, London; New York: Verso Books.(岡田温司監訳・石谷治寛訳、『24/7―眠らない社会』NTT出版)アートライティングスクール、2021年、「宮永愛子インタビュー[前編]―3日後につながる隠し扉とは?」、アートライティングスクールnote、(2025年9月13日取得,https://note.com/artwritingschool/n/n5369568256d9) 浅田真帆、2024年、「インタビュー」『宮永愛子―詩を包む』長田実穂他編、富山市ガラス美術館 [「居場所とわたし」展示解説 終了] [288ページ、おわりに開始] おわりに  文化が形成する居場所のルールを守る。それに適応することで得られるウェルビーイングを学ぶ。それはある種の正義と正解に答えを合わせた受動的振る舞いかもしれません。社会的範例を確認し、共有することに比重を置いたのが、前回の「だれもが文化でつながる会議」のテーマである「文化と居場所」。その経験を経て、今回は、あらためて居場所と自分自身の関係について考える「居場所とわたし」をテーマとしました。  「わたし」という自明の存在が意識されることにより、議論は「わたし」を主体とする能動的なウェルビーイングを捉える場へと質的にも劇的に変容しました。それはクロージングセッションのテーマ「わたしの居場所」に端的に示されています。能動的な「わたし」が、未来には当たり前となる「居場所」を考えること。いまだない新しい何かを生み出す主体者としてアクションを起こす、現状への過度な追随や迎合とは一線を画す姿勢です。文化の可塑性を知る大学や芸術文化の現場こそが、「未来のあたりまえ」を用意する社会的役割を担うべきであり、同時に、だからこそ必要なのだ―このようなことが語られ、会議は幕を閉じました。  「だれもが文化でつながるオータムセッション2025」の登壇者の多くは、長い年月をかけ道なき道を歩み、その地平/土壌を開拓してきた先達者たちです。かれらの言葉には、知識に経験が加味されて昇華した、身体化された実践知とやわらかな温もりがありました。その言葉に会場全体が包容され、わたしたちは共感し、理屈を超えてウェルビーイングの背後にあるものを体感できたように思っています。  このような時間が醸し出された一因には、明らかに「場の力」があります。羽仁もと子・吉一夫妻が1921年に創立した自由学園の学び舎であるみょうにちかんは、関東大震災、東京大空襲を耐え、1960年代以降の猛烈な都市開発の波にも抗ってきました。その後は保存への強い支持を受け、1997年に重要文化財に指定されました。修復を経て現在も人々が集い活用する、動態保存がなされています。  この源流には、羽仁もと子の強靭な思想と実践があります。自分の生活を自ら創る自由学園での教え。個人の自立を日常生活の場から促した「家計簿」や雑誌『婦人之友』の発刊。いまの時点から見ると、これらはどれも「未来のあたりまえ」を創出する見事なプレフィギュレーション(先取的実践)です。次々に思想を行動に移した羽仁もと子は、教育者、ジャーナリスト、編集者といった肩書き以上に、芸術文化と社会運動を生活のなかで融合させたアーティビスト(Artivist)としていきた、「生活圏」とアートをつないだ偉大な先駆者として、必要な登壇者だったのです。この4日間はわたしにとって、自由学園みょうにちかんの空間に脈々と受け継がれ、息づいている何ものかに触れられた時間でした。個人の自立を基本にしながら、他者とつながる「間柄」にウェルビーイングが生まれる手触りを、時代を超えてこの場所にかかわる人々の存在から、感じとれた気がしています。 アーツカウンシル東京 もりつかさ [おわりに終了] [292ページ 奥付 開始] クリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョーとは  乳幼児から高齢者まで、障害の有無、言語・文化の違いを超えて、多様な人々が文化事業に参加し、ともに創造していくための環境整備や調査・検証・開発に取り組むプロジェクトです。芸術文化を通した共生社会の実現を目指し2021年度に始動。東京都の2030年に向けた文化政策(「東京文化戦略2030」)に基づき展開しています。 都立文化施設やアーツカウンシル東京で展開する文化事業等のアクセシビリティ対応においては、来館・参加するまでの情報提供やサービスの向上、鑑賞・参加体験を豊かにするための取り組みの促進、障害当事者等の企画運営への参画を推進し、だれもが芸術文化にアクセスしやすい環境をめざします。  また、芸術文化によるウェルビーイング向上にかかわる国内外の実践者とのネットワークを醸成し、プロジェクトの実践を通して、共生社会の実現に向けた取り組みを発信します。 はじまっていた「未来のあたりまえ」 Creative Well-being Tokyo だれもが文化でつながるオータムセッション2025 「居場所とわたし」の4日間をじっくり味わうための本 企画 森 司、坂本有理、岡崎未侑、樋口菜奈(公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京) 編集 多田智美、鈴木瑠理子、永江 大、白井 瞭(MUESUM) 執筆協力 出射優希(MUESUM)、髙橋そう、浅見 旬、有賀みずき デザイン タキ加奈子、片平有美(soda design) DTP 株式会社ツー・ファイブ印刷 ベクトル印刷 写真 金川晋吾(1ページから8ページ、13ページ、155ページから159ページ、 186ページ、273ページから280ページ)、 阿野太一(表紙・裏表紙、201ページから207ページ)、 齋藤彰英、森 勇馬、佐藤えりか(101ページ、112ページから113ページ、124ページ、212ページ、219ページ、221ページ、231ページ、236ページ、242ページから243ページ、247ページ、251ページ、269ページ上、271ページ、273ページ) プロフィール写真 池田 宏(19ページ、161ページ 森 司、253ページ 佐藤李青)、 梅田彩華(57ページ 富塚絵美)、小禄慎一郎(217ページ 石井健介)、 川瀬一絵(244ページ 佐藤慎也)、草本利枝(105ページ じゃれお 理)、 栗原 論(81ページ 駒井由理子)、品田裕美(105ページ 齋藤紘良)、 清水朝子(39ページ 唐川恵美子) 松蔭浩之、Courtesy Mizuma Art Gallery(19ページ 宮永愛子) Hana Yamamoto(260ページ 渡辺龍彦) 発行 2026年3月31日 公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京 〒102-0073 東京都千代田区九段北4-1-28 九段ファーストプレイス5階 https://www.artscouncil-tokyo.jp 本書に記載のURLは発行時点のものです。 *営利・非営利問わず、本書のコンテンツを許可なく複製・転用・販売などの二次利用することを禁じます。 ©アーツカウンシル東京 2026, Printed in Japan ISBN 978-4-909894-68-7 C0070 [奥付終了] [裏表紙] [写真:中央にカラー写真。なかざきとおるの船をかたどった作品。下にロゴ3つ。左から順に、クリエイティブウェルビーイングトーキョー、東京都、アーツカウンシル東京。]