クリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョー だれもが文化でつながるプロジェクト

トークセッション6「デフリンピックに向けて」

2023年11月10日(金曜日)

  • だれもが文化でつながるサマーセッション2023
  • 日時:2023731日(月)10時00分〜11時30
  • 場所:東京都美術館 講堂
  • 登壇者: 大杉 豊(筑波技術大学教授、国際ろう者スポーツ委員会副会長)、清水 言一(喜多能楽堂館長)
  • モデレーター:江副 悟史(日本ろう者劇団代表、俳優、手話表現者)
  • 手話通訳:加藤 裕子、蓮池 通子、長谷川 美紀、山田 泰伸

2025年東京開催の第25回夏季デフリンピック競技大会を前に江副 悟史

セッション6画像2_DSC6068.jpg
▲江副 悟史さん

江副:2025年に東京で、耳の聞こえないアスリートのためのオリンピックである「第25回夏季デフリンピック競技大会」が開催されます。このセッションではデフリンピックを視野に、ろう・難聴者と共に芸術文化を楽しむための文化プログラムや、文化施設の活動をどのように行っていくかについて話し合いたいと思います。

まず、大杉先生から、デフリンピックについて、その経緯や活動目標についてご講演いただきます。続きまして清水さんから、喜多能楽堂での聞こえない人も楽しめる能楽の取組や、手話通訳が付いた能から現在の「手話能」へと移り変わった経緯について、お話しいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

世界のデフスポーツの現状と、第25回夏季デフリンピック競技大会に向けた展望:大杉 豊

セッション6画像3_DSC5825.jpg
▲大杉 豊さん

大杉:筑波技術大学で、耳の聞こえない学生に対して、手話言語やろう者学についての指導をしています。また、デフリンピックを統括する「国際ろう者スポーツ委員会」の副会長としても、世界各地のデフ(ろう者)スポーツ振興に取り組んでいます。

今日は世界のデフスポーツの現状と、2025年に開催される第25回夏季デフリンピック競技大会に向けた展望についてお話ししたいと思います。

国際ろう者スポーツ委員会の歴史

まず、国際ろう者スポーツ委員会の歴史について簡単にご説明します。1924年の5月から7月にかけて、フランスのパリにおいて、オリンピック競技大会が開催されました。第1次世界大戦が収束し、スポーツを含む様々な国際交流が再開された頃です。

その直後である1924年の8月から、同じパリで第1回「国際サイレント競技大会」が開催されました。サイレントは音がないという意味ですね。ヨーロッパの9カ国から148名の選手が参加し、陸上、自転車、飛び込み、サッカー、射撃、水泳、テニスの7競技を行いました。ちなみにこのとき、女性選手の参加は1名のみ。当時の社会の状況が想像できるのではないかと思います。

この第1回「国際サイレント競技大会」を契機にして、国際ろう者スポーツ委員会(ICSD)が立ち上がります。国際ろう者スポーツ委員会は国際オリンピック委員会の次に設立された国際的なスポーツ競技団体としても知られています。ずっと後になる1989年に設立された、国際パラリンピック委員会より古い歴史を持っています。

国際パラリンピック委員会ができた際に、国際ろう者スポーツ委員会も加盟したのですが、1995年に脱退しています。この経緯については筑波技術大学名誉教授の及川 力先生が論文を書かれていて、脱退の背景要因として①各団体の議論不足、②手話通訳への理解不足、③障害当事者の重要性の欠如という3点を挙げられています。

①については、今のようにインターネットもない時代でしたので、加盟団体同士でのコミュニケーションが非常に少なく十分な協議ができなかったことがあります。②としては、ろう者が参加する際にはコミュニケーション保障として手話言語通訳が必要ですが、手話言語通訳への理解不足と派遣における財政の問題がありました。③についてですが、国際ろう者スポーツ委員会では、全ての理事や役員をろう者が担当し、当事者が主体となった運営が続けられ、各国のろう者スポーツ協会と強力なネットワークを築いています。しかし、国際パラリンピック委員会においては、当事者の参画自体が重要視されることはありませんでした。

これらはスポーツ団体の問題というよりは、今から30年ほど前の当時の社会が、耳が聞こえない人と手話言語を受け入れる準備ができていなかったのだと言えると思います。

社会の理解不足がデフスポーツに与える影響

ここでキーワードとなるのが「デフスポーツ」です。耳が聞こえない人の社会参加を考えるとき、就労や医療場面などと同様に、スポーツ分野もそれに含まれますが、今もなお高い壁が立ちはだかっています。

例えば、耳が聞こえない選手が一般の競技大会に参加するときに、審判の笛の音が聞こえない、選手を呼び出すアナウンスが聞こえないなど、情報アクセシビリティの問題が大きな部分を占めています。審判に質問をするときのコミュニケーションの問題もあります。社会における聞こえない人への理解不足が起因して、大会運営費や派遣費用などが足りないという問題も多く生じています。

ろう者が集まってスポーツ大会を実施し、運営も担当して集う中で、手話言語を通じて互いに共にスポーツを楽しんだり、精神や身体の技術を鍛えていくという視点もあります。聞こえない人がスポーツ活動を通して手話言語を使う環境を確保し、さらに国際大会で国際手話を通して国際交流を深めて成長する、という事実もまだ広く認識されているとは言えません。社会の側から見ると、他の障害者もいるのでそこに一緒に入ったら良いのではという見方をされてしまうわけです。その「ずれ」を伝えていきたいのですが、なかなか伝わらないという状況です。こうした社会的な要因があったからこそ、国際ろう者スポーツ委員会の設立に社会的な意義があったと言えましょう。

聞こえない人の求める生き方を社会に主張するための表現

1980年代には、国連の障害者年を契機として各国で政府キャンペーンが展開されました。障害者福祉の発展があり、耳が聞こえない人と手話言語に関しても、手話言語の講習会や通訳者の養成を拡充する国が増えてきました。

2000年代に入ると、国連の障害者権利条約に代表されるように、一人ひとりが人権を持っているという人権重視の見方が広がってきました。障害のある人たち自身が求める生き方を社会が認め受け入れる準備が少しずつ整ってきたと言えるでしょう。手話は言語であるという見方も少しずつ広まり、社会に対するろう者の考え方、また社会の中で生きているろう者の生き方の変革が少しずつ進んでいきました。

そのような中で、国際ろう者スポーツ委員会が2003年に制定したロゴを紹介します。聞こえない人の求める生き方を社会に主張するための強力なインパクトを持つもので、3つのコンセプトが図案に込められています。それは「手話言語」「ろう者の文化」「各国の文化」です。

画像4.png

手話言語が目で見る言語であるように、ろう者は目で見る生活の中でろう者特有の文化を発展させてきました。ロゴでは手の形が重なっているように見えますが、中心の円は目を意味しています。目が重なり、カメラのピントを絞る動作とも似てますね。また、色は青・黄・緑・赤で世界の4地域を象徴し、全ての人々が平等に扱われ、公平な利益を享受することを意味しています。このロゴはいわば、デフスポーツのコミュニティを象徴しているものと言えると思います。

皆さん、オリンピックのロゴは見たらすぐにオリンピックだとおわかりになると思います。デフリンピックのロゴも、2030年後には、このマークを見たらデフリンピックだと100%認知していただけるようにしたいと思います。そのためにもっと社会に伝えPRしていくことが必要です。

設立100年を迎える現在と将来

国際ろう者スポーツ委員会は、1924年に設立して以来、来年で100年を迎えます。100歳の誕生日を来年迎えることになるわけです。

2020年の東京オリンピック・パラリンピックのNHKテレビ中継では、耳が聞こえない人と聞こえる人の協働による手話言語通訳、手話言語解説が付いたのが画期的な、大きな一歩でした。世界的にみても情報アクセシビリティの向上が着実に進められています。

30年前に国際ろう者スポーツ委員会は国際パラリンピック委員会を脱退しました。私は今後も加盟することはないと思います。なぜかと言いますと、やはりろう者のスポーツ大会はろう者が主体的に運営し、多くのろう者の選手同士が競い合うことに意味があるからです。その一方で、社会におけるろう者や手話言語に対する理解もより広まり深まっていますので、国際ろう者スポーツ委員会が新しい形で国際パラリンピック委員会と連携・協働する機会がまもなく訪れるのではないかと考えます。

そのために、国際ろう者スポーツ委員会が率先して取り組むべきことが3つあります。一つ目は、国際組織としてのグッドガバナンスの遂行です。簡単に言うと、役員が役員だけで勝手に進めていくのではなくて、透明性の確保と、説明責任の徹底、組織体制をきちんと固めこれを社会に対して示していくということです。

2つ目はデフリンピックと世界ろう者選手権大会の発展です。日本においても2024年に世界ろう者バレーボール選手権大会が沖縄の豊見城市と糸満市で開催の準備が進められており、そしていよいよ2025年に東京で第25回夏季デフリンピック競技大会が開催されます。

そして3つ目は、青少年のデフスポーツ推進です。20241月にブラジルで第1回世界ろう者ユース競技大会を開催します。14歳から18歳までの選手が参加できます。この大会では国の枠を取り払った混合チームによる試合を予定しているほか、セミナーやワークショップを開催して未来のデフスポーツのリーダーを育成することを考えています。

ここまで、世界のデフスポーツの現状と第25回夏季デフリンピック競技大会に向けた展望をお話ししました。最後に、私が国際ろう者スポーツ委員会の先頭に立ってこれらの取組を推進していくにあたり、筑波技術大学の皆さん、全日本ろうあ連盟、東京都聴覚障害者連盟など、周囲の皆さまからの力強いサポートを受けています。

東京都とも連携して、第25回夏季デフリンピック競技大会の準備を進めているところです。都民の皆さま、また国民一人ひとりの皆さまからの応援が大きな力になります。2025年は一つのきっかけです。このきっかけをそれまでの準備、今後も含めてさらに、ろう者、手話言語、そして新しい共生社会の創造に向けて、私も微力ながら全力を尽くしたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

喜多能楽堂「手話能」の取組から:清水 言一

セッション6画像5_DSC6086.jpg
▲清水 言一さん

清水:喜多能楽堂の館長の清水と申します。喜多能楽堂は、能の5流派の1つ「喜多流」の本丸(本拠地)として、品川区に創建されました。今、この建物が50年経ったことから休館をして、2年弱の大規模改修工事をしています。2025年の年明け早々になると思いますが、新装開場記念公演で皆さまをお迎えしたいと思っております。

「手話狂言」との出会い

今日は「手話能」という言葉が飛び交っているのですが、おそらく多くの方は「なんだろう?」と思っていらっしゃると思います。今日は手話能について、誕生までのお話をしたいと思います。

喜多能楽堂では能の普及活動として、子供や、外国の人、地元区民など、能楽初心者の方に向けていろいろな取組をしています。ですが、最後まで障害のある人のためにどのように能を届けることができるだろうかという課題が残っていました。喜多能楽堂は非常に古い劇場でバリアが多いんです。

一方で、耳が聞こえない人のために何ができるのかなということも考えました。その際に、できるだけ聞こえる人も聞こえない人も一緒に楽しめる公演について思いを巡らせたのです。

そんなある日、私は品川区の大崎駅のすぐ近くを歩いていて、たまたま社会福祉法人トット基金の建物の前を通りました。トット基金は黒柳 徹子さんが設立された社会福祉法人なのですが、ここを拠点に「手話狂言」の皆さんが活動してらっしゃったんです。日本ろう者劇団さんによる手話狂言は、何しろ38年くらいの歴史があって、前々から存じ上げていました。創立メンバーに大杉先生もいますし、いま代表を務めていらっしゃるのが、こちらの江副さんです。

手話狂言を演じているのは、日本ろう者劇団に所属する耳が聞こえない俳優の皆さんです。手話狂言の指導をされているのが、狂言和泉流の声の狂言師の三宅 右近先生です。本番では放送室から先生が声の出演をして、ろう者劇団の皆さんの演技に、セリフを当てているという形の公演です。会場にいる手話がわからない聞こえる方も、普通に演技をご覧になることができます。聞こえない方は、演者の手話で何を表現しているのがわかります。聞こえる人も聞こえない人も楽しめる一つの完成されたスタイルで非常に評価も高く、この公演をやってらっしゃるところにたまたま私が行き当たったということです。

そこでは、ろう者劇団の先生が、手話を教えていました。だったら、上演に手話の同時通訳を付けて解説するということができないかなと思いました。それで早速、お電話したところ、やってみましょうということになりました。

手話通訳付きの能と、前代未聞の手話演技の間狂言(あいきょうげん)

演目に手話の同時通訳を付ける「手話通訳能」をどのようにしたかというと、客席の上手と松の木があるところの2箇所に手話通訳の方に立っていただいて、お二人が客席に向けて手話で同時通訳をしながら、舞台では通常の能が演じられるという形です。

画像6.png

まず、手話通訳の台本を仕立てるために、能の古い言葉で書かれた詞章を全て現代語訳にして、段落ごとに番号を振りました。手話通訳者の前にプロンプターを置き、その場面になったら台本を表示して進めていくという形です。手話通訳の方は振り返って舞台を見ながら通訳をするわけにはいかないので、きっかけをプロンプターに出す人を客席に置いて進めていくやり方にしてみたのです。

1回目の公演は、2016年だったのですが、そこから思いがけない展開になりました。「黒塚」という能の演目だったのですが、前半と後半を繋ぐ間狂言という場面があります。それを演じられている狂言師の三宅 近成さんは、日本ろう者劇団の手話狂言の指導をされている方だったのです。三宅さんは、手話がお出来になります。ですが、手話狂言のときには放送室から声で出演しているので、本人は舞台には出ないんです。

そこで私が、「手話をやりながら、この場面を演じていただくことができないでしょうか?」とお願いをしたところ、「やってみましょう」ということになったんです。さらに、三宅さんと掛け合いをする山伏役の安田 登さんが、三宅さんが手話でやると聞いて、「それだったら僕も手話を勉強して、掛け合いを手話でやります」という話になりまして。ここに、前代未聞の「手話演技の間狂言」が誕生しました。第1回目で、思ってもみなかった試みが実現してしまったのですけど、それから、回を重ねて、3回目からは「船弁慶」という新しいレパートリーの公演も続けてきました。

「手話能」という新たなジャンルへ

トット基金では、毎年手話狂言の会を国立能楽堂で主催されています。令和31月の公演は、特別上演として手話能「土蜘蛛」の初演でした。ご指導をいただいている三宅 右近先生から、「今度はお正月の国立能楽堂の公演で、土蜘蛛というのをやるのだけれど、能楽師全員手話の演技をやってください」という課題が与えられました。みんな、どう思ったのか。とうとう来ちゃったなという思いもあったと思うのですけれど。

これまではワキ方(主役の相手役や助演役)だけが手話の演技をしていたのですが、そこで初めて、シテ(主役)からワキ方まで能楽師全員が手話を交えて演じる形の能ができました。ご存知の通り狂言というのはセリフ劇なので、手話による表現で大体の言葉が伝わるのですが、能の場合は地謡と言いまして、語りの部分をコーラスで担当します。そこで、地謡のときには以前と同じように2箇所に手話通訳に立っていただいて舞台を進行しました。8月の喜多能楽堂での第5回の公演も同じように実施しました。

画像1.png
▲左:三宅 近成さん(狂言方) 右:大島輝久さん(シテ方)

そうしていよいよ、第6回です。昨年、2022年の7月の開催だったのですが、その際にはさらなる工夫を加えました。地謡の部分も出演者の手話によって、できるだけわかりやすい振り付けをしてみようと。手話通訳なしで、完全に演者の手話演技だけで完結するというものを作ってみたのです。

その際の能の振り付けを全部やってくださったのが、隣にいらっしゃる江副さんです。能らしい手話ってどういうものだろうというのを、出演者と何度もディスカッションと稽古を重ねて振り付けしていただいた結果、「手話能」の土蜘蛛ができました。これまでは「手話通訳能」と名称をつけていたのですが、手話通訳なし、全て手話演技で最後まで通すというのが実現できて、これで本当の意味で「手話能」ができたのではないかと思います。

手話狂言は元々ありました、そして手話能が新たにできました。能の世界では、能と狂言を合わせて「能楽」という言い方をするので、それになぞらえて、ここに「手話能楽」が誕生してしまったと言っていいのではないかと話しています。時間が長くなりましたが、手話能が生まれるまでのプロセスをご紹介させていただきました。振り付けのご苦労などを、江副さんにもお聞きしたいと思います。ありがとうございました。

デフリンピック後にもつながる多様な表現と選択肢を

セッション6画像8_DSC6127.jpg

江副:ありがとうございました。まず、自分も手話監修として指導も担当させてもらった手話能についてです。これは自分でも発見だったのですが、これまでの手話狂言のやり方と手話能のやり方には違いがありました。例えば月というのは、手話でこのように表します(親指と人さし指で三日月の形を描く)。けれど能の場合、能に合った手話表現をということで、このように細長い月が能的な雰囲気が伝わるのではないかとご提案いただき表現しました。これまで手話狂言は約40年間続いてきましたが、改めて自分の手話表現が能にあった美を表現できているのかという新しい発見がありました。

清水:手話能の前に、手話通訳能というステップを経たと先ほどお話ししました。手話通訳能をやるときに一番心配したのは、聞こえるお客さまから「手話が前にあると邪魔だ」という声が出ないだろうかということです。ところが結果としては全く逆で、むしろ「手話ってこういうものなんだ」と、皆さんが手話というものを発見したと。さらに演者からも、「手話と能がこんなに親和性が高いとは思ってもみなかった」という声が上がったのです。

舞台上の地謡では、コーラスの人たちは目の前に手話通訳が見えるわけです。すると、自分たちの歌がこのように手話で表現されるのかと知り、それがすごく合っているということでした。手話は言語であり、それのみならず一つのパフォーマンスなのかもしれないなと、そんな発見もありました。その後、手話通訳なしの「手話能」の公演に至ったわけですが、そのときにいただいたお声で嬉しかったのは、初めて能を見た方から「どこが手話でどこがいつもの形なのかがわからない。元々こういうものだったんじゃないか」というお声をいただいたことです。

実はそれ、江副さんたちが目指してくださったことなんですよね。手話の演技と通常の型の区別がつかないぐらい、自然に行くようにということを目指していただいた、その結果が見事にうまくいったなと。するとさぞかし演者は手話で演技するのが大変だったんだろうなと思うわけなんですけども、実は能の出演者は、手話を全部マスターした上で手話演技をやっているわけではないんですね。あくまでも自分のパートだけを、江副さんの振り付けていただいた振りを着実に形にしていくという形で作り上げています。それは、能というものは型で作り上げていく演劇スタイルですので、能楽師の皆さんは、子供のときから型を徹底的に訓練されています。手話もあくまでも型として、自分のものに昇華することができ、意外にも成立したというのがあると思いました。非常に面白い結果だったんじゃないかなと。このようなところをデフリンピックでも、日本の伝統芸能からの発信としてアピールできたら面白いのではないかと思っています。

江副:大杉先生にデフリンピックについてうかがいます。例えばオリンピック・パラリンピックの場合は、スポーツと文化、教育、この三つの柱を考えて行わなくてはいけないということがあります。デフリンピックの場合はいかがでしょうか。

大杉:デフリンピックを実施するための規則というものがあります。まず、開催地です。選手や関係者が、その開催都市の皆さんと交流できる場を作るということが掲げられています。これは、東京開催であれば、東京都聴覚障害者連盟や地元の人たちが進めていく部分になります。

江副:デフリンピックを様々なところで開催する中で、その地域の文化や美術館等とつながっていくような動きはありましたか?

大杉:過去のデフリンピックで良かったと感じるのは、学校との交流です。選手が、試合のないときに、地元の小・中学校に行って交流をするんです。学校のほうでも、前もって選手を迎えるための学習をしていて、そうした交流を見たことがあります。

江副:デフリンピック開催まであと2年と迫っていますので、都民や文化施設関係者がろう者とつながり、また様々な国にアピールできる機会やプログラムをぜひ考えていただければと思います。日本の演劇等については、清水さんも、東京オリンピック・パラリンピックのときに文化プログラムに携わっていらっしゃいましたが、いかがでしょうか?

清水:手話には国際手話というものがありますよね。海外の方にも伝わるように、国際手話で手話能をやるという試みはどうかなと思って江副さんにも相談したんですけれど、まだ時期尚早じゃないの、とおっしゃいました。江副さん、この機会にどうでしょうか(笑)

江副:なるほど(笑)国際手話についてですが、2015年に日本ろう者劇団で、フランス、イタリアで手話狂言の公演をしたんです。その際に、初めて国際手話で行いました。狂言は日本文化を含めた演劇であって、手話も日本文化に含まれています。ですので、その双方の関係性があり、狂言と日本手話は非常に相性がいいと思います。ただ、国際手話を使用した場合には、そこに文化がないので、今、自分がどこの国の人なのかという戸惑いが生じながら演じました。例えば「何」という手話は国際手話の場合には「WHY」と表しますが、狂言の型として、演じている私たちの立場としてはどこか違和感を覚えたんですね。外国の方々からは、非常に評判がよかったのですが。

大杉:すごく面白い話だなと思いました。確かにそう言われると、日本の狂言と国際手話を一緒にやるというイメージはちょっと私もできません。ただ、国際手話に文化がないとおっしゃいましたが、そこはちょっと違うのではないかなと思います。日本手話言語には日本に根付いたものがあります。国際手話は何かというと、国際的なものの文化がそれぞれに集まっている形だと思います。

江副:逆に清水さんにおうかがいしたいのですが、能、そして狂言は英語での音声もありますか?

清水:武蔵野大学で教鞭を長くとっておられるリチャード・エマート先生という方が、英語能のグループを作っています。題材はエルヴィス・プレスリーとか、オッペンハイマーというのもありました。主に新作の英語で演じる英語能です。隅田川の台本を全部英語に翻訳して、英語の節付で上演したという例もあります。国際手話についても今の段階ではまだわかりませんが、ぜひ検討しましょう。楽しみな結果が待っているという感じはします。

江副:東京オリンピック・パラリンピックが開催された際に、国立能楽堂では、席の前にあるモニターに、英語やフランス語など様々な言語の字幕が選択できる形で映っていました。さらに日本手話があって。表現自体については、今後相談していけると思います。デフリンピックが目指す新しい取組や可能性にも期待したいです。

大杉:清水先生のお話で、以前は能の舞台の前に手話通訳者が立っていたとありました。シアター・アクセシビリティ・ネットワークと協働して研究している萩原 彩子先生(筑波技術大学)によると、舞台演劇における通訳に「額縁型(舞台袖に固定)」や「内包型(例:ムーブアラウンド:役者の動きの中に入り込み、より作品に関与した形で行う)」の2パターンがあります。この分類を広げると、演者自身が手話で行うという選択肢もあります。演劇の種類や演じる場所などの条件によって選択することが、今ならできると思うのです。今後演劇だけでなくスポーツに関しても、今の場面にはどの通訳があっているのかということを話し合っていくことに意味があるのではないかなと思います。

江副:確かにそうですね。演劇というと、私の場合はテレビ関係の仕事が多いのですが、ろう者自身がろう者の役を手話で演じるという場合に、ろう者としては非常に心地良いものを感じます。選択肢の幅が広がるということだと思うんです。これからのデフリンピックに向けた2年間で、私たちができることを少しずつ進めて社会の変革につながっていけばいいなと思います。最後に一言ずつコメントをお願いします。

大杉:今日はお話ができて楽しかったです。今この会場で終わってしまうのではなくて、ろう者自身がどのように何を伝えたいのかということや、ろう者と聞こえる人のずれをどのように皆さんに理解してもらうのか。いま第4公募展示室にもろう者の表現が展示されていますが、今回だけではなく、今後もどんどん続けていきたいと思う内容です。ぜひ時間を作って展示もご覧いただければと思います。ありがとうございました。

清水:今、スマホでドラマも映画も簡単に見られる時代になりました。コロナ禍で、映像で舞台を配信することもずいぶん行われてきました。そういう時代の中で、演劇ってどうなんだろうかという声があるのはわかるんですけど。先ほどご紹介した三宅 近成さんが、初めて手話で、手話能の演技をされたのを見たときに、背筋がぞわぞわした記憶があります。そういうものを味わえる空間を共有することの大事さを、我々は忘れちゃいけないと思っています。ありがとうございました。

江副:いまテレビドラマや映画、演劇で手話ブームだという言葉をよく聞きます。でも、私の中では手話ブームは終わりません。ブームではなく、ろう者の文化、言語というものは社会の中ではずっと消えることがありません。現在ではIT技術が向上して演劇を観る方法、楽しみ方、美術館、博物館に行って様々な楽しみ方、見方があるかと思います。そういった技術をさらに使って選択肢をさらに広げてほしいと思います。今やった方が後々、様々なことにつながりさらなる変革につながっていくのではと思います。今から皆さんと一緒に、2年後のデフリンピックを目指して、そしてその2年後が終わりではなく、10年後、100年後、その後もずっと一緒に頑張っていければと思っています。ありがとうございました。

text by 平原 礼奈)